みことばの花 200904「祈りと感謝」

みことばの花 200904「祈りと感謝」

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。」(コロサイ 3:15 口語訳)

次のような一文を見ました。
「感謝と賛美の精神ほど心身の健康を増進するものはない。憂鬱、不満な気持ちや思想に抵抗することは祈ることと同じように積極的な義務である。
…つねにつぶやき、快活な喜びは罪であるかのように思っているクリスチャンと称する人々は、真の宗教を持っていない。
…苦痛のために精神が鈍ることもしばしばあるかもしれないが、そのときには何も考えないように努めなさい」(ミニストリー・オブ・ヒーリング/昭和50年版p228-229))とあります。
さて、上記の御言葉に「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」とあります。
また「いつも感謝していなさい」とあります。新型コロナが収束せず、超大型台風が接近する中、先のことに不安を感じてしまう昨今ですが、
そのような心を励ますには、祈りと感謝の心が大切だと教えています。
もっと祈りをもって始め、感謝することを拾い集めて今日を過ごしたいと思います。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200903「時は夜」

みことばの花 200903「時は夜」

「ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。」(ヨハネ13:30 口語訳)

9月になり日中は相変わらず暑いですが、夜が涼しくなり、夜の散歩は心地よくなりました。
ところで夜というと時間的な夜と、精神的な夜があるような気がします。
上記の聖句は、時間的な夜と精神的な夜とが同時に重なっているように私には読めます。
この聖句に登場するユダという人は、キリストの12人の愛弟子の一人でしたが、銀貨30枚でキリストの敵に手渡す約束をしていました。
その約束を果たすために、一きれの食物を受けると、すぐに出て行きました。
「時は夜であった」と書かれていますが、ユダの心の闇がいかに暗かったかを指しています。
人の心に自己賞与とか貪欲、不信という誘惑が襲って来ます。これが聖書の教える敵(サタン)の闇のわざです。
このような誘惑に勝利するとき、「時は夜」が「時は朝」に変わることでしょう。
心に闇を追い払う光を見つめ、真の人生の価値を選択できたらと思います。

磯部豊喜

みことばの花 200902「守護天使」

みことばの花 200902「守護天使」

「これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。」(詩篇 91:11 口語訳)

昨日台湾で起きたニュースで、3歳の女の子が凧揚げ大会で大きな布製の凧に絡まれて空高く舞った姿がカメラに撮られていました。これは偶然の出来事。
最後は凧に包まれて落下するところを大人に受け止められて助かったので、よかったのですが、人はこの女の子のように危険な目に巻き込まれることがあります。
私たちが人生を送る上で、危機一髪で守られていることが数限りなくあると思います。
天国に行ったならば、私の守護天使に出会うと言われます。
その時、「これこれ、しかじか~の時、私はあなたの傍にいましたよ」という天使に声をかけてもらえるかも知れません。
そういう天使の守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200901「使命」

みことばの花 200901「使命」

「そしてわたしは法律にそむくことですが王のもとへ行きます。わたしがもし死なねばならないのなら、死にます。」(エステル 4:1下 口語訳) 

今日は「使命」という単語が私の脳裏に浮かび離れません。使命は「命を使う」と書きます。命を懸けて自分を捧げることを指すのでしょう。
「使命」なき人というのは、命を捧げる何かを持っていない人。
さて、上記の御言葉はペルシャの王妃の一人、エステル(ユダヤ人)の言葉です。
ユダヤ人を憎む敵が、ユダヤ人を撲滅する策を練っていました。その知らせを受けたエステルの決意が上記の言葉。
ペルシャでは王妃とはいえ、王に望まれないで近づくことは、命がけの行為です。
今ユダヤ人たちの運命は、この王妃にかかっていました。幸いにエステルは王に受け入れられ、その望みを聞かれ、ユダヤ人たちは滅びずにすみました。
神の御子イエス・キリストも「使命」に生き、十字架で死なれ、死から復活しました。私たちが永遠に滅びないために。
「使命」に生きる人は、生き方が美しい。これは私の一つのあこがれです。足元にも及ばぬ我が身ですが…。

磯部豊喜

みことばの花 200831「実行」

みことばの花 200831「実行」

「だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。
しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。」(マタイ 23:3 口語訳)

語ることと、それを実行することは全く違うと思います。不思議なことかも知れませんが、人は正しいことを語ることは出来ます。
愛を議論しつつ、争う。許しましょうと言って、許さない人をさばく。奉仕しましょうといって、奉仕しない人を責める。
しばしばこういう矛盾を見ることがあります。果たして私はどうか…と自問することがあります。
実行は語ることより大切。実行しないならば、語らないほうがましなのですが、それが出来ないのがまた人間。語る言葉に責任を持てたら幸いです。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200830「励む」

みことばの花 200830「励む」

「だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。」(Ⅰコリント 15:58 口語訳)

安倍首相の辞任に伴い、後継者が誰になるのか…と関心が高まりつつありますが、新型コロナの収束も見られない今、日本社会には課題が山積みのような気がします。
こういう時、「私が総理になれば…」などとビジョンを掲げ、声高にそれを語れる人が果たしているのでしょうか。
単に総理という座席を求めるのではく、明確なビジョンを掲げ実行する人に後を継いで欲しいと私は願い祈ります。
さて、上記の御言葉には「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」とあります。
国政も信仰の世界も、こういう人が求められていると思います。
「主よ、わたしは今、隣人を祝福するために何をすればいいのでしょうか」と謙虚に主の指示を仰ぎ、歩んで行きたいものです。
今週も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200829「安息日の休み」

みことばの花 200829「安息日の休み」 

「こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。」(ヘブル 4:9 口語訳)

昨日、安倍晋三首相が持病再発のために総理大臣をお辞めになると発表されました。
総理大臣という仕事の重責感は、筆舌に尽くしがたいものがあると思います。
良くやって当たり前、少ししくじれば突かれる…これがリーダーの宿命です。
さて、総理大臣とまでは言いませんが、おそらく人は誰でもストレスを抱える者だと思います。
私も痛風持ちなのですが、痛風に結び付くと言われる飲食はしていません。
医者によれば、遺伝かストレスとのことですが、こういうとき、「安息日の休み」があることは有難いことです。
セブンスデー・アドベンチストのクリスチャンは第七日安息日(土曜日)には世間の喧騒から離れて、心の休みの世界(教会)に入ることが出来ます。
仕事や学業から離れ、安息日の休みを味わえる人は幸いです。
ハッピーサバス!

※今日は、素敵なメッセンジャーを招待しています。
ライブ配信を覗いてみてください。

磯部豊喜
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安息日学校(聖書の学び) URL 8月29(土)10:00 第3期第9課「人を引き付ける態度を育てる」 花田憲彦(教団メディア出版局長)
https://youtu.be/ACoJQECuZB8
礼拝説教  URL 8月29(土)11:00 説教題:「主よ、『はい』と言わせて」花田憲彦
https://youtu.be/-DdmXJ62GKg

みことばの花 200828「信仰とは信頼」 

みことばの花 200828「信仰とは信頼」 

「主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。」(詩篇 34:8 口語訳)

聖書の中によく登場する単語の一つに「さいわいである」という言葉があります。
上記もその一つですが、ここでは「主に寄り頼む人はさいわいである」と記されています。
「寄り頼む人」とは、「信仰する人」のことを指しています。というのは「信仰とは信頼」に他ならないからです。
信頼のない信仰は、単なる掛け声であって真の信仰ではない。
私に命を与え、母の胎内でそれを育成してくださった方のことを聖書では創造の神と呼んでいます。
そのような神様ゆえ、何事も任せて大丈夫なのです。ところが神は目には見えないので、この「信頼」することがなかなか出来ません。
そこで目に見えない、見ることの出来ない神は何と、人になって来られた。それがイエス・キリストの本質。
そして神に信頼する生き方を教えてくださった。「主に寄り頼む人はさいわいである」。
日々、私にとって自分の思いではなく、主の最善を見る目を養って生きたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 200827「ほめる」

みことばの花 200827「ほめる」

「自分の口をもって自らをほめることなく、他人にほめさせよ。自分のくちびるをもってせず、ほかの人にあなたをほめさせよ。」(箴言 27:2 口語訳)

「ほめる」ことは、もろ刃の剣。「ほめる」ことで人は元気づけられる場合もありますし、それが過ぎると鼻が高くなってしまいます。
ですから箴言25章27節には「蜜を多く食べるのはよくない、ほめる言葉は控え目にするがよい」と釘を刺します。
それでも人は欠点を羅列されるよりも、ほめられて良くなる場合があります。
9月号のサインズ誌より「ほめ達」(ほめることが達者)という言葉を知りました。依頼された職場へ客となって、その店の姿をチェックするという役割です。
そのとき欠点100、良い点20が見えた場合、良い点はすべて報せ、欠点は改善できそうなものを2点に絞って伝えるという。
そうしますと不思議なことに他の欠点も解消されるという。人の欠点を多く告げるよりも、良い所を探す訓練をしたいものです。
しかしほめ過ぎず…ここが人をサポートする勘所のようです。

磯部豊喜

みことばの花 200826「義とされる人」

みことばの花 200826「義とされる人」

「あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。(ルカ 18:14 口語訳)

「義とされる」ということは、正しい者、あるいは罪が清められることを指しています。
上記には、神から義とされた人のことが書かれています。
ここには二人の人の祈る姿が登場します。一人は取税人(徴税人)であり、もう一人はパリサイ人(ユダヤ教の主流の一派)。
パリサイ人は、自分の清い事、立派なことを次々に並べて祈ります。一方、取税人は自分の罪深さに心を痛めて許しを神に請いました。
その両者の祈りを聞かれた神は、どのように受け止めたかというのが、上記の聖句です。
自分の正しさを追求し、自分を高めてしまうと人は退けられます。
むしろ自分の罪に敏感になり、罪を赦してくださる神の前に悔い改めるとき人は高くされます。
へりくだることはとても大切なこと。そのように生きたいと思います。

磯部豊喜