みことばの花 200324「92才現役」

みことばの花 200324「92才現役」

「モーセは死んだ時、百二十歳であったが、目はかすまず、気力は衰えていなかった。」(申命記 34:7 口語訳)

「安らかに死ぬこと」を意味する「大往生」という言葉があります。
人生の終りまで、身体共に壮健で過ごす人は数多くないかも知れません。
イスラエル人のリーダーだったモーセは、まさにそのような人物でした。
さて、先日「サインズ」誌に92才現役という大川繁子さん(小俣幼児生活団 主任保育士)の問答記事を読みました。
あのモーセのように「目はかすまず、気力は衰えていない人に違いないと察しました。
大川さんは、「私がめざしているのは、いわゆるスゴイ人を育てる保育ではありません。
それぞれの子供が、それぞれ持っている才能や力をめいっぱい発揮する保育なのです」と語っておられます。
それにしても92才現役、すごいですね。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200323「一日を」

みことばの花 200323「一日を」

「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ 6:34 口語訳)

以前に「みことばの花」に取り上げたことのある、日めくり漫画「100日後に死ぬワニ」のネットでの連載が、3月20日をもって終わったようです。
それにしてもネットのフォロワー(登録者)数200万人は凄い。作者は漫画家のきくちゆうき先生。普通の日常をとらえてワニが生活する様を描いています。
たとえばネット通販で人気商品が1年後に届く商品を注文するワニの姿も描かれています。
当然、ワニは商品を手にできない。
作者がこの漫画に取り組まれた理由、それは友人を交通事故で亡くされたことだという。
命の大切さが背後に扱われているようです。
人生の終りは必ず来る。それゆえに日々の歩みを大切にしたいものです。
明日のことを思い煩わずに…。

磯部豊喜

みことばの花 200322「忍耐」

みことばの花 200322「忍耐」

「愛は、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(Ⅰコリント13:7口語訳)

上記は、一度「みことばの花」で配信したことのある聖句です。私はこの聖句を眺め「サンドイッチ聖句」にして読み始めました。
どういうことかと言いますと、この聖句は両端に「忍」、「耐」とあり、中身に「信」「望」があります。
真の「忍耐」を持つには、「すべてを信じ、すべてを望み」という心持ちがなければならないと読むのです。
「堪忍袋の緒が切れる」人というのは、結局「すべてを信じられない」「すべてに望みを持てない」人。
もし「すべてを信じ」「すべてを望んで」物事を見つめていれば、真の「忍耐」が生まれる。
真の愛は、このような要素を含んでいるのでは…と、この一句は私の心にいつも迫って来ます。
「忍耐力」の乏しい私には実に大切な聖句なのです。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200321「失望に終らない」

みことばの花 200321「失望に終らない」

「聖書は、『すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない』と言っている。」(ロ-マ 10:11口語訳)」 

聖書の不思議…聖書を読んで書いたものが、聖書として認知されています。
上記の御言葉は、パウロが書いた言葉ですが、これが後に聖書に加えられました。果たしてパウロは知っていたのでしょうか。
さて、パウロの引用している旧約聖書の箇所は、イザヤ18:16だと思われます。
「それゆえ、主なる神はこう言われる、『見よ、わたしはシオンに/一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅くすえた尊い隅の石である。
「信ずる者はあわてることはない」。』」とあります。
信仰は練習です。
彼、すなわち「試みを経た石、堅くすえた隅の石」(十字架で苦しめられた後に復活した)イエス・キリストに学ぶ者は、「あわてず、失望に終らない」。
今日は第七日安息日、主への信頼を深めたいと思います。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 200320「わたしは独りではない!」

みことばの花 200320「わたしは独りではない!」

「わたしは、あなたがたを捨てて孤児とはしない」(ヨハネ14:18 口語訳)

私が「みことばの花」の配信を始めたのは2015年9月11日のことでした。
そのトップバッターとして選んだ聖句が上記の聖句です。
先日、TVチャンネルの切り替中にワンピースという人気漫画をチラッと覗いてみました。
そうしましたらそのキャラクター君(名前は知りません)が「僕は一人で生きていけないことに自信がある」というような言葉を語っていました。
なかなかいい言葉だと思いました。
人はやはり誰かを必要としている。
そういう時に、上記の主イエスの御言葉はとても励みになります。
主は「わたしは、あなたを捨てて孤児とはしない」…と語ってくださる。
何と嬉しい言葉でしょうか。
この一言を誰もが信じられたらどんなに良い事かと私は思います。
わたしは独りではない!

磯部豊喜

みことばの花 200319「サン・イク」

みことばの花 200319「サン・イク」

「むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。」(Ⅰテサロニケ 2:7 口語訳) 

今日は3月19日。この数の好きな学校があります。それは私どもの姉妹機関である「三育学院大学」「三育小・中・高」の教育機関です。

当初より知・徳・体の三育を教育の柱としてきました。
この「サン・イク」ファンは、自動車ナンバーも「・319」を所有しています。
ところで「三育」という漢字を「三盲」と読み違えて、これを三重苦の人の学校だと考えた人があった。
三重苦には罪はない。ですがよく考えると、悲しいかな人は「悪知恵、悪徳、悪体」三重悪の可能性があります。
ゆえに三方面のアクを克服する、真の愛を学ぶ必要を感じます。
「三育」、すなわち愛するための知識、愛という徳、愛するための体力を育てる。
これが人に大切な気がします。
主の愛が今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200318「とがをおおう愛」

みことばの花 200318「とがをおおう愛」

「憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう。」(箴言 10:12 口語訳)

インターネットにマスクの装着の仕方が紹介されていました。
その基本は、鼻を包む上の部分をしっかりおおうこと、口と頬の境をしっかりとおおうこと…。
要は隙間を作らないように「おおうこと」です。
これをしっかりとしていませんと、マスク装着の意味がないということでした。
この「おおう」は、漢字では「覆う、被う」と書きますが、
辞書には「それを隠すように一面にかぶせる、雨・ほこり・人目などからさえぎろうと、上・まわりに物をかけてふさぐ、一面に広がって全体を包む」
(岩波)、と解説。
ところで、上記の聖句には「愛はすべてのとがをおおう」とあります。
「とが(咎、科)」は、他人が非難するのももっともな、欠点や過ち、けしからぬ行いのこと。
人の欠点や過ちを見てそこを突きたくなるのが普通の人間の姿。
人の過ちをも飲み込む、こういう愛は私には乏しい。
それゆえ私は、もっと神の愛に触れ、本物の愛を学びたいと願うのです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200317「愛は、見捨てない」

みことばの花 200317「愛は、見捨てない」

「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」(マルコ 14:50 口語訳)

真の愛の特徴の一つは「見捨てない」ことだと思います。
誰かが「世界を敵に回しても、わたしはあなたを見捨てない」と言ってくださるならどんなに励まされることでしょう。
詩篇記者は「わたしが年老いた時、わたしを見離さないでください。
わたしが力衰えた時、わたしを見捨てないでください。」(詩篇71:9 口語訳)という嘆願を神に捧げました。
私を愛してくださるお方は、私を見捨てないと信じてこう祈りました。
ところで人はどうでしょうか。
上記には、キリストの弟子たちの悲しむべき忘恩の姿が赤裸々に記録されています。
キリストは実にその弟子たちから見捨てられたことがありました。
ですがキリストは、私たちを決して見捨てないお方。
この方を今日も信頼して歩みたいと思います。

磯部豊喜