みことばの花 201206「野菜」

みことばの花 201206「野菜」

「あなたが入って行って得ようとしている土地は、あなたたちが出て来たエジプトの土地とは違う。そこでは種を蒔くと、野菜畑のように、自分の足で水をやる必要があった。」(申命記 11:10 口語訳)

上記は聖書の中に最初に「野菜」という言葉が登場する箇所です。これは私にとって意外でした。
「野菜」は、聖書冒頭の創世記にすでに記述されているに違いないと考えていたからです。
類似聖句はあります。「種を持つ草」(創世記1:29 口語訳)とか「野の草」(同3:18 口語訳)とか「地の産物」(同4:3 口語訳)です。
しかし「野菜」という記述で登場するのは上記です。ところで私はかつて「野菜」を好まない子供でした。
しかし「八百屋」という仕事を自営で行った時より「野菜」が大好きになりました。
この「野菜」ですが、食べる順序を工夫すると良いと、「心と体のホッとサプリ」という本より教えてもらいました。
「野菜」を食事の最初にとると良いと言う。この順序は糖尿病の患者さんへの食事療法として始まったそうです。
野菜は血糖値の上昇が少なくインスリンの量をコントロールしてくれるとのこと。
試してみませんか。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201205「非常に良い地」

みことばの花 201205「非常に良い地」 

「イスラエルの人々の全会衆に言った、『わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です』」(民数記14:7 口語訳)」(民数記 14:39 口語訳)

昨日は、アフガニスタンの人々のために人生をささげたにもかかわらず、襲撃されて亡くなられた中村哲さんの一周忌を迎えたとの報道がなされていました。
これは「非常」に悲しむべき出来事でした。中村哲さんは、医者としての仕事ばかりでなく、悪い土地を灌漑し、非常に良い地に変えようと励んでいました。
ところでイスラエルの人々は、エジプト奴隷から解放されて、乳と密の流れる地カナンを目指していました。
そしてその手前に来た時に、イスラエルのリーダーのモーセはカナン偵察のために各部族から12人を選びます。
10人は否定的な報告でしたがヨシュアとカレブはそのカナンを「非常に良い地です」と報告します。
このカナンは、聖書では「天国」を象徴しています。天国はカナン以上に「非常に良い地」です。
今日は聖なる安息日。「非常に良い地を」目指して、皆様と共に進んで行きたいと願っています。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 201204「非常①」

みことばの花 201204「非常①」

「アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた。」(創世記 13:2 口語訳)

今朝のニュースに「大阪府吉村知事、医療非常事態宣言」という文字を見ました。
そして大阪のシンボルタワーの「通天閣」とか「太陽の塔」などに赤色の照明が灯されたようです。
新型コロナ感染はますます深刻度を増してきています。
この「非常事態」という言葉から、聖書にある「非常」という単語を調べてみました。
その数の多いこと。上記は聖書の最初の書「創世記」に登場する「非常」です。
こいう内容の「非常」ならば悪くはないのですが、最後の書「黙示録」に登場する「非常」は、災害に関するありがたくない内容です。
「また一タラントの重さほどの大きな雹が、天から人々の上に降ってきた。人々は、この雹の災害のゆえに神をのろった。
その災害が、非常に大きかったからである」(黙16:21 口語訳)。
今世界を包んでいるのは、後者の「非常」のようです。「非常」とは「はなはだしいこと、普段と異なる事」。
アブラハムの場合のような祝福が「金銀」とまでは行かなくても、私たちの「心身」に訪れることを祈りたい。

磯部豊喜

みことばの花 201203「強くするために」

みことばの花201203「強くするために」

「わたしは主である。わたしのほかに神はない、ひとりもない。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。」(イザヤ45:5 口語訳)

「新型コロナを無くせば神への信仰は深まるのに…」というご意見を頂きました。
「愛の神はおられる」と言っても、この世界はそれを疑わせる出来事だらけ。
「本当に愛の神がおられるならば…」と言いたくなる心は理解できます。
ですが、このような現実には、何かは分かりませんが神の深いみ心があると私は受け止めます。
人生には嵐はないほうが良いと思います。しかし嵐も困難もないと人間はどうなるのか。おそらく何も成長しないような気がします。
苦難の中に置かれる時、人は強くされます。事実、風雪に見舞われた樹木は鋼のように強い。
人生の困難、試練…それらは、人間を人間らしくしてくれるのかも知れない。
痛みの分かる優しい人にしてくれるに違いないと私は思うのです。

磯部豊喜

みことばの花 201202「勤労」

「そして、あなたがたに命じておいたように、つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。」(Ⅰテサロニケ 4:11  口語訳)  

先日ラジオに、水木しげるの漫画ゲゲゲの鬼太郎の「歌」が流れていました。
そこには「楽しいな~楽しいな~○○〇にゃ学校も試験も何にもない」とあったような。
この歌詞を耳にして「本当にそれで楽しいのか」と思いました。
ところで聖書の語る天国はどういうところなのかを考えました。天国は「仕事も、勉強もない」所なのだろうか。
ところが聖書に記された天国らしい描写には、必ずしも「天国は何もしないところ」ではないことがわかる。
無限の知識を得るための学びがあるらしいし、「彼らは家を建てて」「ぶどうを植えて」(イザヤ65章 口語訳)とかを見ると、仕事もある。
ですが、きっとその仕事は心から楽しめるものなのだと思う。
もし何もすることのないとしたら、それは反対に苦痛かも。
さて上記には、「仕事に身をいれ、手ずから働きなさい」とある。これも人生を楽しむ一つだと私は思う。

磯部豊喜

みことばの花 201201「恵みを数える」

みことばの花 201201「恵みを数える」

「わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。」(詩篇 103:2 口語訳)

聖歌という歌集の中にこういう題の歌があります。題は「のぞみも消えゆくまでに」。

「のぞみも消えゆくまでに、世の嵐に悩むとき、数えてみよ主の恵み、なが心は安きを得ん。
数えてみよ主の恵み、数えてみよ主の恵み、数えてみよ一つずつ、数えてみよ主の恵み」。

これは歌詞の一番ですが、この中に「数えてみよ主の恵み」とあります。
ややもすると恵みを数えるよりも、悲しいこと、辛いこと、嫌なことを、数えすぎてはいないか…と私は自問します。
それよりも「主の恵みを数える」ことのほうが、私の心の衛生には良いに違いない。
朝目覚めて、夜就寝するまで、今日も生かされていた、今日もあの人と会えた、今日もこういうことが出来た、今日も…と感謝の種をかき集めてみる。
この種はきっと、明日、明後日、いえ一年後に芽吹くに違いない。
「すべてのめぐみを心にとめる」習慣を身につけたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 201130「最多」

みことばの花 201130「最多」

「…しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。」(ローマ 5:20 口語訳)

ここのところ、「最多」という言葉が耳に止まります。何のことかといいますとそれは新型コロナ感染の報告。
今朝も、「東京のコロナ感染数は、日曜日としては過去最多」とか「重傷者最多462人」とかの報道が流れました。
このような折、一つの聖句が浮かびました。それが上記です。
新型コロナと罪は直接には無関係かも知れませんが、なぜかこのみ言葉が浮かぶのです。
罪は人を永遠の死に至らすもので、とても嫌なもの。
罪の究極は「愛の神を必要としないと思うことだ」とある神学者は語っています。
愛の神から心の目をそらそうとする人間に、それでも神は見捨てず、「恵みもますます満ちあふれた」と語る。
今日、その恵みを数えてみませんか。

磯部豊喜

みことばの花 201129「掃除」

みことばの花 201129「掃除」

「そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。」(ルカ 11:25 口語訳)

今日は教会の年末大掃除。年末には各家庭でも大掃除をして、正月を迎えるのではないかと思います。
私は掃除中に一番迷うのが、「これは捨てるべきか残すべきか」などという哲学的考察をしてしまって掃除の手が止まることです。
さて、上記の聖句は「掃除」の話。聖書に「掃除」という言葉の登場する唯一の物語。
「掃除」されている家は気持ちの良いものです。
ですがこの話では、きれいに整えられた所に、「汚れた霊」が戻ってきて、悪いほかの七つの霊を連れてきて、住み着くという。
これは人の心をあらわすたとえです。人の心も油断していると、すぐに「汚れた霊」に支配されるという教訓です。
掃除されて空いた部屋には、何かを入れなくてはならない。
まず心に愛の主キリストをお迎えしたい。そうすれば大丈夫。心の部屋作り注意したい。
今週も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201128「父の子となる」

みことばの花 201128「父の子となる」

「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。
敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。…」(マタイ 5:43~45 口語訳)

上記は、果たしてどれほどの人々に受け入れられる言葉でしょうか。
相手は敵なのです。自分の身(存在)を脅かす者です。人は一生の間、きっとどこかに敵という存在に出会うと思います。
気の合わない人、考え方や価値観の異なる者に出会わない人はいないと思う。
こういう人に出会って、上記の言葉を聞いたとしても納得し難い。
しかしこれは神の御子キリストの教え。キリストは「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という。
これは相手のためというより、自分の心の安定のための教えかも知れません。
憎しみの心は、人の心から平和を奪います。ですが敵のために祈るとき、人には届かない世界に入っている。父(神)の子を特徴づける世界に入っている。
父の子となれるならば、この祈りをささげたい。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 201126「父よ、彼らを①」

みことばの花201126「父よ、彼らを①」

「イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った、『わが父よ、彼らを撃ち殺しましょうか。彼らを撃ち殺しましょうか』。」(列王下 6:21 口語訳) 

聖書には、「父よ、彼らを」という言葉を調べてみますと、二か所あります。その一つが、上記の聖句です。
イスラエルと戦っていたスリヤの王が、自分たちの作戦がイスラエルに筒抜けなのを知り、エリシャと呼ばれる預言者のわざであることがわかりました。
そこでスリヤの王は、エリシャを捕らえるために大軍を送ります。
ところがエリシャが神に祈ったときにスリヤ軍は目をくらまされ、そのままイスラエルの捕虜になったのです。
この時、イスラエルの王がエリシャに語ったのが上記の言葉です。
敵は袋のネズミ。敵を滅ぼす機会だとイスラエルの王は考えます。
しかしエリシャは答えます。「それはならぬ、むしろ彼らの腹を満たして国に返しなさい」と。
ここに敵をゆるすという神の世界があります。

磯部豊喜