みことばの花 201005「秋の雨」

みことばの花 201005「秋の雨」

「主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、」(申命記11:14 口語訳) 

朝日新聞に、「秋という言葉の由来には、様々な説がある。
草木の葉が『紅く』なるからで、アカがアキに転じた。穀物をたくさん収穫し『飽き足る』から。刈り取られた田が『空き』になるから。…」と「秋」に関する一文がありました(2020年9月30日号)。
そこで聖書に書かれている「秋」に注目。
「夏」は24か所、「冬」は16か所、「春」は15か所、を数えますが、これらに比べると「秋」は少なく、口語訳聖書では、4か所(新共同訳は5か所)。
「秋の木」という言葉が一か所で、あとはすべて「秋の雨」とあり「春の雨」とペアで記されます。
「秋の雨」は早期の雨を言い、10月末から11月に降り始める雨を指します。
古い讃美歌に「春は軒の雨、秋は庭のつゆ」とありますが、これは神の涙の雨を歌う。
主はわたしの救いのために涙の雨をもって祈ってくださっているというのです。

磯部豊喜

みことばの花 201004「神の顔」

みことばの花 201004「神の顔」

「彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」(創世記 3:8 口語訳)

昨日は十数年ぶりに船橋にある姉妹教会へ行きました。
人の顔が違うように教会の顔も違う。家庭的雰囲気な所、活気あふれる所、笑いの多い所…様々です。
船橋は午後からも聖書を語り合う顔を持つ教会で、私もその情熱に引き込まれました。
さて、「顔」を聖書の中から調べてみて、最初に登場するのは何と「神の顔」とある箇所。
神様に顔があるの?とある人には、驚きかも知れません。
ですが「神に顔」があると聖書は語っています。上記にある「神の顔」を想像してみました。ここでは「神の顔」は避けられている。
ここでは悲しみの表情が浮かびます。ところで私の人生、神にどのような顔を作らせているであろうか。
アダムやエバ以上に困った顔を作らせてしまっているかもしれない。
まず今週、神様に笑顔を作ってもらえる者になりたい。
今週も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201003「オキシトシン」

みことばの花 201003「オキシトシン」

「都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。」(黙示録 22:2 口語訳)

上記は天国の光景の一つ。「その木の葉は諸国民をいやす」とあります。
天国には病がないのになぜ「いやす」という言葉が出てくるのか。
オキシトシンというホルモンというものがあります。
「恋愛ホルモン」「抱擁ホルモン」などと言われたりもしますが、人が愛するとき愛されるとき分泌され、免疫力を高めるそうです。
さて上記の「木の葉」ですが、この木の葉は「オキシトシン」、つまり「愛情ホルモン」を出す葉なのかも知れません。
天国は「愛情ホルモン」のあふれる国。私も「オキシトシン」を出せる人になりたい。
まず今日の安息日、神様からあふれる「オキシトシン」を受けたいと思います。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花201002「中秋の名月より」

みことばの花 201002「中秋の名月より」

「また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。」(黙示録 12:1 口語訳)

昨晩はその夜空を見上げて、「中秋の名月」を見つめました。空高い位置にそれはあり、比較的小さく見えました。
「中秋の名月」は、満月で秋晴れが続く時に顔を出し、きれいに見えるという。昨晩はそのうたい文句そのものでした。
ところで上記の聖句にも月が登場。太陽を着ている一人の女がいて、足の下に月を踏んでいます。
太陽は人の道を照らす福音、女は教会を象徴。まずこの女は、身ごもっていた。
後述内容からその子はキリスト。女の頭には12の星の冠。12の星は旧約聖書のイスラエルの12部族、キリストの12弟子を表徴し、神の国の民をあらわしています。
その12の星の一つになれたら、いえ女に踏まれている月のような者に私はなりたいと願うのです。
今日も主の恵みがありますように。
磯部豊喜
・・・・・・・
10/03(土)ライブ配信 URLです。
安息日学校 URL 10月03日(土)10:00  第4期「教育」第1課「エデンの園における教育」渡邊邦男(千葉教会長老)
https://youtu.be/l7mcWGrNueQ
礼拝説教 URL 10月03(土)11:00  説教題「主と歩む旅路の中で」金田寛子(千葉教会長老)
https://youtu.be/2fVVibmGV3U

みことばの花 2001001「復活を知る」

みことばの花 2001001「復活を知る」

「もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである。
さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。」(マタイ 28:10 口語訳)

今朝は、一人の無神論者の話をします。米国の南北戦争時に北側の将軍であったルー・ウォーレスは、熱烈な無神論者でした。
彼は「キリスト教撲滅論」の執筆を始めるために、さまざまな資料を集めました。
イスラエルまで調査に行き、史実も調べました。
そして彼が導かれた結論は、イエスが死から復活されたということは歴史的な事実であったということです。
彼は書きかけていた原稿を破棄し、別の本を書き上げました。
その本が後に1959年に映画化された長編小説「ベン・ハー(副題:キリスト物語)」(1880年)です。
聖書は、「もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい」(Ⅰコリント15:14 口語訳)と書いています。
この一文を書いたパウロは、その目で復活のキリストを目撃しています。
この主は今も生きておられます。

磯部豊喜

みことばの花 200930「家は…」

みことばの花 200930「家は…」

「家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。」(ヘブル 3:4 口語訳)

「有神論」と「無神論」。昨日の続きです。無神論者は自分も世界も宇宙も動植物も偶然にある…と信じることにしています。
では家は?家は人が作ったのでそこにあります。ところで家は家を作ることが出来ません。
ですが人は人を生む。花も種となり、同じ花を生みます。この素晴らしい仕組みは果たして偶然なのでしょうか。
私はときどき思います。「無神論者」ってとてつもない信仰者だと。美しい草花が偶然にあると信じているのですから。
家もそこに偶然にあると信じる信仰者、これが「無神論者」の発想。
私はかつて「無神論」を謳歌(おうか)していた一人でしたが、聖書をとおして創造の神を知った時、実に単純な信仰者となったのです。
とてつもない信仰を抱く無神論者を卒業しました。
「家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。」なんと明解な言葉でしょうか。
創造者の愛が今日もあなたの胸に届きますように。

磯部豊喜

みことばの花 200929「偶然」

みことばの花 200929「偶然」

「そして見ていて、それが自分の領地へ行く道を、ベテシメシへ上るならば、この大いなる災を、われわれに下したのは彼である。
しかし、そうしない時は、われわれを撃ったのは彼の手ではなく、その事の偶然であったことを知るであろう。」(サムエル上 6:9 口語訳)

「有神論」と「無神論」。聖書を信じる「有神論者」は、信じる対象者を神と呼び、すべてのものはこのお方によって造られたと考えます。
一方、「無神論者」は「神はいない」と信じ、「有神論者」は「神はいる」と信じる。ここに両者の共通点があります。
それはいずれも「信じる」という心があるということです。
ところで「無神論者」の一つの特徴は、「偶然」を多用します。聖書には、この「偶然」という言葉は、口語訳聖書には一か所しかありません。
それが上記の御言葉です。Miqreh(ミクレー)というヘブライ語は「運命、偶然、何か起こる、臨む事、はからずも」と訳せる言葉。
果たして私は偶然の産物なのでしょうか。それとも神に造られた産物なのでしょうか。
信仰は選択。さて、どちらの選択が私にとって幸せなのでしょうか。

磯部豊喜

みことばの花 200928「安かれ」

みことばの花 200928「安かれ」

「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。」(ヨハネ 20:19 口語訳)

ヨハネ20章19~26節の中に、立て続けにキリストがお語りになられた一つの言葉。それは「安かれ」(19、21、26節 口語訳)。
訳の違う聖書では「平安があるように」「平和があるように」とも訳されています。
これは「心が穏やかでいられる」ようにという励ましに満ちた言葉です。
危機が迫る時、自分の願いが適えられない時など、人の心は穏やかでなくなります。
ですが、そのような人の心の只中にキリストのこの御声が届くと、人の心に奇跡が起きます。
弟子たちの心が穏やかになるまで主が連発された「安かれ」は、今も「私の心が穏やかでない」時、「安かれ」を私の心に語り続ける必要を、主が願っておられるような気がします。
自分の前に主を描き、自分の心に向けて「安かれ」と語ってみませんか。

磯部豊喜

みことばの花 200927「天を見つめる」

みことばの花 200927「天を見つめる」

「しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。」(使徒 7:55 口語訳)

上記は数日前にも紹介した聖句です。ある方からこんなメールを頂きました。「軽井沢はお金持ちが作った保養所だから、おしゃれな分お金がかかる。
手つかずの自然があるところは蛇やサルや熊が出るから危険です」と。
私も自然界が好きなのですが、「熊に注意」などという看板にふれると緊張が走ります。
南房総に車を走らせると、自然界のサルが出没します。一方、人間界では凶暴な人に出会う可能性があります。
車を運転していても、暴走車がいます。この世界、今はどこにも安全地帯はない。
ですが、どんなに危険な所に身を置いても、天を見上げれば平和な主を見ることが出来ます。
心の目を天に向けたい。そこには、地上の何物にもとらわれない「我と汝」の世界があります。
今週も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200926「命のパン」

みことばの花 200926「命のパン」
「わたしは命のパンである。」(ヨハネ 6:48 口語訳)

キリストがキリストご自身を表現する言葉が聖書にはいくつか登場します。
「わたしは世の光である」(ヨハネ8:1 2口語訳)とか、「わたしは門である」(ヨハネ10:9 口語訳)、「わたしはよい羊飼である」(ヨハネ10:11 口語訳)、「わたしはまことのぶどうの木…である」(ヨハネ15:1 口語訳)などもそれです。
上記の聖句は「わたしは命のパンである」。この聖句は「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。」(ヨハネ6:49,50 口語訳)と続きます。
人が口から食べるパンは地上の命を助けてくれますが、人を不老不死の命に導くことは出来ません。
ですがキリストという「天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことない」という。
これは、人生のセカンドステージの命、キリストを信じる人に与えらる永遠の命を含む言葉です。
この26日(土)、教会では洗足聖餐式というものを行います。
その意味はとても大切ですから、教会に来れない方には、ライブ配信などでその意味を知っていただきたく願っています。
ハッピサバス(幸せな安息日を)!

磯部豊喜
・・・・・・・
9/26(土)ライブ配信 URLです。過去のメッセージは、http://sda-chiba.org/
安息日学校(聖書の学び)URL 9月26日(土)10:00  第Ⅲ期13課「信仰による一歩」 磯部豊喜
https://youtu.be/DKMTPOkEuyQ
礼拝説教 URL 9月26(土)11:00 説教題「十字架の叫び」(イエスが十字架の上で叫ばれた「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」の真相は?)
https://youtu.be/5KNicAxdKDU