みことばの花 200217「友」

みことばの花 200217「友」

「わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。」
(ヨハネ 15:15 口語訳)

上記はイエス・キリストがその弟子たちに言われた言葉です。
ここでキリストは弟子たちに「わたしはあなたがたを友と呼んだ」と言われます。
友というのは上下関係を取り払った言葉です。
「あの人はわたしの友である」からと言われることはとてもうれしいこと。
は人にとって目標にしている人だとか、雲の上のような存在に思える方から「あなたはわたしの友だ」と呼ばれるならばどんなにうれしいことでしょう。
さてキリストがわたしを友と呼んでくださる条件も書きとめておきたい。
あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(ヨハネ15:14 口語訳)。
キリストに友と呼ばれる人にならせて頂きたく私は強く願うのです。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200216「SDA型人間」

みことばの花 200216「SDA型人間」

「神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。
これはあなたがたの食物となるであろう。」(創世記 1:29 口語訳)

古い記事ですが内容はいまだに新しいと思えるもの。
それは、「平山さん(国立がんセンター研究所長)は、たばこを吸わず、飲酒、肉食を毎日はせず、しかも緑黄色野菜を毎日とる節制型の人たちをSDA型と呼ぶ。逆に、喫煙、飲酒、肉食を毎日続け、緑黄色野菜を毎日とらない人たちを逆SDA型と呼ぶ。
前者が後者よりも、がんはもちろん、多くの病気の死亡率において異常に低いことがわかった。みごと、といっていいほど低い」という一文。
SDAは私の所属するセブンスデー・アドベンチスト教会の略ですがこのSDA型人間とは、
上記の聖句にある食物を神様が人間に与えられたと信じ、生活の中に取り入れている者のことです。
今日も主の愛と守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200215「復活」

みことばの花 200215「復活」

「使徒たちは主イエスの復活について、非常に力強くあかしをした。そして大きなめぐみが、彼ら一同に注がれた。」(使徒 4:33 口語訳)

キリストが十字架にかけられてお亡くなりになられたとき、
キリストの愛弟子(まなでし)たちは、ユダヤ人たちをおそれて隠れ家の戸をしっかりしめていました。
主イエスが殺害された次は自分たちではないかと考えていたからでしょう。
ところがそこに死なれたはずのキリストが入って来て「安かれ」と言われます(ヨハネ20:19参照)。
キリストは復活されたのです。
この事実を目の当たりにした弟子たちの行動は見違えるようになりました。
矢も剣も恐れなくなったのです。そしてキリスト教が全世界に宣教される原動力になりました。
今日は第七日安息日、説教題を「復活」にしました。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200214「愛情」

みことばの花 200214「愛情」

「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」
(ピリピ 2:1、2/新改訳改訂3

一昨日、「情の人ノムさん、野球とサッチーを愛した人生」という言葉を見ました。
「ノムさん」というのは、ご存じの野球選手&野球監督&野球解説者です。
残念なことに11日に84歳で人生を終えられました。
選手としては名捕手で三冠王、監督としてはID野球と野村再生工場(戦力外通告になった選手を指導し再び活躍させたのでそう例えられた)、
解説者としては緻密な野球解説者で知られていました。
私はプロ野球ではヤクルト球団びいきですので、野村監督時代は特に思い出深い。何よりも愛情深いお人柄。

上記には愛の慰め、愛情、愛の心という言葉があります。
わたしも愛情深い人になりたいと願うのです。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200213「間違いのない幸福」

みことばの花 200213「間違いのない幸福」

「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(ピリピ 2:4 口語訳)

「間違いのない幸福」という言葉を語った人に、ロシアの文豪トルストイがいます。
彼は「間違いのない幸福がただ一つある。それは他人のために生きることである。」と述べています。
近年、○○ファーストという言葉が、語られ始めて久しくなりますが、これはつまるところ自分が一番という。
自分を本当に幸せにしたいならば、他人のために生きること。
人が幸せになって、自分も幸せになれる。
人間はきっとそのように造られているのだと思います。
上記の聖句は、自分のわがままな心に常に待ったをかけてくれる尊い御言葉です。
私を真に幸福にしてくれる御言葉なのだと思います。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200212「完璧な人」 

みことばの花200212「完璧な人」 

「そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、
訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。
それは彼が忠信な人であって、その身になんのあやまちも、とがも見いだされなかったからである。」(ダニエル 6:4 口語訳)

今、私どものセブンスデ―・アドベンチスト教会では世界共通のテキストとしてダニエル書を学んでいます。
ダニエル書は実に面白い。
わずか12章の中に逆転のドラマあり、数々の預言ありで学ぶ人を飽きさせません。
上記はダニエル自身の生き方を記録したものです。
「彼が忠信な人であって、その身になんのあやまちも、とがも見いだされなかった」とあります。
このように言い切れるのは、彼が常に天の神の御品性を見つめていた結果なのだと思います。
自分の生き方をこのように記録できる人に、少しでも近づきたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 200211「自分に戻ってくるもの」

みことばの花200211「自分に戻ってくるもの」

「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。」(ヤコブ 2:13 口語訳)

昨日の「みことばの花」を配信した後で、ふっと思い出した御言葉があります。
それは上記の聖句です。
人の「あわれみ」というのはどこか上から目線のような気がしてしまうのですが、
「さばき」の心に打ち勝つ一つの心の持ち方として受け止めていくならばそれも良いと思います。
「さばき」の心は自分自身にもやがて戻ってきます。
さばくものはさばかれる、これが世の常です。
聖書には「隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか」(ヤコブ4:12 口語訳)とある。
主イエスが語られた「あわれみ深い人は、さいわいである。彼らはあわれみを受ける…」(マタイ5:7 口語訳)によれば、
「あわれみ」というものもまた自分に戻ってくるようです。
今日もあわれみ深い主の恵みがあふれる一日でありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200210「珠玉の言葉」

みことばの花 200210「珠玉の言葉」

「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」
(Ⅰペテロ 5:7 口語訳) 

昔の連続ドラマで「おしん」というのがあります。
今BSでその再放送がされています。
かつての最高62.9%、平均52.6%の驚異的な視聴率は、もはや伝説。
「おしん」はがまん強くて一生懸命で家族思い。
心が折れそうなこともやり通す。
子ども時代の主役を務めた小林綾子さんは、「これからいろいろな人と出会い、大変なことがあるだろう。
意地悪や理不尽なことを訴えても変わらず、
それでも横車を押してくるような人はかわいそうな人だと思ってあわれんでやりなさい」という俊作兄ちゃんのせりふは
特に心に残っているとのことです。
考え方ひとつで、生き方にはずみがつきます。
上記の聖句もまた、大変なことと背中合わせの人生に、はずみをつけてくれる珠玉の言葉だと私は思います。

磯部豊喜