みことばの花 200306「人間の美点」

みことばの花 200306「人間の美点」

「彼らは神の栄光を/草を食う牛の像と取り替えた。」(詩篇 106:20 口語訳)

次のようなメッセージに触れました。
「人間が持っている美点は皆、神の賜物である。
…彼らがどんな人間で、どんな行為をしようとその誉は神にだけ帰すべきである。
彼らは、ただ、み手の中にある器に過ぎない。
…聖書の歴史のすべての教訓が教えているように、人間を賞賛し、高めることは危険である」(AA・71章より)。
人は「神様の栄光」をたたえるよりも自分の栄光をたたえる傾向があるように思います。
上記の聖句のように偶像を神に取り替えたりするのも人間です。
最も始末の良くないのが、自己賞賛。
各分野においてすぐれた才能を発揮できる人がいます。
しかし人に才能を授けたお方こそが讃えられるのが大切だと私は考えています。
「人間の持っている美点は皆、神の賜物」…、ここを抑えてさえいれば、人は安全な気がいたします。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

※明日午前11時から11時45分頃まで、新型コロナウイルス対策として安息日礼拝説教「私には夢がある」をライブ中継する予定です。10時から10時45分頃までは聖書の学び「ダニエル書9章」も行う予定です。SDA千葉キリスト教会のホームぺージを開き、下記を押すと参加することが出来ると思います。どうぞ試しにアクセスしてみてください。

こちらでアクセスできます。⇒ https://youtu.be/QbRUZgRrNHA

みことばの花 200305「復活を信じる」

みことばの花 200305「復活を信じる」

「その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。
彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。」(マルコ 16:14 口語訳)

キリストは死からよみがえりました。
しかしキリストの十字架が、現在の私たちとどういうつながりがあるのかという疑問以上に、これを大きな疑問として持たれる人がいるかも知れません。
ですから上記の記録は、その時の人間の姿をありのままに描いていると思えます。
「彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかった」とあります。
死んだ者が復活する…これは死で終る人の概念からすると信じがたいこと。
ですが聖書の記録は解釈ではなく事実をそのまま書いています。聖書を記録した人が、実際に見たことや体験した人からの情報を書いています。
これを信じるか信じないのか、その選択は自由です。
私は信じたほうが私の人生にとって良いと受け止めています。

磯部豊喜

※明日午前11時から11時45分頃まで、新型コロナウイルス対策として安息日礼拝説教「私には夢がある」をライブ中継する予定です。10時から10時45分頃までは聖書の学び「ダニエル書9章」も行う予定です。SDA千葉キリスト教会のホームぺージを開き、下記を押すと参加することが出来ると思います。どうぞ試しにアクセスしてみてください。

こちらで⇒https://youtu.be/QbRUZgRrNHA

みことばの花 200304「バプテスマ」

みことばの花 200304「バプテスマ」 

「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。」
(ローマ6:3 口語訳)

3月になると思い出すことがあります。
それは私自身のバプテスマです。私がバプテスマを授けて頂きましたのは今から45年前の3月1日です。
この日は私にとって人生の大きな節目の日となりました。
バプテスマは日本語では洗礼と訳されていますが、私個人は浸礼とか沈礼(磯部の造語)とかが適当な言葉だと考えます。
聖書によるバプテスマは全身を水の中に入れる出来事だからです。
全身を沈める理由は、頭から足の裏まで人間は罪人(イザヤ1:6 口語訳 参照)で綺麗なところがない。
その罪に死に、イエス・キリストの義に生まれ変わるというのがバプテスマ。
これは儀式ですが、上記の御言葉と共にそこに込められる意味を、日々に思い起こして歩みたいと願うのです。

磯部豊喜

みことばの花 200303「敵を愛し」

みことばの花 200303「敵を愛し」

「しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。
そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。…」(ルカ6:35 口語訳 ) 

敵というのは普通、戦う相手のことです。
ただ敵にもいろいろな敵がいます。政敵、スポーツで戦う相手、自分と意見の合わない人…。
ところで次は大劇作家シェークスピアの喜劇の中の一文です。
<「だってさ、友だちはおれをほめあげてばかにするが、敵は正直にばかだといってくれる。
…つまり敵によっておのれを知り、友だちによっておのれを欺くってわけだ」>(小田島雄志訳)。
立場の異なる敵の存在は人を強くし成長させてくれる、自分の姿を真に見つめる役割を果たすという。
ところでキリストは、さらに一歩踏み込んで「敵を愛し」と教えています。
難しいことですが、心に刻みたい御言葉です。

磯部豊喜

みことばの花 200302「怖いのは過剰な恐怖心」

みことばの花200302「怖いのは過剰な恐怖心」

「あなたはにわかに起る恐怖を恐れることなく、…それを恐れることはない。」(箴言3:25 口語訳)

新型コロナウイルスは世界中で感染拡大していますが、
イタリヤ・ミラノの高校のドメニコ・シキラーチェ校長が学校のホームページ上で生徒に向けたメッセージが話題になっています。
まず社会生活や人間関係を「汚染するもの」こそが最大の脅威、
「目には見えない敵からの脅威を感じている時は、仲間なのに潜在的な侵略者と見なしてしまう危険がある」と指摘しています。
ミラノでは休校が8日まで延期されることが決まり、「こんな時こそ良い本を読んでほしい」「集団の妄想に惑わされず、
冷静に、十分な予防をしたうえで普通の生活を送ってほしい」と呼びかけています。
恐怖心は、人の心を揺さぶります。
過剰な恐怖心にとらわれず、主を見あげて、しなやかな思いで祈りつつ今の状況を冷静に乗り越えたいものです。
主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200301「いたずらに」

みことばの花 200301「いたずらに」

「わたしは心を清く保ち/手を洗って潔白を示したが、むなしかった。」(新共同訳/詩編 73:13)

昨日、送りました聖句の別の訳を今日は送ります。
「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。」(口語訳/詩篇 73:13)
と書いた昨日の聖句とは、読んだイメージが違うかもしれません。
気になるのは「いたずらに」という言葉です。それは「空しさ」を強調する意味で書かれています。
「私が今までしてきたことは、無駄だったのでしょうか。きよくあろうと苦しんだ日々は何だったのでしょうか」(リビングバイブル)
と分かりやすく訳す聖書もあります。
人は清くあろうと願い生きても、それが理解されないということがあります。
むしろ正しく生きようとすればするほど苦しい立場に置かれるということもあります。
しかし最後には心を清く正しく生きようとする者が勝利をするのだと、このみ言葉は教えています。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200229「手を洗う」

みことばの花 200229「手を洗う」

「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。」(詩篇 73:13 口語訳)

「手を洗う回数が日ごとに増えていく。悩ましいのは、どれくらい洗えば新型コロナウイルスを防げるか、確信が持てないことだ。
…感染症の予防に手洗いが有効なことを知らない人はいまい。しかし医学史をさかのぼれば、そんな常識が広まったのは19世紀も半ば以降のことだ。
ハンガリー生まれの産科医ゼンメルワイス(1818~1865年)が提唱するまで、医師の間にも手洗いの習慣はなかった。」
(朝日新聞「天声人語」2020年2月28日参照)
このゼンメルワイスは当時、産科医の手洗いを勧めたゆえに「産科医たちをまるで殺人者呼ばわりをしている」と非難を受けたそうです。
これは開拓者の宿命でしょう。
さて、手洗いは大切。しかしそれと共に心の手を洗うことも上記の御言葉のように大切な気がします。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 200228「メンタルを鍛える」

みことばの花 200228「メンタルを鍛える」

「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」(箴言 16:32 口語訳)

昨日の補足です。テニスのジュニア全国大会で優勝した山崎郁子選手は、高校1年生の時は、県大会で初戦敗退という過去を持っていました。
そして昨年、夏に負けが続いていた時にメンタルトレーナーをつけ、精神的に成長。
体力強化にも励んだ結果が実を結んだそうです。
巨人ゴリアテに勝利したダビデも羊飼いとして羊を猛獣から守るために、メンタルを鍛え正確な石投げの技術を訓練していたようです。
補欠とはいえ、こういう隠れた努力が実を結んだといっても過言ではないでしょう。
華やかな勝利の背後にあるものが、とても大切な気がいたします。
ダビデの場合はこれに加えて、神に信頼するという強い信仰心が巨人を恐れることなく勝利に導いたと考えられます。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200227「補欠」

みことばの花 200227「補欠」

「サウルはダビデに言った、「行って、あのペリシテびとと戦うことはできない。あなたは年少だが、彼は若い時からの軍人だからです」。」
(サムエル上 17:33 口語訳)

昨日の新聞にテニスのジュニア全国大会で優勝した山崎郁美さん(18)のことが載っていました。
山崎さんは補欠でエントリーしていた選手で、辞退者の代わりに出場。
そして決勝では一度も勝ったことのない相手でしたが、逆転勝ちをしたとありました。
補欠ということで思った聖書の話があります。
イスラエルの2代目の王となったダビデの話です。
イスラエルの軍人には、敵の巨人ゴリアテと戦う勇気のある人はいませんでした。
それでダビデは、イスラエルのサウル王に名乗り出た。れば羊飼いの紅顔の美青年。リアテの相手など務まるとは思えない。
上記はそのサウル王の言葉です。
ですがこの話の結末は、ダビデが巨人ゴリアテに勝利した。
補欠であっても奇跡が起きることもあるのです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花200226「失望に終らない生き方」

みことばの花200226「失望に終らない生き方」

「聖書は、『すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない』と言っている。」(ローマ10:11 口語訳)

上記の聖句の「彼」とは神の御子キリストを指しています。
よってこのように言い換えることが可能でしょう。
「すべてイエスを信じる者は、失望に終ることがない」。
この反対は、「イエスを信じない者は、失望に終ることもある」となるでしょうか。
聖書は、「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。…」(Ⅰコリント13:13 )口語訳)と書いていますが、
信仰という言葉が冒頭に書かれていることに注目したい。
この聖句においても信仰対象は、神の御子イエス・キリストを指していると私は信じています。
イエス・キリストは天地万物の造り主。
この方を本当に信じて失望する人はいない。
死の間際でさえも「大丈夫」と言えるからです。
主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜