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みことばの花 191116「いのちの水」
みことばの花 191116「いのちの水」
「御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、」
(黙示録22:1 口語訳)
上記は、「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである」との前置きがある黙示録最後の章の1節です。
この聖句には二つのポイントがあります。第一は神と小羊(=キリストのこと)の御座(玉座)があります。
第二はそのから「水晶のように輝く命の水の川が流れています。
ここで注目したいのは、「いのちの水の川」が「神と小羊の御座(玉座)」を水源としているということです。
「命」あふれるところには常に「神とキリスト」がおられます。
ここで覚えておきたいこと、それは私の「今の命」も「将来の命」も「神とキリスト」から流れ出るものだということです。
今日は第七日安息日、「いのちの水」を「神とキリスト」から求めたいと思います。
ハッピーサバス!
磯部豊喜
みことばの花 191115「菜食生活」
みことばの花 191115「菜食生活」
「野菜を食べて互に愛するのは、肥えた牛を食べて互に憎むのにまさる。」(箴言 15:17 口語訳)
新聞に「宮沢賢治が菜食主義者になったのは、動物の命をだいじにする気持ちがあったからだ。
…賢治によると菜食主義の精神はもう一つ、『予防派』というのがある。病気予防になると考え、動物性たんぱく質をとらない人たちで、いわゆる健康志向か。」という一文が載っていました。
さて、上記の聖句は菜食によって心が穏やかになれるとも読めます。
聖書を読んでいて、私が菜食中心の生活を勧めたい理由の一つは、天国の住民は人であれ動物であれ菜食であるということです。
天国の「オオカミと小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ」(イザヤ65:25/新共同訳)とあります。
菜食生活は天国住民への備えにもなると思えるのです。
磯部豊喜
みことばの花 191114「富める青年⑩」
みことばの花 191114「富める青年⑩」
「イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。」
(ルカ 18:24 口語訳)
これは「富める青年」が去って後、キリストが弟子たちに言われた言葉です。
この青年が去ったことは、キリストの失敗だったのではという人がいます。
しかしこの物語は「キリストの失敗ではなく、青年の失敗」だと私は受け止めます。
キリストは「彼を見つめ、慈しんで」(マルコ10:21 口語訳)青年との会話を持たれました。
この青年のような立場に置かれると人はキリストの提案を選ぶよりも、自分の価値観を選ぶのではないかと思います。
ですがこれが奉仕への道、信仰への道の妨げになる。
人にとって一番捨てがたいものは「自分の欲」。
この青年の場合は「財産欲」。
この財産は、そもそも神によって管理者として私に任せられたものだと解釈出来れば、違う選択ができるのではと思います。
「すべて私のもの」と考えるところに、人生の失敗があるように私には思えるのです。
磯部豊喜
みことばの花 191113「富める青年⑨」
みことばの花 191113「富める青年⑨」
「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」(マタイ19:22/新共同訳)
これが「富める青年」の選択でした。
彼は十戒の5~9条、すなわち「小さい時より隣人を愛する」という教えを守っていると告白していました。
ですがここで彼は隣人よりも自分自身しか愛していない人間であることが明らかになりました。
奉仕のひとかけらもないことが明らかにされました。
実にキリストは、真に人を愛することの豊かさを彼に味わわせたいと願い、
青年に挑戦的な言葉を語られたのだと私は受け止めています。
愛は奉仕を伴います。
その奉仕の実践によって隣人が喜び、その人の喜ぶ姿をみて喜ぶ、それが奉仕のご褒美なのでしょう。
ですがこの青年の場合、財産の使い方に問題がありました。
財産は自分のためにだけでなく、他者への奉仕に用いてこそ意味があります。
ところで、私の財産(私の持っているものすべて=時間、能力、金銭…など)を誰のために役立たせるのか、
これはこの青年だけの問題なのか。
そのような問いが私にも投げかけられているようです。
磯部豊喜
みことばの花 191112「富める青年⑧」
みことばの花 191112「富める青年⑧」
「彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。」(ルカ 18:23 口語訳)
青年は大金持ちでした。
財産家の若者にとって、「持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。
そうすれば、天に宝を持つようになろう。
そして、わたしに従ってきなさい」(22節)のキリストの言葉は実に厳しい内容です。
そこでここを読む人々は、彼に同情します。
「あんな言葉を突きつけたら、去ってしまうに違いない。
もっとハードルの低い言葉を語ればよかったのに」と。
ですがキリストの彼に対する挑戦的な言葉は、この青年が本当に幸せになる道を教えていました。
それは奉仕の道です。
明日に続きます。
今日も主の恵みがありますように。
磯部豊喜