みことばの花 200201「食事を共に」

みことばの花 200201「食事を共に」  *聖句内の「わたし」は「キリスト」のこと。

「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、
わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(黙示録 3:20 口語訳)

「家族ってなんだろう」と考える時がります。
どこで聞いたのか記憶がありませんが、こんな言葉の記憶があります。
「家族とは同じ釜の飯を食べる人々」。同じ食卓を囲み、仲良く談話しながらその交わりを楽しむことこそ家族だと。
そういえば私どもの教会では、毎週土曜日の昼食時に、そのような光景をみます。
「これがキリストに結ばれる家族なのか」と私の心はうれしくなります。
このような家族のスタイルは、イエス・キリストの御言葉にも記されています。
「食を共にする」こういう交わりは素敵ですね。
もちろん「楽しく」がその頭につかなくてはなりませんが。
「楽しく食事を共にする」。
今日はその第七日安息日、教会でちょっぴり大きな家族の輪を楽しみたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 200131「つながる」

みことばの花 200131「つながる」

「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。
枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、
あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。」(ヨハネ 15:4 口語訳)

今回東京の自宅で数日間を過ごしました。
ところが電気使用容量がオーバーしたのでしょう。ブレーカーが落ちてしまい一時停電をしました。
その時の影響を受けたのか、持参したPCがネットもメールもストップしてしまいました。
いろいろな試みをしましたが、どうしても回復しないのです。このとき「つながる」ことの必要を実感しました。
千葉へ戻り、別のPCを使用して今はこの「みことばの花」も配信することができました。
この体験を通して、「つながる」ことの大切さを身に沁みました。
そしてPC以上に大切なつながりがある。
それは上記の「わたし(イエス・キリスト)」につながること。
キリストにつながって愛の電気を送ってもらわなくてはと思ったのです。
人生の豊かな実を結ぶために。

磯部豊喜

みことばの花 200130「必要に応える神」

みことばの花 200130「必要に応える神」

「主よ、わたしが呼んでいるのに、いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。
わたしはあなたに『暴虐がある』と訴えたが、あなたは助けて下さらないのか。」(ハバクク 1:2 口語訳)

祈りは聞かれると答えたいのですが、祈りには自分の思うようには聞かれないことがあります。
上記の預言者ハバククのように、正しい訴えを神様に捧げているのに願通りに答えが返って来るとは限りません。
そうなると祈りは、感謝でなく嘆きに変わってしまいます。
昨日でしたか。「神は願ごとはすぐに答えないかもしれないが必要には答えてくださる」という言葉を聞きました。
私の願い事が正しい訴えの内容でも、神にはお考えがあるようです。
そしていつの日か、最も良い時に必要に応えてくださる、これが私どもの神様だというのです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200129「金のように」

みことばの花 200129「金のように」

「しかし彼はわたしの歩む道を知っておられる。彼がわたしを試みられるとき、/わたしは金のように出て来るであろう。」
(ヨブ 23:10 口語訳)

先日、ヨブは孤立していたことを書きました。
上記はそのヨブの言葉の一部です。
彼は周りの人々から責められている中で、彼が心底から求めていたのは、「彼(神)」です。
この章の2~4節には「きょうもまた、わたしのつぶやきは激しく、彼の手はわたしの嘆きにかかわらず、重い。
どうか、彼を訪ねてどこで会えるかを知り、そのみ座に至ることができるように。
わたしは彼の前にわたしの訴えをならべ、口をきわめて論議をするであろう。」とヨブの思いが述べられています。
人生の試みに遭う時、人は悲観的になります。
ですがヨブは、訴えるべき方を知っていて、この試みも自分を金のようにすると希望を告白します。

磯部豊喜

みことばの花 200128「ねたみ」

みことばの花 200128「ねたみ」

「あなたは他の神を拝んではならない。主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。」(出エジプト 34:14 口語訳)

この聖句に触れる人は「え~」と驚くことでしょう。
天の神の名が「ねたみ」というのですから。
そこで、別の聖書では「ねたみ」と訳されるこの箇所を「熱情」(新共同訳)としています。
ですが私個人は「ねたみ」と訳す口語訳聖書は、考える必要を与えてくれるのでこれも良いと思う。
「ねたみ」という言葉は神の御品性を考えると理解し難い言葉。
ですが次の御言葉と合わせると納得します。
「それとも、『神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる』と聖書に書いてあるのは、
むなしい言葉だと思うのか。」(ヤコブ4:5 口語訳)。
神の「ねたみ」は人間のねたみと異なり、「その愛の激しさ」を表現します。
今日も主の深い愛が注がれますように。

磯部豊喜

みことばの花 200127「天が落ちかかろうとも」

みことばの花 200127「天が落ちかかろうとも」

「このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。」(詩篇 46:2 口語訳)

私の住む千葉教会は、4階建ての鉄骨造りだと思いますが、なぜだか大きな車が近くを走るたびにグラグラと揺れます。
地盤が緩(ゆる)いのでしょうか?ですが、これは私の心にも言える。何かが起きるとグラグラと揺れる。
ゆえに「不動の心を持ちたい!」、と願うのです。
さて次の言葉を見ました。

「世界で最も欠乏しているものは人物である。それは、売買されない人、魂の奥底から真実で、正直な人、
罪と罪とよぶのに恐れない人、磁石の針が南北を指示して変わらないように、良心が義務に忠実な人、
天が落ちかかろうとも正しいことのために立つ人。―そういう人である」(エレン・G・ホワイト『教育』p54)。

揺れやすい心の私があこがれるいい言葉だと思います。
今日も主の支えがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200126「くちびるを制する」

みことばの花 200126「くちびるを制する」

「言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある。」(箴言10:19 口語訳) 

御(ぎょ)し難(がた)きもの、その一つは感情、御し難きもの、その一つはくちびる…。
心で思ったことを後先考えずに何でもしゃべる人がいます。
これは他人ごとではないのです。
私自身、そうであるのではと反省しきりです。特に身近な人に対して…。
傷つけたくはない、でも振り返ってみると傷つける、あるいは傷つけそうな危うい言葉を語っている自分がいます。
こういうとき「沈黙は金」。
感情で語りたくなるとき、これから語ることが相手の益になるかどうかを吟味したい。
上記の御言葉は、わたしの心にグサグサと刺さります。
刺さって良いのだと思います。真の知恵ある生き方、すなわち「自分のくちびるを制する者」となるために。
今日も主の恵みがありますように。
ともすると災いをもたらす我がくちびるが主によって守られますように。

磯部豊喜

みことばの花 200125「災間」

みことばの花 200125「災間」

「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」(詩篇 23:4 口語訳)

こんな一文が数日前の新聞に。「東日本大震災の後、『災後』という言葉が使われるようになった。
…あまり知られていないが、『災間』という言葉も生まれた。
…私たちはいま巨大災害の後を生きているのではなく、災間を生きている。
『いつとは知れず、しかし確実に近い将来起こるはずの大きな災害までの、
ほんのつかの間の猶予期間を生かされている』のだと…」(朝日「天声人語」2020.1.19)。
災間というのは初めて聞く言葉ですが、いつ私どもは災いに会うか分かりません。
上記は、そういう弱い人間が記憶しておきたい聖句。
今日は第七日安息日、上記の御言葉のある「あなた」を想いたい。
ハッピーサバス!

磯部豊喜