みことばの花 190712「することができる」

みことばの花190712「することができる」

「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。」(ピリピ4:13) 

上記はわたしの好きな聖句の一つです。
ここには「何事もできない」とか「だめだ」という悲観的な言葉は書かれていません。
とはいうもの時々、「できない」とか「だめた」という弱音の虫が私の心の中で騒ぐことがあります。
今朝、高校野球の地方大会で取り上げられた一選手の話を聞きました。
彼は小学校5年生時に脳梗塞を発症し右側がマヒとなりました。
とても悔しい、でもこの少年は「野球をやりたい」一心で懸命にリハビリをしバッドを振れるようになりこの夏、ベンチ入りし代打で出場。
空振り三振で彼の夏の高校野球は終わりましたが、彼の言葉がいい。
「自分は『出来ない』という言葉が嫌いです」。
実際、人にはできないことはたくさんありますが、最初からあきらめない生き方には魅力があります。
今日も上記の聖句を唱えてスタートをしたい!

磯部豊喜

みことばの花 1907111「ネピリム」

みことばの花1907111「ネピリム」

「わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。
わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」(民数記 13:33)

「ネピリム」も良く分からない名です。聖書には2カ所しか登場しません(他は創世記6:4)。
意味は不明ですが、「巨人」であることは確かです。
ダビデと戦った巨人ゴリアテのような大男だったのでしょうか。
ダビデの場合、神と共に生きた小男が大男に勝利したという記録ですが、実に励まされます。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190710「何もしない人②」

みことばの花190710「何もしない人②」

「五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。」
(マタイ 20:6)

昨日書きました「何もしない人」は、本当に何もしないのに、何と1年間で1000件もの依頼があったという。
彼を知る人の中では、ちょっとした人気者らしい。絶妙な距離感を保って依頼者の傍にいるだけ。
さて上記の聖句ですが「何もしないで、一日中立っている人」の話です。
この不思議な人を農場主が声をかけました。農園に来てもらった。
彼はそこではもう働く時間などない。
すぐに仕事の終了時間が来て賃金を真っ先に受けた。
その金額は何と一日分の給料。
これは何を意味しているのか。
神の祝福の意味を示している。
主人は、この男が「一日中立っている姿に」心が動いた。
先の「何もしない人」も実は、依頼者の傍にいるだけで人の役に立っている。
何をしてもしていなくても誰かの役に立ちたいと願う。
そういうことが大切なのかも知れませんね。
主の祝福が今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190709「何もしない①」

みことばの花190709「何もしない①」

「五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。」
(マタイ 20:6)  

「何もしない人」という人のことを知りました。
「何もしない人」に連絡を取り、交通費のみ支払って「野原で遊びたいので、一人では恥ずかしいから、ただ傍にいてくれればいい」「部屋の片づけをしたいのでただ近くにいてくれたらいい」…という具合で「何もしない人」に、自分の時間を共有してもらう。
「何もしない人」は自分のスマホを眺めるくらいで「何もしない」。
することと言えば、「ただ傍にいるだけ」。
この人、収入はゼロ。
ところがこの人についての本が出版されて、その印税が彼に届けられるという。
「何もしないで立っている」姿に、上記の聖句を思いました。
この何もしないで、一日中立っている人は、なぜだか特別な祝福を主人から受けます。
明日、書かせて頂きます。

磯部豊喜

みことばの花 190708「主の御名による祈り」

みことばの花190708「主の御名による祈り」

「この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。」(黙示録 12:9) 

昨日の続き。昨日、主(対)龍=主の勝ち、と書きました。
上記のごとくです。この世界には「龍」を「神」として崇拝する人々がいますが、
彼は「神」ではなく「神になろうとしたが地に落とされた偽物の神」です。
彼は神の御子キリストには決して勝つことが出来ません。
キリストは「神」が「人」になったお方だからです。
ところで「人+主」(対)龍=「人+主」の勝ち、も成り立つと書きました。その勝利の秘訣は、「主の御名による祈り」です。
人が「キリストの御名によって祈る」とき「龍(悪魔)」は恐れます。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190707「レビヤタン」

みことばの花190707「レビヤタン」

「そこに舟が走り、あなたが造られたレビヤタンはその中に戯れる。」(詩篇 104:26)

「レビヤタン」とは何か。
ヨブ記40章25節~41章全部を読むと、人間が戦っても勝ち目のない勇猛な巨大海獣を想像します。
「あなたはレビヤタンの頭をくだき、これを野の獣に与えてえじきとされた。」(詩篇74:14)
「その日、主は堅く大いなる強いつるぎで逃げるへびレビヤタン、曲りくねるへびレビヤタンを罰し、
また海におる龍を殺される。」(イザヤ27:1)によれば、彼を倒せるヒーローは「主」のみです。
「レビヤタン」は神話的な怪獣。
これは悪魔の象徴である「龍」かも知れません。
「龍」は人間が勝てない存在。ですが主なる「キリスト」には負ける。
人(対)龍=龍の勝ち、主(対)龍=主の勝ち、「人+主」(対)龍=「人+主」の勝ち、という数式が成り立ちます。
今日も主の守りがありますように。
磯部豊喜

みことばの花 190706「ベリアル」

みことばの花190706「ベリアル」

「キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。」(Ⅱコリント 6:15) 

聖書を開き読むときに時折、意味の分からない単語が出てきます。
しばらくこの分からない言葉を見つめてみたい。
今朝は「ベリアル」。これが千葉教会の集会で話題になりました。
「いったいこれは何者だ?」と。
旧約聖書では「ベリッヤアル」に相当し、「悪い者」とか「よこしまな人」という意味になる。
祭司エリの息子たちがそのような人でした。
「ベリアル」の本体は、神の敵である「サタン(悪魔)」です。
私は「ベリアル」の仲間になりたくはない。
人はいつしか「キリストに属する者」になるか、あるいは「サタンに属する者」になるかを選ばなくてはなりません。
今日は主の日である第七日安息日、良き選びをしたいものです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190705「今日が最後の日」

みことばの花190705「今日が最後の日」

「それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。」(ハガイ1:5)

車のハンドルを握ることはとても怖いことです。
「注意一秒、ケガ一生」ならまだしも「絶命」もあり得る。
ですから私は祈らずにハンドルを握らない日はありません。
それでも人の命はいつ断たれるのか分かりません。
それゆえに後悔のない生き方が、日々問われているような気がします。
<ジムが最後に母に語った言葉。「ハーイ、ママ!愛しているよって言いたくて電話したんだ。
もう仕事に行かなくっちゃ。じゃあね!」20歳のジムはこの日、交通事故で亡くなった。
(こころのチキンスープ2集より)>ジムの言葉には母への愛がこもっています。
「今日が最後の日」ならば、どんな言葉を人に送り、どんな行動を取るでしょう。
何よりも、愛を伝えることを日課としたいものです。
このジムのように。今日も主の愛と守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190704「クリスチャン③」

みことばの花190704「クリスチャン③」

「しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。
かえって、この名によって神をあがめなさい。」(Ⅰペテロ 4:16) 

これは「キリストに属する者」という意味を持つ「クリスチャン」という呼び名が書かれている三つ目の聖句箇所です。
人生にはいろいろな種類の苦しみがあります。
自分が失敗して苦しみを背負うとか、自分が外れた道を歩んだために苦しむとか…。
これとは反対に、正しく生きて苦しむこと、キリストを信じるゆえに苦しむ場合もあります。
ペテロという人は、その両方を味わった人物です。
前者は自分自身に責任があります。
ですが、後者は他者に非があります。
ですからペテロは自分の体験を通して、「クリスチャンとして苦しを受けるのであれば、恥じることはない」と語ります。
苦しみを味わう時、この苦しみの出どころを点検したい。
心に責められることのない生き方をしたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190703「クリスチャン②」

みことばの花190703「クリスチャン②」

「アグリッパがパウロに言った、『おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている』。」(使徒 26:28)

「クリスチャン」という言葉が登場する二つ目の聖句箇所です。
キリスト教徒に対して元迫害者であったパウロは、改心後に口を開けば「キリストが人類の罪を背負って十字架にかかって死んだこと、
その死者の中から復活されたこと」を熱い心で説き始めました。
上記はかつてキリストを抹殺しようとしたユダヤのヘロデ大王(マタイ2章)の曾孫アグリッパ王の前に立ちキリストを伝えた場面です。
このアグリッパの言葉が気になります。
「わたしをクリスチャンにしようとしている」ではなく、「クリスチャンになります」と答えたら良かったのにと…。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜