みことばの花 181225「王の王、主の主」

みことばの花181225「王の王、主の主」

「時がくれば、祝福に満ちた、ただひとりの力あるかた、もろもろの王の王、もろもろの主の主が、
キリストを出現させて下さるであろう。」(Ⅰテモテ 6:15) 

昨日の「みことばの花」に、イエス・キリストについて聖書が記す位置について補足しておきたいと思います。
キリストは確かに「平和の君」です。
ところで天の神様には「もろもろの王の王、主の主」という呼び名があります。
これはどういう意味かと言いますと、
この世の中に存在するどんなに高貴な王や君主があったとしてもこのお方の右に出る人はいないということです。
実は、神の御子キリストについても「その着物にも、そのももにも、
『王の王、主の主』という名がしるされていた」(黙示録19:16)とあります。
キリストは神と等しいお方ゆえ「王の王、主の主」なのです。
「王の王、主の主」の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 181224「平和の君」

みことばの花181224「平和の君」

「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。
まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。」(イザヤ9:6) 

昨日は今上天皇陛下85歳の誕生日でした。
戦後、昭和天皇より象徴天皇という立場になりましたが、
今上天皇は我が国日本ではとても尊敬されていますし、私も尊敬してやまぬ一人です。
それは、今上天皇陛下が「平和を愛する、平和の君」だからです。
在位中最後となる今回の誕生日の会見で、「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、
心から安堵しています」の一言をお語りになられました。
そういえば近現代4代の天皇のうち、ただ一人軍服を着ることはありませんでした。
ところで奇遇なことですが、この今上天皇在位30年間は、翌日の12月24日に、
私の信じてやまぬ神の御子イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスが続きます。
神の御子イエス・キリストについて聖書は「平和の君」と呼んでいます。
我が国において「平和の君」の記念日が二日連続続いて来たのが今年で最後になるのは少し寂しい気がします。
今日も「平和」でありますように。

磯部豊喜

みことばの花 181223「書くこと」 

みことばの花181223「書くこと」 
                           
「彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。
その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、
ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。」(Ⅱペテロ3:16より) 

今朝、作家の井上ひさし氏の語った言葉が私の目に飛び込んできました。
「作文の秘訣を一言でいえば、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということだけなんですね」と。
私もこの「みことば花」を毎日書く習慣がついてから、
いつも書き終わって「これは読みにくくないかな?読んでくださる人の心に理解してもらえるだろか?」などと、
考えないことはありません。
文筆家ではありませんので、正しい漢字すらもサッと浮かんでは来ない。
そこで辞書を片手に「みことばの花」に挑戦しているのですが、それでも誤字、拙文だらけです。
「むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く、深いことを面白く」とも井上氏は語っています。
ところで上記のみことばは、パウロの書いた手紙についてのペテロのコメントです。
「ところどころ、わかりにくい箇所もあって」、この一文をパウロが読んだら何と感じるでしょうか。
それにしても書くことの難しさ。されど書かなくては、何も伝えることが出来ない。
恥をかくことを覚悟に書くのも良いか、と自分自身を励ましています。今日も主の恵みがありますように!

磯部豊喜

みことばの花 181222「きよしこの夜」

みことばの花181222「きよしこの夜」

「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。
わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」(マタイ 2:1)

クリスマス讃美歌の「きよしこの夜」は有名です。
1818年、いよいよクリスマスというある日の午後、オーストリアにある村の教会で、一つの問題が発生しました。
オルガン奏者のグルーバー氏が練習のためにオルガンを弾いたところ音が出ない。空気袋に穴が開いてしまっていたからです。
そこへモーア牧師が来て、「グルーバー先生、ここに私が作った詩があります。
オルガンがだめなら、ギターで歌えるように、曲をつくってください」。
この詩は、モーア牧師が、山小屋で生まれた赤ちゃんとその家族を見舞った後に、雪明りと、静寂さの中で感動して書いたものでした。
詩を眺めていたグルーバー氏の心に熱いものがこみ上げて、作曲しました。
礼拝に集まった村の人々は、慣れ親しんだオルガンではなく、ギターで作られた「きよしこの夜」を奏でたそうです。
もしオルガンが壊れていなかったら、あの名曲は生まれなかったかも知れません。
人生のピンチは神のチャンスだとこの実話は教えているように思えます。
今日は安息日Xmas礼拝日です。キリストの降誕を瞑想したいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 181221「熱心が萎えるとき」

みことばの花181221「熱心が萎えるとき」

「彼は言った、『わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。
イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。
ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています』。」(列王上19:10、14)

これは旧約聖書に登場する偉大な預言者エリヤの言葉です。
エリヤは、イスラエル王国の悪王アハブに立ち向かった勇気のある預言者でした。
彼は神様のために、国家を支配していた偶像教徒に勝利し、天の神をイスラエル民族に伝えることに成功するとういう偉大な業績を残しました。
ところがこの大勝利の後に、勇者エリヤであっても弱気の虫が頭をもたげました。
偶像教の熱烈な信奉者であったアハブ王の妻イゼベルの怒りをかい、彼は命を狙われることになった結果、上記の言葉が登場。
しかも聖書はご丁寧に、この言葉を二度も繰り返し書いています。これを見ると、偉大な預言者エリヤもただの人。
人間とは、かくも弱いものだと教えられます。人はしばしば大きな業績を残した人を神格化し、その人の生涯を美化します。
ですが聖書は違います。あるがままの人物を描いています。
「熱心」とか「情熱」は私の好きな言葉ですが、これを続けるのは至難の業。「熱心が萎えるとき」もある。
この弱さを知りつつ、なお「情熱」を心に刻みたいと願うのです。

磯部豊喜

みことばの花 181220「依存」

みことばの花181220「依存」

「主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む。
わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる。」(詩篇 28:7)

扇風機おばさんという聞き慣れない言葉を知りました。この女性(韓国人)が50代で亡くなられたと言います。
この方は、お若いときは女優さんのように、とても美しい方です。
ところが何が原因か分かりませんが、整形依存性になり、たびたび普通ではない顔立ちの整形手術を受け続けていったようです。
体の線は細いのに、顔だけが座布団のように大きいアンバランスな姿になり、「扇風機おばさん」という異名がつけられました。
美人薄命ということばがありますが、この方の場合はどうなるのか。
ところでこの世界には、いろいろな依存症があるのに驚きます。買い物依存症、ギャンブル既存症、薬物依存症…。
果たしてわたしは?考えてみると人は誰かに、何かに依存しなくては生きて行けない弱い存在のような気もします。
同じ依存するならば確かなものに依存したいものです。私は44年前に確かな方(キリスト)に依存することにしました。
上記の聖書記者のように、「主をほめたたえる」のは嬉しいことです。

磯部豊喜

みことばの花 181219「小さい者の一人に」

みことばの花181219「小さい者の一人に」

「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、
すなわち、わたしにしたのである。」(マタイ 25:40)

今年もクリスマス週間です。千葉教会の12月22日午後に行われるクリスマス会での演劇は楽しみです。
演劇というと、実はその昔、私もこれまでの生涯で一度だけ演劇の主役をしたことがあります。
へたくそであったのは間違いないのですが、アルタバン物語(伝説)のアルタバンでした。
キリスト降誕にまつわる聖書の話に、東の国(ペルシャ)からメシアに会うためにユダヤに行った三人の博士たちがいます。
アルタバンは、その三人の博士たちと同行する約束をしていたもう一人の博士。
彼は不幸な人を助けたために出遅れ、三人の博士たちから逸(はぐ)れます。
その後も彼は三つの宝物を捧げようとメシアを探し続けます。
ようやく33年後にメシアが十字架で死なれることを知った。
メシアに捧げるための宝物は、人を助けるために手離し続け、あと一つに減っていました。
ところがその時も助けを必要とする人に出会い、この最後の宝も手放すのです。
結局メシアに会えずに彼は命果てるのですが、
その死の直前に「あなたはすでに私と会っている」との天からのと声と上記のみことばを聞き、彼は眠りにつくのです。

磯部豊喜

みことばの花 181218「子供の心のまま」

みことばの花181218「子供の心のまま」
                         
「わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。
しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。」(Ⅰコリント 13:11)

大人になっても精神的にずっと子供のままでいたならばそれはどういうことになるでしょう。
これは成長の無い人の姿。子供時代には子供の知性、青年時代には青年の知性が必要です。
ですから年かさが増していっても精神的な成長が見られないならば、それは未熟だと言わざるを得ないでしょう。
ですが精神的な成長とは別の部分では、子供のままでいることがあってもいいと思います。
それは「子供の心のまま」という部分です。有名な物理学者アルベルト・アインシュタイン氏は、
「私の成功の秘訣が一つだけあるとすれば、ずっと子供の心のままでいたということです」と語っています。
ここでいう「子供の心のまま」ということは、おそらく子供の無邪気さ、自分の気持ちに正直で、
いろいろなことを恐れずに飛び込む姿を指しているのでしょう。
何かの物事に取り組む真っすぐな姿勢、これが「子供の心のまま」ということでしょう。
何でも興味を持つということ、これだけは失いたくないものです。
しばしば大人は苦い経験が積み重なって、前に進めなくなることがあります。
無茶な前進はいけませんが、賢く、もう一歩前へ進みたいものです。
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磯部豊喜