みことばの花 200507「断食祈祷」

みことばの花 200507「断食祈祷」

「そこでヨシャパテは恐れ、主に顔を向けて助けを求め、ユダ全国に断食をふれさせた。」(歴代下 20:3 口語訳) 

今日は私どもの教団(全世界的に)をあげて、上記にあるユダのヨシャパテ王のように断食祈祷が勧められることになりました。
断食の時間は午前7時から午後7時までの12時間です。
空腹に挑戦するのが断食。しかし大切なのは、単に断食することではありません。
今回の断食の目的は、新型コロナウイルス感染の終息を願う祈りをささげること。
休会の続く教会もそうですが、社会全体は私どもの祈りを必要としています。
長く続く緊急事態宣言のために休業が続き不安の中にいる方々が大勢います。
医者、看護師、国や県のリーダーのために祈りたい。
今日はこの一点に集中し、体力に無理のない方はどうぞこの祈りにご参加くださいますように。

磯部豊喜

みことばの花 200506「ゆるしとさばき」

みことばの花 200506「ゆるしとさばき」

「あなたはかつて、『主は怒ることおそく、いつくしみに富み、罪ととがをゆるす者、しかし、罰すべき者は、決してゆるさず、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼす者である』と言われました。」(民数記 14:18 )口語訳

上記は、天の神様の御品性を教えるものです。天の神は「怒ることおそく、いつくしみに富み、罪とがをゆるす者」とあります。これがその御品性の中心です。
ところが一方で「罰すべき者は、決してゆるさず、父の罪を子に報い」ともあります。
これは人の罪を神がどのように扱われるのかを教えています。
神は人の罪をゆるされる哀れみ深いお方。ですがいつまでも罪や悪を野放しにはしないお方でもあるという。
「悪人世にはばかる」という言葉がありますが、悪人がすぐに滅ぼされないのは神の忍耐のあらわれでしょう。
しかし神の愛と忍耐を踏みにじり、罪を犯し続ける人には、厳粛なさばきの日がある。
忍耐深い神を心に留め、日々罪を悔い改めて過ごしたい。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200505「裁くこと」

みことばの花 200505「裁くこと」

「だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。
さばくあなたも、同じことを行っているからである。」(ローマ 2:1 口語訳)

「裁く」という言葉は、否定的に取られる言葉でしょうか。
この世界に正しい裁きがなされなくては、希望がありません。
ところが自分を裁判官に置いてしまうことには注意しなくてはなりません。
人を罪に定める権威は私にはありません。正しい裁きは難しいからです。
上記のみ言葉は、他人を裁くことの危険を教えてくれます。
まず裁くことよりも可能な限りゆるすことを優先したい。

磯部豊喜

みことばの花 200504「分かれる時」

みことばの花 200504「分かれる時」

「そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。(マタイ25:46 口語訳)

先日の新聞に二つの写真が載っていました。
それは大勢の賑わいを見せている海と人のまったくいない同じ海の写真。
この写真を見て、トワエモアが歌った「誰もいない海」の歌詞を思い出しました。
その歌詞の冒頭の言葉は、1番から3番すべてに「今はもう秋 誰もいない海…」とあるあの曲です。
「今はもう秋」ではなく「今はもう春」。春のゴールデンウィークに誰もいない海…。
このような事態は、果たして誰が想像したでしょう。
ところで聖書の中に「誰もいない海」ならぬ「誰もいない地球」の時期があるという。
それは千年期(英語では「ミレニアム」)と呼ばれる期間です。
キリストの再臨が来て、救われる人は天の都に上り、一方で滅びる人もある。
聖書の記す人生の分かれ目は何か?キリストを友とし、愛に生きるか否か(マタイ25章31~46参照口語訳)。
果たして私はどちらに立つのでしょう。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200503「日誌」

みことばの花 200503「日誌」

「その事が調べられて、それに相違ないことがあらわれたので、彼らふたりは木にかけられた。この事は王の前で日誌の書にかきしるされた。」
(エステル 2:23 口語訳) 

今年のゴールデンウィーク、緊急事態宣言中ゆえ、じっとしていられない子連れの家族はどう過ごすかに骨を折っておられるようです。
狭い家にずっと留まるのは子供も大人も辛い。
その中で宇宙飛行士の若田光一さんは、在宅の心得として「日記」を勧めておられます。
米航空宇宙局(NASA)の精神心理の研究で、宇宙のような閉鎖空間では、日報をつけることが心の健康を維持するのに効果があるとのこと。
私も5か年日記を持ってはいますが、空白の多い事…。
ところで上記の聖句はペルシャの国の日誌。
王の転覆を図っていた王の側近の計画を、モルデカイというユダヤ人が王に知らせた結果が記録された。
これが後に、モルデカイを救うことになります。
日々の記録を残すことはやはり大切なことだと思います。
私も日記再開をしようと思う。
主の恵みが今日もありまうすように。

磯部豊喜

みことばの花 200502「いのちの道」

みことばの花 200502「いのちの道」

「あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。」
(詩篇 16:11 口語訳

命…それは素晴らしく尊いもの、ですが同時に、いかにはかなく空しいものか、と私は複雑な思いで受け止めたりもします。
聖書に、「見よ、あなたがたは喜び楽しみ、牛をほふり、羊を殺し、肉を食い、酒を飲んで言う、『われわれは食い、かつ飲もう、明日は死ぬのだから』」
(イザヤ22:13 口語訳)と語るのは、戦場の兵士の言葉。
明日の命が保証されていないと、このような思いになるのは分からないではない。
今は新型コロナ戦争とも言われます。
しかしどんな状況にあっても落ち着いた心だけは失わず、一日一日を大切に生き、主の示される「いのちの道」を歩みたいと思います。
ハッピーサバス!

磯部豊喜
・・・・・・・
本日5月2日(土) ライブ配信URL。
※時間外でもSDA千葉教会ホームページで開くことが出来ます。
安息日学校(聖書の学び) 10:00 聖書をいかに解釈するか ⑤聖書のみ―「ソーラ・スクリプトゥーラ」 磯部豊喜
https://youtu.be/R1XwkZE24O0
礼拝説教 11:00 「命…それから先は?」磯部豊喜
https://youtu.be/dvNlPngkkjY

みことばの花 200501「予定は未定」

みことばの花 200501「予定は未定」

「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。」(箴言 19:21 口語訳)

私は毎月、月間予定表を書いて教会員の皆様に配布するようにしています。
入間川教会の牧師時代から続けているので、30年は経つと思います。
ところがこの予定表は、今年の3月頃より不透明なことが多いのです。
予定をしていても、キャンセルに継ぐキャンセル。もはや計画を立てて書いても何の意味もない…そのような気がしています。
まさに「予定は未定」。ですがよくよく考えてみますと、大小の差こそあれ、私どもの計画は、計画通りには行かないのです。
そのようなとき、上記の御言葉は励みになります。
私の立てた計画以上の計画が、天にあるということ。「しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ!」と書かれています。
心の力を抜いて「主のみ旨」を見つめて歩めるならば幸いだと思います。
主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜
・・・・・・・
明日5月2日(土) ライブ配信URL。 ※時間外でもSDA千葉教会ホームページで開くことが出来ます。
安息日学校(聖書の学び) 10:00 聖書をいかに解釈するか ⑤聖書のみ―「ソーラ・スクリプトゥーラ」 磯部豊喜
https://youtu.be/R1XwkZE24O0
礼拝説教 11:00 「命…それから先は?」磯部豊喜
https://youtu.be/dvNlPngkkjY

みことばの花 200430「あなたの荷を主にゆだねよ」

みことばの花 200430「あなたの荷を主にゆだねよ」

「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」(詩篇 55:22 口語訳)

私の励まされた一文です。
「共労者の皆さん、くじけることのないように勇気をもちなさい。主があなたの信仰を支えてくださいます。
キリストこそ、クリスチャンの力強い助け主です。
必要な援助が得られないために、あなたの熱心な計画を中止せざるを得ないときには、主の前で重荷を降ろしなさい。
そしてお任せするのです。約束された方は真実な方ですから、確実に祈りに答えてくださいます。
主の助けがどんなものであるか、私たちは十分に知りません。
しかしこれだけは知っています。主は、主により頼む者を決して見捨てたりなさいません。
主は働き人たちの祈りを聞き、彼らを火で精錬された金としてくださるのです」(エレン・G・ホワイト『Letter 66, June 26, 1901』 パート29)。
元気が湧いてきました。

磯部豊喜

みことばの花 200429「命の賦与者」 

みことばの花 200429「命の賦与者」 

「ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。」(伝道の書12:7 口語訳)

昨日の聖句を補う御言葉です。「ちり」とは人間の身体。
「ちり」は単なる物質に過ぎません。単なる物質にはあまり意味を感じないのですが、これに「霊」が注がれているのが人間。
「霊」は「息」と訳される言葉です。「ちり」に「霊(息)」が注がれて人は生きています。
人の存在価値を見るのはこの「霊(息)」があるからです。
そしてその源は「神」。神が「霊(息)」を注がれたので人は生きる。神こそが私たちの命の賦与者(与え主)です。
命の与え主なる神は、人が短い人生で終えることを良しとはされません。そこで復活の命を用意してくださった。
「罪を犯した魂は必ず死ぬ」(エゼキエル18:4 口語訳)とあるので、死を免れる人はいない。
ですが「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」(ヨハネ11:25 口語訳)
との主の言葉を受ける人には真の命の希望があります。
「命の賦与者」がおられることを覚えたい。
今日も主の恵みありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200428「命の選択」

みことばの花 200428「命の選択」

「みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。」(伝道の書 3:20 口語訳) 

今に始まったことではありませんが、昨今はひしひしと人の命のはかなさを思い知らされます。
新型コロナのため、ここ数か月の間に全世界で20万人を超える方々が亡くなっています。日本では372人(4月26日時点)。
大切な人を失った家族にとって悲しく、辛い。
手に触れて看取ることも出来ず、葬儀も、お別れ会も行えない。
さて、聖書は人の死について上記のように短い言葉で語っています。
ですが私は宣言したい。「人生に意味はある!」と。
「ちりに帰った」者が、再び「目覚める日」が来ることを聖書は約束します。
キリストの再臨の日にそのことは起きます。
一度の人生が与えられた今の機会に、真の命を選択することの必要を私は強く伝えたいのです。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜