みことばの花 200623「赤」 

みことばの花 200623「赤」 

「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。
紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。」(イザヤ 1:18 口語訳)

「あなたの好きな色は何色?」と聞かれましたら何と答えるでしょう。「赤」と答える人はいるでしょうか。
ところで上記の聖句は罪を赤と結びつけ、罪が消されることを白としています。
私が思うには罪は赤ではなく黒のような気がします。罪は「どす黒い」からです。
ですが赤は命に関わる血の色。血を命の象徴とする…ととれば「罪は緋のようで」「紅のように赤くても」という言葉に納得します。
ところでこの罪を象徴する赤が白くなるという。神が人の真っ赤な罪を消して真白に変えて下さるという。
聖書に「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。」(ヘブル9:22 口語訳)とあります。
キリストが十字架にかかり血を流して死んでくださった。神の御子の死が人の罪を消してくださると約束します。
これは私の命にかかわる重要な真理の光です。

磯部豊喜

みことばの花 200622「ほめられても、そしられても」

みことばの花 200622「ほめられても、そしられても」

「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。・・・」(Ⅱコリント6:8 口語訳) 

人はほめられると嬉しくなるものです。ですがほめ方も難しい。
たとえば私のような小さな説教家は、「最近はいい話をするようになりましたね」と言われると、「ではこれまでは駄目だったのか」と感じてしまう。
こういうほめ方だったらどうだろう。「最近は、以前にもましていい話をしますね」。これならばそうか…と、ほっとします。
ですがこういう些細なことで、左右されるのでなく、上記のパウロの言葉は、はるか高みにおける生き方を語っています。
「ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても」、…つまり人から何を言われても動じない。
「神の僕(しもべ)として生きる」という人生の焦点がはっきりしているので、人の評価に左右されないと語るのです。
こういう生き方が出来たら、本望だと思います。
今日も主を見上げて動ぜぬ一日を過ごしたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 200621「小事に忠実」

みことばの花 200621「小事に忠実」

「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。」(ルカ 16:10 口語訳)

今朝の新聞にこういう詩が記載されていました。

「もし 世界が あるならば/その 片隅から 磨くとしよう/もし 永遠が あるならば/いくつもの 一瞬を 輝かすとしよう」
(ななおかさき/折々のことば2020年6月21日)。

広いところをキレイにしたければ、まず片隅から。永遠を大切にしたいなら、一瞬から…という著者の研ぎ澄まされた感性に思わず頷きました。
そして同時に私の脳裏に浮かんだのが上記のキリストの御言葉です。
確かに家全体をキレイにしたければ、今目の前の小さな片付けから始めなくてなりません。
私はこれが苦手なために部屋はいつも混雑。
ですが少しづつ、丹念に、こつこつ、明日に延ばさず、を思いの指標にしたい。やがて来る大事のために。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200620「へりくだること」

みことばの花 200620「へりくだること」 

「あなたはへりくだる民を救われる、/しかしあなたの目は高ぶる者を見て/これをひくくせられる。」(サムエル下 22:28 口語訳)

文学的センスが私にあるのかどうかは分かりませんが、この6月になるとアジサイに関連する俳句が浮かんで来ます。
今年は次の句が浮かびました。「去年より 身の丈低く 白アジサイ」。
千葉教会の向かいの家の外庭に今年も白いアジサイが咲いています。
昨年、花が散った後、その家の人は、このアジサイを見事なくらいにバッサバッサと低くまで剪定していました。
「こんなに切っていいのか」と頭を傾(かし)げたものですが、それでもアジサイは立派に白く咲きました。
しかもどうみても去年よりも低い。低く咲くためには、こういう剪定もありかと思うと同時に、私自身もそうある必要を感じました。
年追うごとに、低く咲く。そういう人になれたらと願う。
低く咲くために安息日に教会に行くのです。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花200619「光のある間に」

みことばの花200619「光のある間に」

「『光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい』。イエスはこれらのことを話してから、そこを立ち去って、彼らから身をお隠しになった。」
(ヨハネ 12:36 口語訳)

今日も光についての聖句に目が留まりました。梅雨シーズンに入っている今日この頃ですが、ここ数日、明るい陽射しが続いていました。
鳥のさえずりの声が耳に心地よく聞こえます。こういう日は、気温が暑くなるのですが、外が明るいと気持ちも明るくなります。
外気の光以上に、心に光を受けることはもっと大切なことだと思います。
上記はキリストの語られたみ言葉。「光」が続けて語られています。
この「光」は抽象的に語られていますが、これは何を指しているのか。試みに「光」を「神(イエス)」に置き換えて読んでみました。
「神(イエス)のある間に、神(イエス)の子となるために、神(イエス)を信じなさい。」違和感がなく読めると思います。
いかがでしょうか。
今日は曇っていますが、心には光を受け止めたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 200618「光」

みことばの花 200618「光」

「いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。」(詩編 36:9 口語訳)

2008年にノーベル科学賞を受賞した下村脩さん。この人は来る日も来る日もオワンクラゲを採集した。その数85万匹。
抽出した液が偶然にも流し台で海水と反応し、光る仕組みを解き明かしたという。
地球に自ら光を発する動植物は多いが、発光生物の研究に人生を捧げた人でした。
「皮肉にも原爆が私に化学者としての第一歩を与えました」と、長崎県諫早市内で閃光をみた16歳の夏を顧みて言われます。
人を大量に殺戮した光から、今度は生物に見る命の光に関心を寄せた。
命の光は神からくる。神の光を信じ、命の光を見つめられたら素晴らしいと私は思います。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200617「人の創造」

みことばの花 200617「人の創造」

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」(創世記 2:7 口語訳)

今年の春の祈祷週読み物から次の一文を発見。
「創世記2章の記録によれば、男は土のちりで造られました。彼は他の被造物のように言葉によって出現したのではありません。
アダムは「創造」されたとありますが、この言葉はヘブライ語のヤッツァーから来ており、『(陶器のように)手でこめて形づくる』ことを意味しています。
言い換えるなら、私たちは神の芸術作品ということになります。」(「アドベンチスト信仰の原点③」p4)とそこにありました。
確かに神は「光あれ」とか「水の生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」とは語っていますが、「人間よ現れよ」とかは語っていない。
上記の御言葉のように丹念に造っておられる。神が肝いりで人間を創造されたとすれば嬉しくなります。
しかも「神のかたちに創造された」と。
そう、誰しもが…。自分自身を含め人を大切にしよう。

磯部豊喜

みことばの花 200616「主は心を見る

みことばの花 200616「主は心を見る」

「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る。」(サムエル上16:7 口語訳)と(コロサイ 1:16 口語訳)

芸術に秀でる人は見えないものを見る能力に優れているのかも知れません。
ある日、ある人がミケランジェロを訪問すると、彼は不格好な大きな岩を削っていました。
「何をしておられるのですか」と訪問者が尋ねました。「大理石の中に閉じ込められた天使を開放しています」とその彫刻家は答えました。
さて人の心も同様で、目には見えません。ですから人は他人の心根までは見ることができません。
ところで上記の御言葉には、主(神)にはそれがお出来になると記されています。
「主は心を見る。」(サムエル上16:7 口語訳)とあります。
すべてをご存知の主は、時には不器用な私の心のすべてを、そのまま見つめてくださいます。
主は「見えないものを見る」芸術家。
主は私どもの心の痛み悲しみすべてをご存知です。

磯部豊喜

みことばの花 200615「永遠を思う」

みことばの花 200615「永遠を思う」

「・・・神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。…」(伝道の書3:11中句 口語訳)

次の一文をみました。

「無限に生きたいという願いは一つの議論です。
もし神がそれをお喜びにならなければ無限に生きたいという気持ちを、すべての人にお与えにならなかったでしょう。
…永遠の愛と生命を望むならばその望みを満足させる永遠の生命と愛があるはずです。」(F・W・ロバートソン)

私たちは自分が死ぬことを知っています。
しかし一方で、自分がずっと生きられるかのような感覚もあります。
「永遠の生命」が聖書には、当然あるものとして記されています。
その思いは神から授けられたもの。永遠の愛と生命のある世界を素直に受け止め、かつ求めていきたい。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜