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みことばの花 180928「私がなぜ罪人?」

みことばの花180928「私がなぜ罪人?」

「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」(ローマ 3:23)

教会へ行くようになると必ず聞かされる言葉があります。それは「私たちは罪人です」という言葉。これを嫌う人がいます。「教会へ来て気持ち良く帰りたいのに『罪人、罪人!』となぜ呼ばれなければならないのか」と感じる人もいます。なぜこのように感じてしまうのかというと、それは罪というものを道徳的なものに置き換えて受けとめているからです。確かに罪は不義と同列であり、道徳的な視点も無視は出来ません。しかし罪の本質は、不道徳ではない。「すべての人は罪を犯したため」とありますが、すべての人が罪と結びついています。その証拠は、すべての人が「死ぬ」という現実です。この罪の本質は何でしょうか。それは命の与え主である創造者なる神様から離れていることです。それゆえに生まれながらに真の命(永遠の命)を持っている人はいません。聖書は、この罪から私たちを解放するためにイエス・キリストが来られて十字架にかかって死んでくださったという。これを「よき訪れ」と呼びます。

磯部豊喜

みことばの花 180927「定まる心」

みことばの花180927「定まる心」

「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ。」(詩篇 108:1)

すでに人生の眠りに就(つ)かれた私の尊敬するK牧師を思い起こす聖句です。K牧師がお付き合いしておられた女性に求婚しました。「しばらく祈らせてください」との返答。不安と期待の入り混じった思いで本当の返事を待っていました。しばらくして一通のお手紙が届きました。そこに記されていたのは上記の聖句。K牧師は、この聖句をもってこの女性の気持ちを知り、喜びと感謝を主に捧げたとのこと。聖句で、大切な気持ちを伝えるってロマンチックですね。ところで私たちの人生、幾度となく決定しなくてはならない瀬戸際に立たされることがあります。右を選ぶか左を選ぶか。右も左も選びたくないこともあり、どちらも一緒に選びたくなる時もあります。このような時、どうすればよいのでしょう。それは必要を具体的に神様に祈ること。そして、心に平安が寄せてくるのを選ぶ。たとえ苦しい選びであっても正しい選びには平安があるでしょう。そうすると上記のように賛美が生まれて来ます。主からの平安が今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180926「キリストの怒り(2)」

みことばの花180926「キリストの怒り(2)」

「主は恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、いつくしみ豊かです。」(詩篇 145:8)

「キリストの怒り」についていまひとつの考察をさせていただきます。昨日、キリストの怒りは「聖なる怒り」と書かせて頂きましたが、私たちが普通に怒るものとは、まったく異なっていたと思います。キリストのご品性は、上記の聖句のように「怒ることおそく」とあるように本来「怒ることの出来ない」ご性質。そのお方が、「怒った」。では何を怒ったのでしょう。突き詰めてみますと、それは人の心に支配しているもの、それはつまり「罪」です。神と人を引き裂く「罪」。この罪の虜(とりこ)になっている罪人を罪から引き離したいという思いが「怒り」となってあらわされました。「怒り」をあらわされたキリストの心は、涙に満ちていた。これが「キリストの怒り」だと思います。罪を憎んで罪人を憎まず。こういう品性をキリストはお持ちでした。彼はどこまでも「いつくしみ豊か」なお方なのです。今日も主の愛を見つめて歩みましょう。

磯部豊喜

みことばの花 180925「キリストの怒り」

みことばの花180925「キリストの怒り」

「イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。」(マルコ 3:5)

先日、ある集会で「イエス様は、いつも穏やかで素敵な方でした」ということをお話しました。するとクリスチャンではないけれども聖書をある程度読んでおられる方が、私のところへ来て「『キリストが神殿で怒った』ということが書いてあったと思いますが…あれはどうなのですか?」と真面目な質問をしてくださいました。確かに「聖書にはキリストがまったく怒らなかった」とは書かれていないので、その通りです。そこで「キリストの怒り」とは、どういう種類の怒りであったかをお話しました。キリストは自分のためにカッとなったりはなさらなかった。人の貪欲のために神殿が汚されたり、上記の聖句のように、人々が隣人への愛からまったく離れ、愛のない言動をする時に怒ることがあったようです。私はキリストのあらわされた怒りは、「聖なる怒り」だと呼んでいます。おそらく「怒り」には二種類あるのだと思います。価値のない怒りと、価値のある怒り。義のためにここぞという時に「怒る」、それもありなのかな…と考えます。でもキリストのように人生の基本は優しく穏やかでいたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 180924「曲線」

みことばの花180924「曲線」

「まっすぐに歩む者の歩みは安全である、しかし、その道を曲げる者は災にあう。」(箴言 10:9)

これも新聞の記載内容ですが「探査ロボ、リュウグウ着地」という見出し。「宇宙航空研究開発機構(JAXA)は22日、探査機『はやぶさ2』から分離した小型探索ロボット2台が、小惑星『リュウグウ』に着陸したと発表した。小惑星の上を移動できる探査機が着陸に成功したのは、世界で初めて」とありました。「世界で初めて」という言葉をみると、日本の宇宙開発技術もすごいな~と誇らしくなるのは私も日本人。ところで宇宙にあるものを観察しますと、すべて曲線だらけ。しかし人間の世界には、直線が多いと思います。「神は曲線を造り、人は直線を造った」と言った人がいましたが、なるほどと思います。さて物体ではなく、精神世界において「直線」すなわち「まっすぐ」はあこがれる生き方を示す。み言葉には上記のように「まっすぐに歩む者の歩みは安全である」とあります。右にも左にも誘惑に負けない「まっすぐ」な生き方は神様に評価されます。できる限り「まっすぐ」に歩む者に近づきたいものです。

磯部豊喜