みことばの花 190419「つもり」

みことばの花190419「つもり」

「そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。」(使徒 15:37)

上記の聖句には、バルナバという人が若者マルコを宣教に連れて行く心つもりを持っていることを示した言葉です。
人はしばしばこのように「つもり」(心に意とするところ)を抱くことがあります。
ところでこの「つもり」はあっても、現実は違う場合もあるそうな。
「つもり違いの十ケ条」という言葉を知りました。

①高いつもりで低いのは教養、
②低いつもりで高いのは気位、
③深いつもりで浅いのは知識、
④浅いつもりで深いのは欲、
⑤厚いつもりで薄いのは人情、
⑥薄いつもりで厚いのは面の皮、
⑦強いつもりで弱いのは根性、
⑧弱いつもりで強いのは我(が)、
⑨多いつもりで少ないのは分別、
⑩少ないつもりで多いのは無駄。

このように現実は、「つもり」とはかけ離れいている場合もあるようです。
現実とつもりが一つになれば良いのですが…。

磯部豊喜

みことばの花 190418「開けよ」

みことばの花190418「開けよ」

「天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。」(マルコ 7:34)

一昨日の夜、耳垢掃除をしたのですが、なぜか片耳の垢を取り損ねてしまい却って聞こえなくなりました。
片耳が耳栓をしたような状態になってしまい焦りました。
そして昨日の朝、はじめて耳鼻科のお医者さまのお世話になりました。
とても痛かったのですが、間もなく音が甦りました。
自分の力では限界でしたが、お医者さまは見事です。
私はこの治療を受けて、かつてキリストが耳垢除去ではなく、そのみ言葉で聴覚障がい者の耳を癒されたことを思い出ました。
そして音を聞ける喜びと共に、もっと良い声を聴く心の耳を養わなければと教えられたのです。

磯部豊喜

みことばの花 190417「穏やかに信頼する」

みことばの花190417「穏やかに信頼する」

「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、
「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。
しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。」(イザヤ 30:15)

「自暴自棄の歩みに気をつけよ。明日を待ちさえすれば、最悪の日は過ぎ去るのだ」という言葉があります。
「キリストはあなたの誘惑の力と、これに抵抗するあなたの力をご存知です。
キリストの御手は、悩める一人一人のために、やさしい哀れみの中に、いつも差し出されています。」
(以上、「青年への使命」p90からの引用)。
神の哀れみの御手は決して疲れないので、「穏やかに信頼しているならば力を得る」と、
主は私どもの心に語り掛けてくださっています。
主を信頼することを好まない生き方は避けなくては…と教えられます。

磯部豊喜

みことばの花 190416「試練という役割」

みことばの花190416「試練という役割」

「わたしの兄弟たちよ。
あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」(ヤコブ 1:2) 

このような素敵な言葉に出会いました。「試練にあうこともあるでしょう。
しかし神は、その試練を通して、あなたの品性の粗野なところをみがいてくださるのです。
ぐちを言ってはなりません。ぐちは試練をいっそう苦しいものにします。…重荷に辛抱強く耐えなさい。
人から悪いことをされても、心の中に神の愛を持ち続けなさい」(青年への使命p89)。
ここに人生の試練を豊かに乗り越える秘訣が書かれているような気がしました。
試練に対して、「あ~いやだ!」と言ってその渦中に自己を埋没させるのではなく、
試練をわたしの成長を助けてくれる人生の教科書だと受け止めてみる。
この学科は、おそらく何物にも替え難きものになるに違いないのです。
主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190415「自己否定(じこひてい)」

みことばの花190415「自己否定(じこひてい)」

「人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。
主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、
へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」(ミカ 6:8)

昨日の「自己肯定」とは真逆表現ですが、「自己否定」ということも瞑想したい。
自分の存在は肯定(こうてい)し、わがままな自分は放置しない。
これを「自己否定」だと私は理解しています。
みことばはこれを「へりくだり」と語ります。
へりくだって、今日も主と共に歩みたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190414「自己肯定」

みことばの花190414「自己肯定」

「こうして、あなたは安らかに自分の道を行き、あなたの足はつまずくことがない。」(箴言 3:23)

今朝、心の温められる一文がありました。
「おかあさんのせなか」という寄稿文ですが、タレントの副島淳さんの記事です。
淳さんの母は、19歳で未婚のまま彼を産みました。相手は黒人系の米国人。
小学校4年生の時に同級生からからかわれるようになり、
自分が他の子どもと違うことを知り、
「なんで僕を産んだの?」「お父さんはどこにおいるの?」と母に怒りをぶちまけたという。
「そんなの知らないよー」が母の応え。
いじめられていたとき、母から「周りと違うことはいつか武器になる。
みんなに注目されて、キャーキャーって、言われるようになるよ」。
こういう母に育てられ、彼は今その個性を生かしているようです。
みことばに「安らかに自分の道」を行きなさい」とある。
自己肯定は、人生につまずかないエネルギーとなると教えられます。

磯部豊喜

みことばの花 190413「雪よりも白く」

みことばの花190413「雪よりも白く」

「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。
わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。」(詩篇 51:7)

今日も「雪」を扱いたい。
神様の愛に包まれて、主イエス様が私の心の中に入ってこられて、
私の心が雪のように白くなったならばどんなにうれしいことでしょう。
旧讃美歌の歌詞を思い出します。
「イエスよ、こころに宿りて われを宮となしたまえ、けがれにそみしこの身を 雪より白くしたまえ。
わが罪を洗いて、雪よりも白くしたまえ?」(日基讃美歌521番①)。
今日は聖なる第七日安息日です。
キリストを自分の心にお迎えする一日であれば素晴らしいと思います。
キリストの恵みに触れて、人生の目標である品性が清くなるための一日となって頂けたらと今日も願うのです。
「み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」(同51:9,10)と。

磯部豊喜

みことばの花 190412「なごり雪」

みことばの花190412「なごり雪」

「たといわたしは雪で身を洗い、/灰汁で手を清めても、あなたはわたしを、みぞの中に投げ込まれるので、
/わたしの着物も、わたしをいとうようになる。」(ヨブ 9:30,31)

4月だというのに今年は東京に「なごり雪」が降りました。
「なごり雪」というと、歌手のイルカさんの名曲を思い出します。
「…♪季節外れの雪が降ってる、東京で見る雪はこれが最後ねと…なごり雪も降るときを知り…♬」。
それにしても桜と雪のコラボは実に珍しい光景です。
ところで聖書に登場する「雪」は、人の心を清める役割を表現しています。
ゆえに「なごり雪」は、なかなか清くならない人の心に降る天(神様)の涙の結晶のような気がするのです。
罪深きわが心、今日も聖なる雪をもって覆ってください!主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190411「逆転」

みことばの花190411「逆転」

「こうして、あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい。」(エペソ 5:1)

「おばあちゃんは、犬を散歩しているのではなく、おばあちゃんが犬に散歩をしてもらっているんだよ」。
これを孫から聞いたAさんが、その感動を私に話してくださいました。
このように視点を変えてみると、他にも多くこのようなことがあるように思います。
例えば、私があの人の世話をしていると思えることでも、実は私があの人から世話をされているということ。
信仰の世界も同様です。私が神様を信じているように見えて、実はその前に神様から信じられているということ。
私が神様を愛しているというよりも、上記のみことばのように「神に愛されている」ということ。
おそらく、この事実に気づくことがキリスト信仰なのでしょう。
このような逆転発想は、素敵なことだと思います。

磯部豊喜