みことばの花 190801「命」

みことばの花190801「命」

「人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。」(マルコ 8:36)

ここ数日、「命」に関するニュースを目にします。
ある通路に金魚すくいで獲得した金魚2匹の入った袋が水もなく無造作に置かれていました。
そこを通行する人たちが、「かわいそうに」と声を出しながらそれを眺めます。
外房線の線路に首輪のない犬が入ってしまい、電車が数分遅れました。人はこのように小さい者の命を大切にする心を持っています。
一方で、動物たちを平気で殺傷する。ガソリンで人を死に追いやる。
この矛盾した人の心は実に不気味です。
ところでキリストは「人の命」を大切にされるお方でした。
上記のメッセージはその一つです。
「命」は最も尊い。
主は私に永遠の命を与えるために、十字架にかかって死んでくださった。
これを「良き訪れ」と言います。
今日も自分自身の命、他人の命に優しい生き方をしたいものです。

磯部豊喜

 

みことばの花190731「苦難を経て」

「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。」
(ホセア 6:1) 

順風満帆(じゅんぷうまんぱん)という言葉がありますが、逆風閉帆(ぎゃくふうへいぱん=磯部の造語)もあって良いと思います。
「順風満帆」の反意語は「波乱万丈」とか「山あり谷あり」が考えられますが、人生の逆風の時は、帆を閉じてぐっと耐える。
成功体験の連続は時に危険な気がします。
一方うまくいかない時は、さらに成功するステップになります。
事実、たとえば骨折は痛いですが、骨折後の骨はとても丈夫になります。
先日、瀬戸大也選手が世界水泳で金2銀1を獲得しました。
瀬戸選手は前回の世界水泳では銅2のみに後退していたそうです。
上記の御言葉は私どもの人生への応援聖句。
「逆風」から学ぶこと多しと思うのです。

磯部豊喜

 

 みことばの花190730「暑い~」

「やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、
ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、『生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ』。」(ヨナ 4:8) 

以前にも紹介したことのある預言者ヨナの言葉です。
今年は涼しき雨季が長かったせいか、ここに来てとても暑い日が続いています。
私も家内も「暑い~暑い~」とのデュエットで合唱。
「生きるよりも死ぬ方がましだ」とヨナはつぶやきましたが、私もそのような思いに囚われそうになることがあります。
そこで「冬来たりなば春遠からじ」を「夏来たりなば秋遠からじ」と置き換えるのも良い気がしております。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

 

みことばの花 190729「悩みの日に」

みことばの花190729「悩みの日に」

「主が悩みの日にあなたに答え、ヤコブの神のみ名があなたを守られるように。」(詩篇 20:1) 

悩みの日に答えて下さるお方をわたしは知っています。
それは「ヤコブの神」です。
「ヤコブ」という人は、
「わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません」(創世記47:9)と
エジプト王に自己紹介をしている人ですが、彼の生涯は文字通り悩みの日の連続でした。
ですが神はそのヤコブと共におられて彼を支え続けられました。
これが「ヤコブの神」です。
わたしも悩みの日には、「ヤコブの神」を思い出して祈ってみましょう。
「ヤコブの神」は今も求め信じる者のそばにいてくださいます。
これは約束です。

磯部豊喜

みことばの花 190728「あわてない心」

みことばの花190728「あわてない心」

「それゆえ、主なる神はこう言われる、「見よ、わたしはシオンに/一つの石をすえて基とした。
これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。『信ずる者はあわてることはない』。」(イザヤ 28:16)

本当に強い人というのはどういう人なのでしょう。
それは体力的に強い人のことではありません。
旧約聖書に登場するサムソンという人は、まれに見る怪力の持ち主でした。
ですが心が弱く、激しやすく異性にも弱かった。
金銭の虜になる人、酒の虜になる人…決して強い人ではないと思います。
人生にはいろいろと災難がつきものです。これに遭遇した時、本当に強く乗り越えられる人はいるでしょうか。
ですが上記の御言葉には、そのヒントが書かれています。
「信ずる者はあわてることはない」と。
ただし何を信じるかがカギ。
結論から申しますと、「試みを経た石」「隅の石」は神の御子イエス・キリストを指しています(エペソ2:20参照)。
救い主イエス・キリストを見つめて今週も歩ませて頂きたいものです。
主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190727「愛するならば」

みことばの花190727「愛するならば」

「もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。」(ヨハネ 14:15)

イエス・キリストは上記のような「みことば」をお語りになられました。
「愛する」ということは、何もしないことではありません。
「わたしのいましめを守る」ことだとキリストは言われました。
口先「愛」というものがあります。
口では「愛します」という。
しかし行動が伴わない。
「いましめを守る」というのが愛することの証だという。
「主が言われた」という言葉に信頼して、それを信じ、教えられた通りに応答した生活をするのが真のクリスチャンです。
神の戒めを代表するのが十戒です。
第一条から第十条まで守り抜くことはとても難しいことです。
ですがキリストへの愛を心に覚えていれば、これらの戒めを第一優先したいと思う。
今日は第七日安息日、十戒の第四条に記された聖日です。
キリストを愛しこの日を大切にしたいのです。

磯部豊喜

みことばの花 190726「信じなさい」

みことばの花190726「信じなさい」

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」(ヨハネ 14:1)

上記はイエス・キリストの「みことば」。
「信じ」という言葉が2度語られています。
「信じる」ということの大切さを、高校野球からも教えられました。
これは千葉大会の準決勝。木更津総合高校と習志野高校の甲子園経験者同士の戦い。試合は5-6で習志野が勝利。
9回までは終始木更津総合が一歩リード。
しかし9回2死より習志野が同点に。
その時、習志野の投手はプルペンで黙々と次のイニングへの備え。
彼は味方の同点を信じていたのだろう。
試合は延長11回で習志野がサヨナラ勝ち。
「信じる」と奇跡が常識となって起こる。
さて、キリストは「信じなさい」との続きに、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。
もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。
あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。」(同14:2)と語られました。
地上生活にはるかに勝る天国での住まいを準備するという約束です。
このキリストの「みことば」を「信じる」人は幸いです。

磯部豊喜

みことばの花 190725「一心に」

みことばの花 190725「一心に」

「あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。
もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。」(エレミヤ29:13—14より)

「神はおられるのか」という質問をしつつも、神の存在に疑問を持つ人がいます。
ですがこのような人に「みことば」は「もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われ」ます。
問題はその求め方です。神は目に見えないお方ですが、神の心に触れる最良の方法があります。
それは神の思いの詰まった「聖書」を祈りつつ直接に読み学ぶことです。
聖書について書いているものよりも聖書を学ぶのです。
「ただ一心に!」。今日も主の導きがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190724「バビロンは倒れた」

みことばの花190724「バビロンは倒れた」

「彼は力強い声で叫んで言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、…。」
(黙示録18:2)

バビロンという言葉。バビロンは、悪魔の住むところとあります。
バビロンは悪魔の性質を持っています。
それは何か。バビロンのルーツを見ると分かります。
一つは、古代バビロン。
古代バビロンはバベルの塔の話が有名です。
バベルの塔は、ニムロデという世界最初の権力者が「自分の名をあげる」建造物として工事開始。
これは神によって工事中に壊されました。
第二のバビロンは、新バビロニア帝国。世界最初の世界帝国。
これも同様に自分を誇ったために神によって倒されました。
人間にとって最大の誘惑。それは自分を誇ること。
自分を誇る時に、それはバビロンとなり倒されます。
高ぶることなく、常に謙虚な生き方をしたいものです。
主の支えが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190723「夢の続き…あがない」

みことばの花190723「夢の続き…あがない」

「わたしはエジプトの国からあなたを導きのぼり、奴隷の家からあなたをあがない出し…」(ミカ6:4)

昨日の朝見た夢の続きです。
そこに書かれていたのは、私の大学時代に書いた日記内容というストーリー。
古日記は、3分の1程度を私が書いていて、次の約3分の1は医者を目指す人のアルファベット入りの文字、
そして残りは、別の人の手による印刷文字が貼ってあった。
この古日記本の定価は540円だったか。
私はそれを買い戻さなければいけないと思った。
その瞬間に私は目を覚ましたのです。
この夢を見て、元は神のものである人間を買い戻すことを意味する「贖い(あがない)」という言葉を思った。
この古日記本の最初の持ち主が私。
ところで私という人間も、最初は神のもの。
しかし古日記は人の手に渡り、最後は乏しい値で売り出された。
ところで神は私という安物を、高価なキリストの血で買い戻してくださったのです。

磯部豊喜