みことばの花 201015「救い…神の賜物」

みことばの花 201015「救い…神の賜物」

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」(エペソ 2:8 口語訳)

聖書の教えの神髄は、「キリストが私の救い主」ということです。
ところが多くの思想で教えられる救いは「わたしが自分を救う」と救い主を自分に置いていることです。
「自分が悔い改めて良いことをすれば救われる」「自分が信仰的な生活をすれば救われる」とこれらの思想は語ります。
ですがそのソースをたどると、結局、救い主は自分。「良いこと」を行うことや、「信仰的な生活」をすることは決して悪いことではありません。
ですがこれは聖書が教える救いの条件ではありません。聖書は、徹底的に人の救いは神の賜物(プレゼント)であると教えます。
人は簡単にはキリストを信じません。真の信仰はキリストとの出会いの中で始まります。救いを求める心も、キリストが与えてくださいます。
注がれる神の恵み、与えられる信仰、これは神の賜物です。
今日も主の救いの恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201014「十字架の右と左②」

みことばの花 201014「十字架の右と左②」

「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。」(ルカ 23:33 口語訳) 

昨日の続きです。キリストと共に十字架に架けられた二人の男。
一人は人生の最後の最後まで心を変えられない人。一人は自分の人生をおさらいして、反省した人。
前者についてキリストの態度には、何の変化ももたらすことはありませんでした。この男には何も語ることはできなかった。
ですが後者に対しては、まったく違います。キリストは、彼に向き合い、「あなたは天国に入る」と言われました。
彼も最初はキリストをもう一人と共にのろっていたのです。ですが今はそれを気にされません。
この男がキリストへの解釈を変えたとき、キリストは彼を喜ばれた。これが人生の分かれ目のような気がします。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 2001013「十字架の右と左①」

みことばの花 2001013「十字架の右と左①」

「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。」(ルカ 23:33 口語訳) 

先日同じ出来事に遭遇しても、異なる解釈をする人があるということを書かせて頂きました。
実はその事例の一つが、キリストと共に十字架に架けられた右と左の人たちです。彼らは「強盗」(マルコ15:27 口語訳)でした。
受刑者である彼らは、通りかかった人々のあざけりの言葉に同調して、はじめは「イエスをののしった」と記されています。
その時彼らの耳に、キリストの口から「父よ、彼らをお許しください」との言葉が聞こえました。
一人の男は、死ぬ間際までキリストを受け止めることなく「ののしり続け」たようです。
ですがもう一人はキリストへの態度を変え、自分の罪を悔い、イエスへの信仰を告白しました。
この二通りの生き方は、どのような結果になったのでしょう。明日に続きます。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201012「富を増す」

みことばの花 201012「富を増す」

「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。」(箴言 11:24 口語訳)

世には不思議な法則があります。自分ファーストで生きる人というのは、計算上は自分の富は増すはずなのですが、
長い目でみますと、貧しくなる人がいます。
一方、他人ファーストで生き、人に施すことを選ぶ人は、どこからかその施しが自分に返ってきて、
かえって豊かになる事実を私はしばしばこの目で見て来ました。
こういうことは理屈ではないのです。理屈を超えた何かが働いている気がします。
この何かを、瞑想するとき、ここにも人知を超えた見えざる神の手が働いているということが出来るのかも知れません。
確かに、上記の御言葉は真実です。愛を与えれば愛が返ってくる。笑顔を注げば笑顔が返ってくる。
挨拶を交わせば挨拶が返ってくる。富を施せば、富が返ってくる。結局、常に私の生き方が問われるのだと思います。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201011「完成を目ざして」

みことばの花 201011「完成を目ざして」

「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。…」(ヘブル 6:1 口語訳)

横浜流星(よこはまりゅうせい)という若いタレントさんがいます。
この人が、映画を鑑賞した大学生29人を相手にリモート形式の特別講師に呼ばれ、
学生から「どうしたら横浜さんのようにカッコよくなれるか」と問われた時、「え~分からないです。
僕はかっこいい人間ではないし、そう思ったことはない。
本当にポンコツですし…」照れつつも、続けて「自分の中で大切にしていることがあって、何か自分がやりたいことという明確な目標を作って、
その目標を諦めずにしっかりと達成できるように。
達成出来なくても続けることが大切だなと思って僕は生きています」。
しっかりとした24歳の若者だなと思いました。上記の聖句にも、「完成を目ざしてすすもう」とあります。
人生に目標を持ち、それを目指すことは大切なことだと思います。
今週も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201010「二人の主人」

みことばの花 201010「二人の主人」

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。」(マタイ 6:24 口語訳)

人生は常に選択の連続。また解釈の連続です。良い選択が人の幸福に結びつきますし、良い解釈は人の心を平和に導きます。
上記に「ふたりの主人」という言葉があります。
これも選択の岐路に立つときに、あなたはどちらを選びますかとの問いを語るキリストの言葉です。
「二者択一」を迫る言葉です。これには次のような言葉が続きます。
「一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」
自分が幸せであるためにはどちらを選ぶのが本当に幸せなのかをよく考えたい。
また同じことに遭遇しても、解釈の選択は大切。例えば新型コロナをどう解釈するか。
単に「嫌なやつ」と解釈するか「私の自分の人生を見直す何かを教えている」と解釈するか。
10日は「コロナからの手紙」というメッセージを用意しました。
SDA千葉教会ホームページを開いて覗いて頂ければ幸いです。
ホームページアドレスは http://sda-chiba.org/

磯部豊喜

みことばの花 201009「そして神にいたる」

みことばの花 201009「そして神にいたる」

「エノス、セツ、アダム、そして神にいたる。」(ルカ 3:38 口語訳) 

「わたしはどこから来たのか」…これはこの世界に生を受けた者の基本的な問いだと思います。
人間は、自分の意志で生まれてきたのでもなければ、自分の力で存在することは決してありません。
自分以外の何者かがあって私は存在します。まず両親があって私はいます。ですがその両親もまたそれぞれの両親のもとで誕生しています。
ところでユダヤ人は系図を大切に保管しています。ルカ3章23~38節に、なんとイエス・キリストの系図が正確にメモされています。
そしてその系図は、人類祖先のアダムに遡ります。実は、この系図はどこからか枝分かれをして今の私も生まれています。
聖書はさらに、「そして神にいたる」とある。アダムは神に造られた。
私どもはみなアダム、いえ神を頂点にしているゆえ人はみな親戚とも言える。
お互いを差別なく大切にできればと思う。

磯部豊喜
・・・・・・・
10/10(土)ライブ配信 URL です。
安息日学校 URL 10月10日(土)10:00 聖書の学び2020年第四期 2課「家族」 磯部豊喜
https://youtu.be/um75ng4FOus
礼拝説教 URL 10月10(土)11:00 説教「コロナからの手紙」(コロナは今の私に何を語っているか?) 磯部豊喜
https://youtu.be/fWFaXz3SfQs

みことばの花 201008「和合」

みことばの花 201008「和合」

「見よ、兄弟が和合して共におるのは/いかに麗しく楽しいことであろう。」(詩篇 133:1 口語訳)

時々、反目しても自分の主義を貫くことが大切だ…と思う時があります。
これが人の生死に関係する場合は、この主義を守らなくてはならないでしょう。
ところが、人生を送る上で、「命にかかわるような事態」に出会うことはそう多くはありません。
それなのに「ここは譲れない」とか、「負けてなるものか」と意地を張りたくなるのは、実は愚かなこと。
「和を以て貴しとなす(わをもってとうとしとなす)」という名言があります。
その意味は「何事をやるにも、みんなが仲良くやり、いさかいを起こさないのが良い」ということです。
聖書にも、上記のみ言葉があります。「兄弟が和合して」という言葉は、魅力的です。
「和合している」所には人が集まる。ですが「いがみ合う」所を人は敬遠する。
貴重な人生、笑顔の時間を少しでも多くしたいものです。
これにご同意いただける方は、「はい!」マークを…どうぞ。主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201007「信仰は聞くこと」

みことばの花 201007「信仰は聞くこと」

「したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(ローマ 10:17 口語訳)

「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という言葉があります。
英語には、“Asking makes one appear foolish, but not asking makes one .(聞くと愚かに見えるが、聞かなければ本当の愚か者になる)“
という類似語もあります。
わたしはこれら言葉を置き換え、「聞くは一時の損、聞かぬは一生の損」などと語ることもあります。
つまらない話を聞く場合は時間の無駄。ですが、いい話に出会うとそれは大きな利得です。
さて、キリストの福音を聞くことは人生の利得です。なぜ?そこには「永遠の命」という、何物にも代えがたい宝があるからです。
人はよい話を聞くことによって、心の畑を開墾することができます。
とくにキリストの言葉にまさるメッセージは他にない。キリストの御言葉なる聖書の語られる所には、積極的に時間をとりたいと思う。
今日も私の信仰を育てる主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201006「春の雨」

みことばの花 201006「春の雨」

「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。」(ヤコブ 5:7/新共同訳)

「秋の雨」という言葉とよくペアで登場するのが「春の雨」。今日は、「春の雨」にも触れておきたいと思います。
特に上記の聖句では、「春の雨」は世界の終りと深く関係します。
主イエスは終末預言、すなわちキリストが再臨し(再び来られること)世界が終わるとの預言を語っておられます。
弟子たちに教えられた時に、終末が近づくと戦争とか地震とか飢饉…などの前兆があると言われました(マタイ24章 口語訳)。
ですが終末・再臨の最大の前兆は、「そして、御国のこの福音は…、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」(マタイ24:14 口語訳)。
この全世界的宣教運動を「春の雨」といいます。そして主が来られ、墓に眠る義人は復活します。キリストの再臨は希望に満ちています。
ところで今、セブンスデー・アドベンチスト天沼キリスト教会で、名説教家の河原久牧師が、
毎晩7時から興味深いインターネット配信によるキリスト教講演会(10/24まで)を行っています。
ぜひご視聴ください。

磯部豊喜