みことばの花 200203「傾聴」

みことばの花 200203「傾聴」

「愛する兄弟たちよ。このことを知っておきなさい。人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。」
(ヤコブ 1:19 口語訳)

昨日名前を書き連ねました佐藤初女(さとうはつめ)さん、独特の対人感覚を備えた人であったといいます。
聴く側に徹し、諭すことはなかった。
そしてこういう持論をもっておられました。
「ともに食することはともに在ること。言葉を尽くして話すより、深いところで通じ合える」。
さらにこういう言葉も遺しておられます。
「私は本人が気づくのを見守るだけ、自分で納得して答えが出せた人は、まわりが驚くほど変わっていきます」
(朝日新聞天声人語2020・2・1参照)。
すごい言葉です。
上記の聖書の御言葉のように、「聞くに早く、語るにおそく」という生き方をしたいものです。
聴くことは力なり。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200202「しばらく休む」

みことばの花 200202「しばらく休む」

「するとイエスは彼らに言われた、『さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい』。
それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。」(マルコ 6:31 口語訳)

「人間関係で行き詰ったときは心を騒がせず休ませます。煮物と一緒。時間を置くとじんわりします」と言われた方がいます。
4年前に94歳で亡くなられた青森県弘前市の佐藤初女(さとうはつめ)さんです。
この方は、山小屋やを建ててどんな人であれ訪問者を受け入れて話を聞いてこられた人とのこと。
時として時間の流れに身を任せる生き方もいいなと思います。
この一見無駄に思える生き方が、ガサガサした時間の流れの中で過ごす方よりも、
実は生産的な時間を過ごすこともあるような気がします。
上記の御言葉もそのようなススメのようです。

磯部豊喜

聖句カード (「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。詩篇46編10節 口語訳)

聖句カード (「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの
        国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。詩篇46編10節 口語訳)

みことばの花 200201「食事を共に」

みことばの花 200201「食事を共に」  *聖句内の「わたし」は「キリスト」のこと。

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(黙示録 3:20 口語訳)

「家族ってなんだろう」と考える時がります。
どこで聞いたのか記憶がありませんが、こんな言葉の記憶があります。
「家族とは同じ釜の飯を食べる人々」。同じ食卓を囲み、仲良く談話しながらその交わりを楽しむことこそ家族だと。
そういえば私どもの教会では、毎週土曜日の昼食時に、そのような光景をみます。
「これがキリストに結ばれる家族なのか」と私の心はうれしくなります。
このような家族のスタイルは、イエス・キリストの御言葉にも記されています。
「食を共にする」こういう交わりは素敵ですね。
もちろん「楽しく」がその頭につかなくてはなりませんが。
「楽しく食事を共にする」。
今日はその第七日安息日、教会でちょっぴり大きな家族の輪を楽しみたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 200131「つながる」

みことばの花 200131「つながる」

「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。
枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、
あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。」(ヨハネ 15:4 口語訳)

今回東京の自宅で数日間を過ごしました。
ところが電気使用容量がオーバーしたのでしょう。ブレーカーが落ちてしまい一時停電をしました。
その時の影響を受けたのか、持参したPCがネットもメールもストップしてしまいました。
いろいろな試みをしましたが、どうしても回復しないのです。このとき「つながる」ことの必要を実感しました。
千葉へ戻り、別のPCを使用して今はこの「みことばの花」も配信することができました。
この体験を通して、「つながる」ことの大切さを身に沁みました。
そしてPC以上に大切なつながりがある。
それは上記の「わたし(イエス・キリスト)」につながること。
キリストにつながって愛の電気を送ってもらわなくてはと思ったのです。
人生の豊かな実を結ぶために。

磯部豊喜

みことばの花 200130「必要に応える神」

みことばの花 200130「必要に応える神」

「主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。
わたしはあなたに『暴虐がある』と訴えたが、あなたは助けて下さらないのか。」(ハバクク 1:2 口語訳)

祈りは聞かれると答えたいのですが、祈りには自分の思うようには聞かれないことがあります。
上記の預言者ハバククのように、正しい訴えを神様に捧げているのに願通りに答えが返って来るとは限りません。
そうなると祈りは、感謝でなく嘆きに変わってしまいます。
昨日でしたか。「神は願ごとはすぐに答えないかもしれないが必要には答えてくださる」という言葉を聞きました。
私の願い事が正しい訴えの内容でも、神にはお考えがあるようです。
そしていつの日か、最も良い時に必要に応えてくださる、これが私どもの神様だというのです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200129「金のように」

みことばの花 200129「金のように」

「しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、/わたしは金のように出て来るであろう。」
(ヨブ 23:10 口語訳)

先日、ヨブは孤立していたことを書きました。
上記はそのヨブの言葉の一部です。
彼は周りの人々から責められている中で、彼が心底から求めていたのは、「彼(神)」です。
この章の2~4節には「きょうもまた、わたしのつぶやきは激しく、彼の手はわたしの嘆きにかかわらず、重い。
どうか、彼を訪ねてどこで会えるかを知り、そのみ座に至ることができるように。
わたしは彼の前にわたしの訴えをならべ、口をきわめて論議をするであろう。」とヨブの思いが述べられています。
人生の試みに遭う時、人は悲観的になります。
ですがヨブは、訴えるべき方を知っていて、この試みも自分を金のようにすると希望を告白します。

磯部豊喜

みことばの花 200128「ねたみ」

みことばの花 200128「ねたみ」

「あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。」(出エジプト 34:14 口語訳)

この聖句に触れる人は「え~」と驚くことでしょう。
天の神の名が「ねたみ」というのですから。
そこで、別の聖書では「ねたみ」と訳されるこの箇所を「熱情」(新共同訳)としています。
ですが私個人は「ねたみ」と訳す口語訳聖書は、考える必要を与えてくれるのでこれも良いと思う。
「ねたみ」という言葉は神の御品性を考えると理解し難い言葉。
ですが次の御言葉と合わせると納得します。
「それとも、『神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる』と聖書に書いてあるのは、
むなしい言葉だと思うのか。」(ヤコブ4:5 口語訳)。
神の「ねたみ」は人間のねたみと異なり、「その愛の激しさ」を表現します。
今日も主の深い愛が注がれますように。

磯部豊喜

みことばの花 200127「天が落ちかかろうとも」

みことばの花 200127「天が落ちかかろうとも」

「このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。」(詩篇 46:2 口語訳)

私の住む千葉教会は、4階建ての鉄骨造りだと思いますが、なぜだか大きな車が近くを走るたびにグラグラと揺れます。
地盤が緩(ゆる)いのでしょうか?ですが、これは私の心にも言える。何かが起きるとグラグラと揺れる。
ゆえに「不動の心を持ちたい!」、と願うのです。
さて次の言葉を見ました。

「世界で最も欠乏しているものは人物である。それは、売買されない人、魂の奥底から真実で、正直な人、
罪と罪とよぶのに恐れない人、磁石の針が南北を指示して変わらないように、良心が義務に忠実な人、
天が落ちかかろうとも正しいことのために立つ人。―そういう人である」(エレン・G・ホワイト『教育』p54)。

揺れやすい心の私があこがれるいい言葉だと思います。
今日も主の支えがありますように。

磯部豊喜