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みことばの花 190612「いい人になる?」
みことばの花190612「いい人になる?」
「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世記 3:4)
上記は、神の敵である悪魔に支配されたとされる蛇が人を誘惑した言葉です。
食べてはいけないと禁じられた木の名は「善悪を知る木」。
この木の名に、人生の誘惑が隠されている気がします。
この木を人が食べて以来、「善と悪」があたかも救いの条件であるかのように多くの人々は考えるようになりました。
言い換えれば「いい人になれたら」人は救われると説く。
しかし聖書はそうは語っていません。
あなたがどんな者であっても「私につながっていなさい」(ヨハネ15:4)とイエス・キリストは優しく語っておられます。
人の救いの条件は決して「いい人になる?」ことではありません。
「私は道であり、真理であり、命である」と言われたイエス・キリストを私の人生の中心に受けいれる(お迎えする)、これが永遠の命の道です。
今日も主の恵みが注がれますように。
磯部豊喜
みことばの花 190611「心の目をキリストに」
みことばの花190611「心の目をキリストに」
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」(ローマ 8:1)
上記は昨日の聖句の続きです。
パウロは「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます」といいます。
神の律法を喜ぶ自分(新しい自分)と、それに逆らおうとする自分(古き自分)もいる。
この自己矛盾を抱えて生きている。これを「みじめな人間だ」と表現しました。
しかしその悩みの中に彼は留まっていません。
彼は心の目を、キリストに向けました。そのとき彼の告白は一転します。それが上記のみことばです。
そのようなみじめな自分だが、キリストに属する者になり、今は罪とその結果である永遠の死という有罪宣告から解放されたと告白します。
自分が道徳的であるかどうかよりも、まずキリストを持つことが大切だと証しています。
今日も主の恵みがありますように。
磯部豊喜
みことばの花 190610「みじめな人間」
みことばの花190610「みじめな人間」
「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ 7:24)
パウロは自己省察を忘れない人でした。
自己省察というのは、自分の内面を正直に見つめることをいます。
彼は若い頃より頭脳明晰で秀でた人物でした。
しかしキリストに出会うまでは、おそらく自分を深く見つめることをして来なかった人かも知れません。
相手が悪いと決めつけたら、それを徹底的に暴くという種類の人であったと思います。
そのような彼が、イエス・キリストと出会って、自分の罪深さに圧倒されます。
ところで上記の言葉は、パウロの回心時のことではないようです。
彼がクリスチャンになってからの自己省察の言葉。「
善をなそうと思う自分と、悪が付きまとっている自分がいる」と告白します。
この自己矛盾を認め、それを神様にそのまま正直に告白するのが真のキリスト者なのでしょう。
今日も主の守りがありますように。
磯部豊喜
みことばの花 190609「われ仕える」
みことばの花190609「われ仕える」
「あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」(ヨシュア 24:15)
ドイツ・フランス・ベルギーに囲まれた小国、ルクセンブルクのことを知りました。
その領土は神奈川県くらい。人口は約60万人(千葉市の人口約100万より少ない)。
この国の一人当たりのGDP(国内総生産=良く稼いで、良く使う)が世界一。
3か国以上の言葉を話せる国民(公用語はドイツ語・フランス語・ルクセンブルク語)。
7か国語以上を話せる人も多くいる。
現在世界で唯一の「大公国」。大公宮殿の中にこういう言葉が飾られている。「われ仕える」。
…この小国の魅力をこの一言が語っているような気がしました。
上記の聖句のように。神と人に仕えたいものです。
磯部豊喜
