みことばの花 191211「他人の益のために」

みことばの花 191211「他人の益のために」

「だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。」(Ⅰコリント10:24 口語訳)

昨夜、NHK「クローズアップ現代」でアフガニスタンに人生を捧げ、非業の死を遂げられた中村哲医師のことが放映されていました。
中村医師は「『世界平和のために戦争をする』という言葉は偽善か茶番で長続きすることはない」
「武力ではテロはなくならない」といっておられました。
また医療を行うと共に、環境を変えねばと思い、草一本もない砂漠に川の水を引く作業を行って25Km以上の用水路を完成させた結果、
そこに作物が育ったのです。
先生は「アフガンの問題は、パンと水の問題、食べることさえできれば、兵士にはならない」という。
中村医師は「他人の益のために」命を燃やされました。
このような人生に一歩でも近づきたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 191210「何を語るか」

みことばの花 191210「何を語るか」

「もしあなたが、つまらないことを言うのをやめて、貴重なことを言うならば、わたしの口のようになる。…」
(エレミヤ 15:19 口語訳)

「口はわざわいの元」とはよく聞く言葉です。
自分が何を語るか、例えばつぶやきの言葉さえ、その言葉は、人に対しても自分自身にも影響を与えます。
ある教会を建てるという建築現場での三人の「つぶやき」言葉があります。

①この仕事は、不況でこんな仕事しかないので仕方なく行っているのだ。
②この仕事は建物つくり、仕事も給料もマアマア。私の生活に必要だから。まあこれでもいいか。
③この仕事は教会を建てること。ここで多くの結婚式が行われる。多くの人が、牧師と相談ができ人を癒す場所。うれしい仕事だ。

…この3種類のつぶやき言葉、どれが一番良いでしょう。
私が発信する言葉は人を引き下げるのか、夢をもたらすのか?
つまらない言葉でなく、貴重なことを語れる者になりたい。

磯部豊喜

みことばの花 191209「死は眠り」

みことばの花 191209「死は眠り」

「すると弟子たちは言った、『主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう』。」(ヨハネ 11:12 口語訳)

イエス・キリストと弟子たちの押し問答です。
上記は弟子たちの言葉。
これより次のように続く。
「イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。」(同13節)キリストは「死は眠り」であると言われました。
私たちの認める死のそれは、永眠のようです。
しかし私は死について「永眠」という言葉は使いません。死はしばらくの眠り。
それは復活があると約束されているからです。
神のみ言葉の約束は真実、それは必ず成ります。

磯部豊喜

みことばの花 191208「やられたら、やりかえせ?」

みことばの花 191208「やられたら、やりかえせ?」

「『彼がわたしにしたように、わたしも彼にしよう、わたしは人がしたところにしたがって、その人に報いよう』と言ってはならない。」(箴言 24:29 口語訳)  

聖書の中に「目には目を、歯には歯を」という言葉があります。
その言葉があることは事実。ですがこれは間違って解釈されています。
「相手が目を傷つけるならば、相手の目を傷つけてもOK!」と。
つまり「やられたら、やりかえせ」という解釈です。
ですが聖書には上記のような言葉もあります。
そこで「目には目を、歯には歯を」の本意を探すために聖書を調べますと、
これは報復の奨励でなく、必要以上の報復をするなということと、償いの方法を教えているのです。
「相手に目を傷つけたら、相手の目だけを傷つけるに止めよ」と。
キリストは、さらに進み「善を返すことによって悪に勝ちなさい」と教えています。
相手を許す広い心を持ちたいものです。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 191207「印象」

みことばの花 191207「印象」

「イエスは涙を流された。」(ヨハネ11:35 口語訳)

第一印象が実際と異なっていると耳にすることはありませんか。
私は有る方から「先生は泣き出しそうな顔をしている。
うつになったことはありませんか。」と聞かれたことがあります。
またある方から「牧師さんは、講壇の上では怖い顔をして説教をしている。
もっとニコニコして話をしませんか」と言われたことがあります。
「大きなお節介、もともとこんな顔なのだ!」と少しムッとするのですが、
第一印象で人は判断されやすいので注意しなくてはなりませんね。
ところでイエス・キリストの御顔の記録でキリストが涙を流したという記録はありますが、
キリストが笑ったという記録がないのは不思議です。
これを理由にムッツリ顔を容認してはいけませんが、周りに優しさ(表情からも)を届けられたらいいですね。
特に今日は安息日、顔の身繕いをして講壇に立たねば…!ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 191206「先走り」

みことばの花 191206「先走り」

「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。
主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。
その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。」(Ⅰコリント 4:5 口語訳)

私の未熟さなのか、しっかりと確かめることなく自分の思い込みで行動をとってしまうことが時々あるような気がします。
物事を冷静に見つめていれば、事の真相を間違いなくキャッチすることが出来るのに。
これを「先走り」というのでしょうか。
「軽はずみにでしゃばること」と辞書にあります。
この「先走り」の中で良くないものは、「先走り」が「人をさばく」ことと結びつくときです。
人の意見や行動の本意を確かめもせずに、
あたかもその人の心をキャッチしたかのように勝手に解釈し「さばき」を始めてしまうことです。
人のとる良い行動も、悪く解釈されてしまうことになります。
もし「さばき」の思いが頭をもたげる時、上記の聖句を思い出したいものです。
今日も平和の神が私の心をコントロールしてくださいますように。

磯部豊喜

みことばの花 191205「生んだ」

みことばの花 191205「生んだ」

「セムはアルパクサデを生んで後、五百年生きて、男子と女子を生んだ。」(創世記 11:11 口語訳) 

上記の「セム」という人は、ノアの息子でノアの大洪水後502年ほど生きた人です。
ところで創世記5章には「彼は死んだ」という言葉を紹介しましたが、
このアダムの系図とは違って、セムの系図には「男子と女子を生んだ」という言葉が多い。
「死んだ」と「生んだ」は正反対の内容です。
アダムの多くの子孫は「死んだ」となっていますが、セムの子孫は「生んだ」となっています。
なぜ11章では「死んだ」を強調せずに「生きた」と書いていあるのでしょう。
罪を犯した(アダム)の子孫の多くは「死んだ」、ですが罪を悔い改めて神を見る人は「生きた」とでも語りたいようです。
「罪を犯すのは」残念ですが罪は人の「命を死なせ」、一方の「罪を悔い改める人」は「命を生んだ!」と私には読めるのです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 191204「死が敗北する時」

みことばの花 191204「死が敗北する時」

「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(Ⅰコリント15:55 口語訳)

「神と共いまして、ゆく道を守り、愛の御糧もて、力を与えませ。
また会う日まで、また会う日まで、神の守り、汝が身を離れざれ」という讃美歌詞には、希望があります。
Sさんのご逝去は、私の心を寂しくしました。
一緒に「賛美ライブ」をした事、CD作成のお手伝いをしてくださった事。
楽しくジョークを飛ばし合った事などが脳裏から離れません。
Sさんとの関りはわずか5か月でしたが濃密なものでした。
ですが今日の聖句には励まされます。
「死が敗北する時」が来るのですから。

磯部豊喜

みことばの花 191203「いなくなった」

みことばの花 191203「いなくなった」

「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(創世記 5:24 口語訳)

創世記5章(口語訳)に多く出てくる単語があります。それは「そして彼は死んだ」という言葉です。
「アダムの生きた年は合わせて九百三十歳であった。そして彼は死んだ。」(5:5)
「セツの年は合わせて九百十二歳であった。そして彼は死んだ。」(5:8)
「エノスの年は合わせて九百五歳であった。そして彼は死んだ。」(5:11)…と続きます。
数えて8カ所にそれが登場します。
ところが一人だけ、異なる表現が記されています。
それはエノクという人についてです。
「エノクは神とともに歩み、神が彼を取られたので、いなくなった。」(5:24)とそこにあります。
エノクの場合、「死んだ」のではなく「いなくなった」。
昨日はSさんのことを書きましたが、私にとってSさんは「死んだ」のは事実ですが、「いなくなった」という感覚があります。
ほんの少しいなくなって、またすぐに戻って来る感覚がします。
その時は、確かに来ます。キリストの再臨の時に…!

磯部豊喜

みことばの花 191202「本懐」

みことばの花 191202「本懐」

「望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ。」(箴言 13:12 口語訳)

昨日Sさんの告別式を無事に終えました。
その司式をさせていただいたのですが、とても感動的な式であったと思います。
今回、告別式としては異例のご本人の声(歌)を流す機会を持ちました。
それが故人の遺言でもあったからです。
生前、Sさんの導きで「賛美ライブ」を行いましたが、その時にSさんが歌った「ありがとう」という曲です。
式の最後に喪主である息子様の「僕にとって母は最高の母です」の言葉に一同涙しました。
Sさんがもし生きていてこの告別式を見ることができたならば、まさに「本懐(本来の希望)」を遂げた式ではなかったかと思います。上記のみ言葉のように…。
本懐を遂げる人生を目指したいと私も思いました。

磯部豊喜