みことばの花 200413「新亭主関白」

みことばの花 200413「新亭主関白」

「夫たる者よ。あなたがたも同じように、女は自分よりも弱い器であることを認めて、知識に従って妻と共に住み、…」(Ⅰペテロ3:7 口語訳)

今年のサインズ誌5月号に興味深い一文がありました。
「よく誤解されるのは、亭主関白ということの本当の意味が理解されていいない…『亭主』とは、お茶をふるまう人、もてなす人という意味があります。
そして『関白』。これは歴史を紐解けばすぐにわかります。
天皇の次の位の天皇を補佐する役目です。では、家庭内で一番の権力者は誰かと言うと、間違いなく奥様ですね。
ですから、真の意味で亭主関白とは、『いかに妻を愛するか』『いかに妻を手助けできるか』ではないかと思うんです。
私たちはそれを『新亭主関白』と呼んでいます」(天野周一)。
上記の聖句と共に、心に刻みたい内容でした。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花200412「最高の物語」

みことばの花200412「最高の物語」

「御言に仕えた人々が伝えたとおり物語に書き連ねようと、多くの人が手を着けましたが、」(ルカ 1:2 口語訳)

「高原列車は行く」「紺碧の空」「六甲おろし」「暁に祈る」「黒百合の歌」「若鷲の歌」「ラバウル海軍航空隊」「長崎の鐘」「栄光は君に輝く」
「オリンピック・マーチ」…。
その生涯にジャンルを問わず約500曲を作曲されたとされる昭和の名作曲家古関裕而(こせきゆうじ=本名は古関勇治)の代表的な曲です。
これらの作曲の背景には、劇的な歴史があります。
時代に放浪されながら、生き抜かれた作曲家の姿を今年の「NHK朝ドラ『エール』」に描かれているようです。
私どもの人生にも、ときおり劇的なことが起こります。
ところでイエス・キリストの物語は、史上最高の真実の生涯であると私は信じています。
それは聖書の中にあります。
主の恵みが今日もありますように。
新型コロナの感染の流れが止まりますように。

磯部豊喜

みことばの花200411 「会う喜び」

みことばの花200411 「会う喜び」

「しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。」
(申命記 4:29 口語訳)

ニュースで研修医のお父さんとハイハイする0歳児の息子とがガラス越しに会い、手を合わせている様子が放送されていました。
息子は、あの人が自分のお父さんと気づいているのでしょう。とても微笑ましい光景。
ですがガラス越しでないと会えない。この切なさも伝わってきます。
新型コロナは、このように愛する者同士を引き裂いています。愛は引き裂かれることを無念に思います。
ですが愛は希望も深く心に刻みます。それが生きる原動力にもなります。
この親子の様子を見ていて、魂の父である神が、その子らである私たちを思う思いを瞑想しました。
神は私と会うことを楽しみにしています。神の心の響きが上記の聖句に描かれています。
今日は主に会う安息日。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 200410「眠る」

みことばの花 200410「眠る」

「見よ、イスラエルを守る者は/まどろむこともなく、眠ることもない。」。(詩篇 121:4 口語訳)

「眠る」ことは心地よく気持ちの良いもの。
ところが仮眠のつもりが熟睡してしまうとどうでしょうか。予定が狂ってしまうことがあります。
ところで決して眠ることのないお方のことが上記の御言葉に書かれています。
聖書に登場する「イスラエル(=神の民)」とは私たちの象徴として読みたい。
私を「守る者は、まどろみこともなく、眠ることもない」。
またやがてきたる神の国では決して疲れない。
私どももまた「まどろむことも、眠ることもない」エネルギーに満ちた世界であることを覚えたい。
今日も主の恵みと守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200409「二種の赤」

みことばの花 200409「二種の赤」 

「すると今度は、赤い馬が出てきた。そして、それに乗っている者は、人々が互に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ることを許され、
また、大きなつるぎを与えられた。」(黙示録 6:4 口語訳)

昨日の夕方の月をご覧になられたでしょうか。それは「赤い月」でした。
聖書には「赤い」という文字で何かを象徴する箇所がいくつかあります。
グループ①「赤い雌牛」(民19:2 口語訳)、「赤い糸のひも」(ヨシュア2:18 口語訳)、「赤い外套」(マタイ27:28 口語訳)
グループ②「赤い龍」(黙12:3 口語訳)、「赤い獣」(黙17:3 口語訳)、そして上記の「赤い馬」(黙6:4 口語訳)。
赤は主に二つの意味が象徴されています。
一つはキリストの血を象徴し、救済に関するもの(上記のグループ①)。
今一つは、サタン(神の敵)的なものを象徴しています(上記のグループ②)。
人の救済として「赤」があり、人の滅亡としての「赤」がある。
人生は二者択一、中間はない。
果たして私はどちらの「赤」を選ぶのでしょうか。

磯部豊喜

みことばの花 200408「初めて」

みことばの花 200408「初めて」

「…ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。
このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。」(使徒 11:26 口語訳)

ここ近年、「初めて」の体験が次々と起こっています。
その数があまりにも多い。昨年は台風災害というものを体験し、私の牧師経験の中で初めて教会での礼拝を休止しました。
あれから半年にもならないのに、今度は感染力の強い新型コロナなるものがやってきて、礼拝が初めて連続の休会となっています。
今朝の新聞の見出しは、大きく「緊急事態宣言」とあり、これも初めて。
さて聖書にも「初めて」の出来事がいくつかありますが、上記はまったく正反対の内容での「初めて」。
教会での集まりに大勢の人々を数え、彼らは初めてクリスチャンと命名されたとある。
今は各家庭に向けて礼拝のライブ配信を行っています。
これまで当たり前のことが、当たり前でなくなっています。
もっと当たり前のことを感謝しなくてはと思います。

磯部豊喜

みことばの花 200407「へりくだる者」

みことばの花 200407「へりくだる者」

「へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。」(詩篇25:9 口語訳)

この聖句は、昨日の聖句の続きです。「主は道を罪びとに教え」の後に続くみ言葉です。
聖書によれば「義人はひとりもいない」(ローマ3:10 口語訳)のですから、
主は「道を罪びと」すなわち「すべての人」に道を教えておられるということになります。
ところがすべての人が「道を選ぶのでは」ありません。
道を選ぶ人もあれば、道を拒否する人もある。
なぜか?選択は各自の分野だからです。
「へりくだる者」になることを選んで、素直に「道を歩むか」あるいは「へりくだることをしない者」として道を拒否するか。
これが最終的に人の運命を決定します。
本日、人の命を守るために非常事態宣言が7つの都府県に発出されます。
「道が示され」ます。しかし強制力はないという。あとは私どもの選びに任せられている。
「へりくだって」命の道を選択をしたいと思います。
主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200406「主は恵みふかく」

みことばの花 200406「主は恵みふかく」

「主は恵みふかく、かつ正しくいらせられる。それゆえ、主は道を罪びとに教え、」(詩篇 25:8 口語訳 )

「主は恵みふかく」という言葉は、わたしの好きな言葉の一つです。
恵みとは、何も持っていない人に一方的に与えられるものです。
その人の働きがあって与えられるものは恵みでなく、報酬です。
主、すなわち私どもの神は、「恵みふかい」。
命も能力も知恵も知識も、自分の努力で勝ち得たと考えている人が多いかも知れませんが、
これらも元をたどればすべてが主から与えられたものに過ぎません。
さらに「恵みふかい」主は、「主の道を罪びとに教え」とあります。
人が正しく歩み豊かに人生を過ごす道を教えてくださるという。
しかも我ら「罪びと」にその道を教えてくださるという。
正しく完全無欠な「義人」に道を示すのではない。
これこそが恵みの中の恵みだと聖書は教えてくれます。
今日もその主の恵みが注がれますように。

磯部豊喜

みことばの花 200405「努力」

みことばの花 200405「努力」

「…あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた。」(Ⅱテサロニケ 3::8 口語訳)

急逝されたタレントの志村けんさんの生き方を知りました。
多くの人に笑いを提供された背後にある努力を知りました。
表舞台の影に、時間をかけてネタをつくる作業。
「志村さんの笑いはとてつもない知識量から生み出されたものなのです」と語られる西条昇(江戸川大教授)さんの言葉は心に染みます。
この並々ならぬ努力という裏舞台の時間があって、華やかな表舞台というわずかな時間がある。
これはあらゆることに言えることだと思います。
「日夜、労苦し努力して」とある、上記のパウロの言葉も同様です。
努力を惜しまない人になりたいと思います。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200404「成長」

みことばの花 200404「成長」

「まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が宿るほどになる」(マルコ 4:32 口語訳)

新聞の書籍広告に「55歳のハゲた私が76歳でフサフサになった理由」(藤田紘一郎)というのがありました。
一見、一笑してしまいがちなタイトルですが、このタイトル通りであれば、このことで悩む人には福音(よき訪れ)に違いないと思います。
希望というのは、マイナス的なことがプラスに変えられること。
私も説教家の端くれのひとり。牧師としてスタートした頃、聴衆一人の方から「牧師さんの話はさっぱりわかりません」と言われたことがありました。
また昔、元日本テレビのデレクター経験者のOさんからは、「牧師さんを一流の説教家にしてあげましょう」と言われたことがあります。
裏を返せば、「説教下手」ということ。
成長したい、そして、いつの日か「○○才の説教下手の私が○○才で名説教家になった理由」という本を書きたい?
ほど遠い夢ですが…。
ハッピーサバス!

磯部豊喜