みことばの花 200925「生と死」

みことばの花 200925「生と死」

「わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。」(詩篇 23:6 口語訳)

人生には二つの地点があります。一つは誕生、そして二つ目は臨終。
この間を普通は人生と呼びますが、私の愛読書の月刊誌サインズ(福音社)の冒頭「今月の言葉」というページの10月号の中に「生きることは生涯をかけて学ぶべきことである。
そして、おそらくそれ以上に不思議に思われるであろうが、生涯をかけて学ぶべきことは死ぬことである。」(セネカ/ローマの哲学者)という言葉だとか「死は人生の終末ではない。生涯の完成である。」(マルティン・ルター/宗教学者)と記されています。
実は、私はやがて訪れるであろう死を人生の通過点と信じています。
死を通過点と受け止めると、今与えられている人生は、良いことも悪しきことも次の人生のための学び。
であれば「生きているかぎりは、必ず恵みといつくしみが伴う」との言葉を私も語れる気がします。
磯部豊喜

みことばの花 200924「悪には善を」

みことばの花 200924「悪には善を」

「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。(ローマ 12:21 口語訳)

悪の役割は、人の心を動揺させて罪を犯させること。怒りをもって怒りを引き出そうとします。
時に悪口を浴びせかけ、同様の悪口を引き出そうとする。こうして互いの感情はエスカレートし、やがて収集が出来なくなります。
これが国家間においては戦争となります。プライドとプライドのぶつかり合いは、血で血を洗うことになりかねません。
聖なる御言葉は、「悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい」と教えています。
昔、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信は、戦い続け決着がつきませんでした。
しかしその仇敵に上杉謙信が、海のない甲斐の国武田信玄に塩を送ったという話は有名です。
怒る者には、穏やかに。悪口を浴びせる者には、親切な対応が必要です。善を持って悪に勝つ。そのためには主の導きが必要です。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200923「思いやり」

みことばの花 200923「思いやり」

「獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。
また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。」(ヘブル 13:3 口語訳) 

新型コロナのクラスターが発生した小学校の校長先生が始業式で二つの文字を掲げました。
一つは「不安」、今一つは「思いやり」。
感染をまるで悪いことをしたかのように責めたり、悪口を言う人がいることへの「不安」と、不安な気持ちでいっぱいの人に、温かい言葉をかけられる人になってほしいとの願いを込めて「思いやり」です。
さて上記も「思いやり」を訴える御言葉です。「(迫害を受けて)獄につながれている人たち」に対する、勧めの言葉です。
他人の悲しみを自分の身に置き換える心の作業は常に大切です。
「明日は我が身」という言葉があります。たまたま今は守られている、しかし明日どうなるかは分かりません。
いかなるときにも「思いやり」の心を常に持ちたいと思います。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200922「剣を鞘(さや)に」

みことばの花 200922「剣を鞘(さや)に」

「すると、イエスはペテロに言われた、『剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯は、飲むべきではないか』。」(ヨハネ 18:11 口語訳) 

キリストが敵に渡されて捕まる時に、一度は敵に歯向かった人のことを書いておきたい。それはペテロという弟子。
キリストを守ろうとして彼は、護身のために持っていた剣を抜き、敵の一人に切りかかったと聖書にあります。
その時、キリストが言われた言葉が上記の言葉。
武士道によれば剣は本来自分を守るためのもの。
幕末の立役者、勝海舟は江戸城の無血開城を果たした人ですが、聖書の影響を受けた人物。剣を抜かぬように剣と鞘をひもで縛っていた。
今日の剣、それは口の剣かも知れません。口の剣は他者を責めるためにではなく、護身のためのみに使いたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 200921「孤立」

みことばの花 200921「孤立」

「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」(マルコ14:50 口語訳)

今日も昨日と同じ聖句を瞑想したいと思います。
昨日は主を見捨てて逃げ去ったという弟子たちの行動を紹介しました。
今日は視点を変えて、キリストの側から見ます。これは愛する弟子たちから見捨てられた状態です。
その生涯において、キリストは幾度となく人々に見捨てられました。それをすでに予告さえしておられます。
「見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。
いや、すでにきている。…」(ヨハネ16:32 口語訳)。
傍にいつもいる弟子たちからも見捨てられる日が来ることを知っておられた。これを孤立といいます。
ですがキリストは「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。…」(ヨハネ14:18 口語訳)と言われます。
自分は見捨てられても、彼は他を見捨てない。
このキリストの愛を今日も見つめて歩みたい。

磯部豊喜

みことばの花 200920「大衆心理」 

みことばの花 200920「大衆心理」 

「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」(マルコ14:50 口語訳)

新型コロナの登場で、人ごみの中ではマスク着用が常識となりました。
ところでこのマスクの着用を広める方法は、国によって違うとのことです。
米国では「マスクをつける人は英雄だ!」というと国民はマスクをつけると言う。
ところがドイツでは、「マスクをつけるのはルールです!」と言えばマスク着用が広がる。
イタリアの場合は「マスクをつけると異性にモテルよ!」というと人々はマスク着用に関心を持つという。
では我が国日本ではどういう発表をすれば国民はマイクを着用するのか。
次の言葉で十分らしい。「マスクはみんなが付けているよ!」大衆心理に弱いのが日本人。
「赤信号みんなで渡れば怖くはない」が日本人的というわけです。
さて、ではイスラエルは?上記は主イエスが敵に捕らわれた場面です。
この場面では「皆イエスを見捨てて逃げ去った」とあります。「みんなで逃げれば怖くない?」。
果たして私がそこにいたならば、どうするでしょうか?

磯部豊喜

みことばの花 200919「人の徳を高める」

みことばの花 200919「人の徳を高める」

「すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。
しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。」(Ⅰコリント 10:23 口語訳)

「すべてのことは許されている」とはどいうことでしょう。それはおそらく選択の自由を指す言葉。
愛すること、憎むこと。信じること、信じないこと。犯罪に手を染めること、犯罪に加わらないこと。
金銭を自分のために使うこと、人のために使うこと教会で説教を聞くこと、聞かないこと。…これらはすべて人に与えられた自由選択です。
ただし、これが犯罪に関わる事となると社会はそれを許さないので人は用心します。
聖書は「すべてのことが益するわけではない」と書く。続けて「しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない」ともいう。
結論をいうと、選択の自由は「人の徳を高める」ことを選択しなさいと教えているようです。
今日、安息日礼拝(またライブ配信礼拝)に出席するのは、この選択の一つ。
心を豊かに養う選択は第七日安息日のみならず、日々行いたいと自分の心に言い聞かせたいのです。

磯部豊喜

みことばの花 200918「罪と死はひとりの人から」

みことばの花 200918「罪と死はひとりの人から」

「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。」(創世記 3:6 口語訳

「ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきた」(ローマ5:12 口語訳)と聖書は、人類祖先の罪のことを書いています。
「ひとりの人」とは誰なのか。罪を犯した順番からいくと人祖アダムの妻エバです。
ところが夫アダムを聖書は「ひとりの人」として説明しています。
「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである」(Ⅰコリント15:22 口語訳)。
「エバにあって」とは書いていない。「アダム」を「ひとりの人」と定めています。エバはアダムの分身だからでしょうか。
いずれにしてもアダム自身も罪を犯したのは事実。あってはならぬ出来事がこの世界に起きました。聖書は死をもたらした罪の恐ろしさを記しています。
「しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ローマ5:20 口語訳)は希望の約束です。
恵みとは、神がその独り子(キリスト)を賜わったこと。私どもを罪と死から救うために…。
これに勝る天の恵みは他にありません。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜
・・・・・・・
9/19(土)ライブ配信 URL です。※過去のライブ配信はSDA千葉教会HP(http://sda-chiba.org/)にあります。
安息日学校(聖書の学び) URL 9月19(土)10:00  ☆2020年第三期 12課「伝えるに値するメッセージ」 磯部豊喜
https://youtu.be/BU_qb-XTmqc
礼拝説教 URL 9月19(土)11:00 ☆説教題「12の門と土台」磯部豊喜 ※やがて来る天国という世界を覗いてみます。
https://youtu.be/zSydyrIDKfw

みことばの花 200917「待つ」

みことばの花 200917「待つ」

「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。
もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。…」(ハバクク 2:3 口語訳) 

「本当に神がおられるならば、どうしてこういうことが私に起こるのだろう」という疑問の声が聞こえます。
人生の問題に遭遇し、八方塞がりを経験するとなおさらそうです。そのようなとき、上記の御言葉を瞑想したい。
それは待つ必要。人は神のなされることを、すぐに理解することは難しい。現在の新型コロナの登場にしてもそうです。
これは悪魔の仕業だと片づけることは出来るかもしれませんが、そう解釈すると、では神は何をしておられるのかとなる。
そこで私は神が許されたこの背後に意味があるに違いないと受け止め、いつか分かる時が来ると信じ、「待つ」人生を生きたいと思う。
主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200916「神はいない…」

みことばの花 200916「神はいない…」

「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う。…」(詩篇 53:1 口語訳) 

ある方からこういう一文を頂戴しました。「自分の人生に希望が持てず、やり直すには遅すぎる。私の人生は失敗作だとつくづく思います。
これまでの生き方のツケが回って来ただけなのですが。私には、神様はいない…という結論になりました」。
私はこの一文をくださった方が、上記の聖句にあるように愚かな者であるとは思いません。このように書きながらも十分に神を意識しておられるからです。
この人の本音は、「愛の神がいることを期待しているけれど、それを私は感じることができない」と語っておられる…のだと私は受け取りました。
事実、もし神(聖書が記す「創造の神」)がいなければ、人も動植物も存在しない。
しかも実に精巧な仕組みを持つこれらの存在を考えると、偶然にそれが出来たとは考えにくい。…と、私自身はこのように受けとめます。
そしてさらに、神の御言葉、聖書があるのも神の存在を確かに実感する助けとなっています。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜