みことばの花 181119「筒抜けの言葉」

みことばの花181119「筒抜けの言葉」

「彼らはヨセフが聞きわけているのを知らなかった。相互の間に通訳者がいたからである。」(創世記 42:23)

今日はまずホットな話題を。言葉は、地方によって異なっていますが、ある雑誌編集者の観察によれば、「京都は『はひふへほ』、大坂は『ばびぶべぼ』、神戸は『パピプペポ』」だそうです。京都弁は確かに…、納得します。大坂には「難波、道頓堀、堂島…」など濁音のものが多い。神戸となると、そんなイメージかも。では千葉は?私(磯部)イメージは「だべぶぺぽ」です。「だべ」とか「すっぺ」とかの語尾。さて、言葉遊びは興味が尽きませんが、外国語圏の人が、私の語る言葉を知っていたらドキッとします。上記はエジプトの宰相になったヨセフの物語の中の聖句です。ヨセフは少年の頃に兄たちにエジプト行きの隊商に売られてしまいましたが、神の導きでエジプトの総理大臣になった。そこへ飢饉のために兄たちがエジプトにやってきて再会しますが、兄たちは彼がヨセフだと気づかない。彼らの話は実はヨセフは通訳をつけていたものの筒抜けでした。実は私の心の会話も神様の前では筒抜けなのです。独り言であっても良い会話を自分自身の心の中でしたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 181118「迷う」

みことばの花181118「迷う」

「主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。」(詩篇 26:1)

「迷う」ということ、それは私にとって金魚のフンのように追いかけてきます。スパスパ!と決定できて「迷い」のない人生を送れたらどんなに良いかと時々思います。ところで「迷い」について、落語家の柳家小三治さんは「安心しているときが、一番危ないときだよ。迷ってねぇときは、危ない。迷っているときは、もっと危ない。要するにいつも危ない」と言っておられます。また毎日新聞記者の小国綾子さんは「迷うのは、自分で選ぼうとしている証拠、自分の頭で考えれいる人だけが得られる『勲章』みたいなものだ」と言っておられます。どちらも納得します。人生はとにかく二者択一という場面が多いです。

要は「迷って良いもの」と「迷ってはいけない」ものがあるということでしょうか。上記の「迷うことなく主に信頼しています」と語る詩篇記者の言葉は、いいなあと思います。自分の小さな選択は迷ったとしても、人生と言う大きな選択だけは迷いたくないものです。今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

 

みことばの花 181117「いなくなって存在感を増す」

みことばの花181117「いなくなって存在感を増す」

「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」(ヘブル 11:4)

上記は、「信仰によって義なる者と認められた」と称されるアベルという人に関しての言葉です。人の価値は、その人がいなくなって測られるのでしょうか。いるときは「うっとうしい」とか「煙たい」とか思える人でも、いなくなってみると、「ああ、もう一度あの人の言葉を聴きたい」と思える人になれたら素晴らしいと思います。上記のみ言葉に続き、「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。」(ヘブル11:5)とエノクという人が登場します。エノクは、忠実で敬虔な信仰者でした。時には悪を責めた人物だったようです(ユダの手紙14,15参照)。ですが彼がいなくなって、人々は寂しく思ったらしい。「生き物は、いなくなってから存在感を増す」(那須圭子・原発反対運動の写真家)という言葉。味のある言葉です。「いなくなって存在感を増す」人に近づけたら本望です。今日は第七日安息日、「いなくなって存在感をいよいよ増す」イエス・キリストを今日も求めたいと思います。

磯部豊喜

 

みことばの花 181116「起きなさい」

みことばの花181116「起きなさい」

「イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、『起きなさい、恐れることはない』。」(マタイ 17:7)

今朝はキリストがお語りになられた短い言葉に注目。その一つは「起きなさい」という言葉。キリストがこの言葉を語られる時、人を助け、励ます場合が多い。「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、『若者よ、さあ、起きなさい』と言われた」(ルカ7:14)。「イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、『起きて、まん中に立ちなさい』と言われると、起き上がって立った」(ルカ6:8)。「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」(ヨハネ 5:8)。「イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、『娘よ、起きなさい』」(ルカ 8:54)。キリストは起きて立ち上がらせる力を持っておられるのですね。そういえば聖書は、今日の私にも「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう。」(エペソ5:14)と語りかけておられます。心の眠りがちな私への金言としたい。

磯部豊喜

みことばの花 181115「広い視野」

みことばの花181115「広い視野」

「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(ピリピ 2:4)

視野という言葉があります。視野の広さは、きっと自分の側の視点だけに立たないことを指していると思います。自分の側から物を言うのはたやすい。しかし同時に、相手の側にも立ってみなければ、それは狭い視野となる。父とその幼い息子とのこのような話のやりとりをみました。「お父さん、敵のヘルメットを持って帰って来て。そんなふうに幼い息子からねだられ、出征した父親がいた。第一次世界大戦でドイツと戦ったフランスの兵士である。持ち帰るのはむりかもしれないと、戦場から手紙を書いた。『考えてごらん。ドイツ人だって僕たちと同じなんだよ』。もし逆なら、お前はどう思うか。お父さんの軍帽を、ドイツ兵が自分の子どもに持ち帰ったとしたら―。殺される側のことを教えようとした彼は、1915年に戦死した」(11月13日朝日新聞1ページ)。悲しい話ですが、自分のサイドからの視点だけでなく、相手側の視点も父は考えたのです。上記のみ言葉を心に刻み、常に広い視野でいたいと思うのです。

磯部豊喜

みことばの花 181114「十人」

みことばの花181114「十人」

「ギデオンはしもべ十人を連れて、主が言われたとおりにおこなった。ただし彼は父の家族のもの、および町の人々を恐れたので、昼それを行うことができず、夜それを行った。」(士師 6:27)

十人という数は良いものです。聖書の中で人間の最小グループは10人を指している場合が多いです。ルツ記という聖書の中には、外国人女性であったルツを妻にするにあたって、ボアズという人は、手続き上、「ボアズはまた町の長老十人を招いて言った、『ここにおすわりください』。彼らがすわった時、ボアズは親戚の人に言った、『モアブの地から帰ってきたナオミは、われわれの親族エリメレクの地所を売ろうとしています。』」(ルツ 4:2,3)といい、十人の長老たちに証人となってもらい、結果としてルツを妻にめとりました。上記は、イスラエルを誘惑していた偶像を壊すのに、士師のギデオンが、「しもべ十人」を連れてこれを破壊したときの聖句です。最低同志が十人いれば、意見はまとまり、力も強くなります。今千葉教会でも十人の有志による講演会を行っています。日に日に出席者が増えているのは、牧師にとって励みになります。「十人十色」と言いますが、十人の個性がキリストのもとに一つになって説教する姿は実に頼もしいものです。※この講演会は明日最終日を迎えます。

磯部豊喜

みことばの花 181113「塞翁(さいおう)が馬」

みことばの花181113「塞翁(さいおう)が馬」

「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。」(伝道の書 7:14)

「人間万事塞翁(にんげんばんじさいおう)が馬」、最近知った言葉です。次のような話に基づいています。「昔、中国地方の塞(とりで)近くに住む老人(塞翁)の馬が逃げたので、人々が気の毒がると、老人は『そのうちに福が来る』と言った。やがて、その馬は駿馬(しゅんば=優れた馬)を連れて戻ってきた。人々が祝うと、今度は『これは不幸の元になるだろう』と言った。するとこの駿馬に乗った老人の息子は、落馬して足の骨を折った。人々がそれを見舞うと、老人は『これが幸福の基(もとい)になるだろう』と言った。一年後、隣国が攻めて来て戦になり若者たちはほとんどが戦死した。しかし足を折った老人の息子は、兵役を免れたため、戦死しないで済んだ」という。良いことに有頂天にならず、悪いことに失望せず、人生の裏表を冷静に見つめる。上記の聖句にも、順境も逆境も前向きに飲み込んでいく生き方に良き人生の道があることを覚えたい。今日の主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 181112「憂い」

みことばの花181112「憂い」

「心に楽しみがあれば顔色も喜ばしい、心に憂いがあれば気はふさぐ。」(箴言 15:13)

顔色のことがここに書かれています。人の心の状態は、顔にも、態度にも変化を与えます。生体リズムを表すバイオリズムという言葉もありますが、人はいつも平静で安定した心身の状態ばかりとはいえないかも知れません。少なくとも私は牧師でいながら、未だに上がったり落ちたり、釣り糸を垂れて、その先の水面に浮かぶ「ウキ」のようです。気持ちが塞いでしまうとき、人は字を見ても、言葉を聞いてもへんな解釈をしてしまう。次は、ある会社員の言葉です。「『三連休』という新幹線での電光掲示板の文字が『三遺体』に見えた。スピーカに流れる『醍醐味(だいごみ)』が『粗大ゴミ』に聞こえた」。「心に憂いがあれば気はふさぐ」、たしかにこれは当たっていると思います。こういう時はどうすれば良いのか。「憂い」を「うれしい」と言い換えてみるのも一策かも。いえいえ、まず神様のみ顔を仰ぐことだと思います。主は光、「闇はこれに勝たなかった」とあります。闇の心を追いやる天の光に触れたい、「もっと光を!」と求めたい。

磯部豊喜