みことばの花 200602「久しく食べた」

みことばの花 200602「久しく食べた」

「彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。」(列王上 17:15 口語訳)

他県から他県への移動自粛を含む緊急事態宣言が解除されたことで、私ども夫婦は久しぶりに千葉県を脱出し娘のところへ行きました。
そして約3か月ぶりにその娘と一緒に食卓を囲むことが出来ました。
非日常に遭遇するとこれまでの日常の有難さを実感します。
しかし新型コロナがまだ終息しているわけではありませんので、これから先は、非日常が日常と交互に入れ替わる可能性があります。
いえむしろそういうことが日常になるのかも知れません。
上記の聖句は、飢饉のために食生活をさえ切り詰めなくてはならない家族が久しぶりにまともな食事をとったことが記されています。
これも久しぶりに日常を取り戻す家族の姿です。
これからの時代、何が起こるか分かりません。
将来をしっかりと見据えながらも、あまり悲観的にならず、瞬間、瞬間の喜びをかみしめ、感謝すべきことを見つめて歩みたいと思います。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200601「不思議にたえないこと」

みことばの花 200601「不思議にたえないこと」 

「わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。
すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである。」(箴言 30:18、19 口語訳)

先日、「みことばの花」の読者の一人の方が、「不思議なみわざ」(200527)を読み、
その返信としてご自分が奥様と出会った時の思い出(慣れ初め)の物語をお寄せくださいました。
以前は全く知る機会もなかった赤の他人同士が、出会ってそして夫婦になる。み言葉は、これを「不思議にたえないこと」の一つだと述べています。
「不思議にたえないこと」となると、それを偶然の出会いと考えるか、神の導きと受け止めるかは、その人の解釈。
私は後者を信じます。後者を信じると、きっと人生の終りまでロマンスは続くと思います。いえ、きっと天国に至るまで…。
ところで「この人とはこの地上だけでもうたくさん」、と考えている人はいませんか。
そのような方にはノーコメントです。
今日も、可能な限り人生パートナー(結婚相手に限らず、傍にいる方)を、大切にしてお過ごしください!

磯部豊喜

みことばの花 200531「出会いは必然?」

みことばの花 200531「出会いは必然?」

「彼はまず自分の兄弟シモンに出会って言った、『わたしたちはメシヤにいま出会った。』」(ヨハネ 1:41 口語訳)
(*メシヤ:訳せばキリスト)

先日、人との出会いは偶然か必然か、という一文を書きました。そのことを頭に巡らしていた時、次の言葉に出会いました。
「出会いは必然です。神様が与えてくれる出会いはきっかけで、その出会いを運命に変えるかどうかは、自分次第なのです」(サインズ2020年6月号p30)。
さて、上記の聖句は、自分の兄弟シモン(ペテロのこと)に語りかけたアンデレという人の言葉です。
イエス・キリストに直接に出会った人は大勢いました。ですがその多くはイエス様をメシアだとは認めませんでした。
このアンデレとシモンは、違っていました。イエス様に出会った時、偶然に出会ったというのではなく、人生の中心にこのお方を受け止めました。
その結果、彼らの運命はまったく変わったのです。これは偶然が必然にかわる出会いだったのだと思います。
出会いを大切にしたいものです。

磯部豊喜

ことばの花 200530「…ように」

ことばの花 200530「…ように」

「『父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」(マタイ 19:19 口語訳)

聖書は、正反対のことを教えているかのようにみえる箇所があります。
「自分を愛する者を憎まれる」(サムエル上19:6 口語訳)、「その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者…」(Ⅱテモテ3:2 口語訳)と、これらは「自分を愛する」という言葉には否定的です。
ところが上記の場合は違う。調べてわかったこと。それは上記の聖句には「ように」が付いている。
「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛する」。「隣り人を愛する」という目標が置かれる時、「自分を愛する」は輝く。
「ように」が大切だということが分かりました。
「自分を愛するように」、この「ように」を覚えて生きたいものです。
ハッピーサバス!  *サバス=第七日安息日のこと

磯部豊喜

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本日5月30日(土)のライブ配信URLです。またライブ配信は、「聴覚しょうがい」の方でも視聴できるように、パワーポイントを用意しています。※時間外でも視聴は可能です。また過去のものはSDA千葉教会HPにおいて視聴が可能です。よかったら覗いてみてください。
安息日学校(聖書の学び) 10:00 聖書をいかに解釈するか ⑨「天地創造―基礎としての創世記(その2)」
https://youtu.be/edUIYsY92GY
礼拝説教 11:00 「孤独にはしない」 磯部豊喜
https://youtu.be/NSb4ara4WY4

みことばの花 200529「ヨシュア」

みことばの花 200529「ヨシュア」

「主はヨシュアに言われた、「きょうからわたしはすべてのイスラエルの前にあなたを尊い者とするであろう。
こうしてわたしがモーセと共にいたように、あなたとともにおることを彼らに知らせるであろう。」(ヨシュア 3:7 口語訳)

聖書に登場する人物の中に「ヨシュア」という人がいます。
モーセやダビデは、聖書を持っていない人にも知られていますが、「ヨシュア」を知る人は、意外に少ない。
しかし聖書を読んでみますと、ヨシュアはイスラエル民族をカナンの地に定着させるという、とても大切な役割を果たしています。
モーセはイスラエル人をエジプト奴隷から解放した人物でした。しかし彼はイスラエル民族を現在のイスラエルの地に定着させることは出来ませんでした。
モーセの後を引き継いだのがヨシュアで、はじめはモーセの従者に過ぎない若者。
しかしその彼を神は「イスラエルの前にあなたを尊い者とする」と言われました。
主が共におられるならば、無名の者でも人々の役に立つようになれるのです。
大切なことは、人の役に立ちたいと思い続けることなのかも知れません。

磯部豊喜

みことばの花 200528「いずれまた」

みことばの花 200528「いずれまた」

「死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、『この事については、いずれまた聞くことにする』と言った。」。
(使徒 17:32 口語訳)

「善は急げ」といいます。
ですが今その善に巡り合っていても、人はそれを善なる事とは思わず、善にあずかることを先へ延ばすことがあります。
上記の聖句はその一つかも知れません。
パウロがギリシャのアテネに滞在している時、天地創造の神がおられること、また死後に復活があるという話をしました。
最初のうちは面白がって聴いていたのですが、最後は「いずれまた聞くことにする」と言ってパウロの善なる話をさえぎってしまいました。
パウロは「永遠のいのち」の希望を語っていました。
しかし神の善き光をおとぎ話のように受け止める人は、この時代のアテネの人々ばかりではない。
善いことを知ること、善い事に取り組む機会は二度と来ないかも知れない。
今を大切に生きたいと思う。

磯部豊喜

みことばの花 200527「不思議なみわざ」

みことばの花 200527「不思議なみわざ」

「彼は大いなる事をされるかたで、測り知れない、/その不思議なみわざは数えがたい。」。(ヨブ 5:9 口語訳)

最近私は人との出会いに「偶然」はないと考えるようになってきています。
「奇遇」という言葉があります。
「思いがけないめぐりあい」という意味ですが、昨日の続きになりますが、
Kさんのご主人様は昔21歳の時に木更津教会でバプテスマを受け、後に名古屋出身のKさんとご結婚。
実は私も21歳の時に木更津教会でバプテスマを受け、後に名古屋出身の家内と結婚しました。確率にすると非常に低いと思います。
そして千葉教会に導かれてKさんご夫妻とお会い出来ました。このような巡り合わせが、意外と私の身に起こります。
「偶然」といえばそうなりますが、人との出会い、巡り合わせに上記の聖句のごとく神様の不思議なみわざを感じます。
主が今日も不思議をお恵みくださいますように。

磯部豊喜

みことばの花200526「清くなるため」

みことばの花200526「清くなるため」

「神がわたしたちを召されたのは、汚れたことをするためではなく、清くなるためである。」(Ⅰテサロニケ 4:7 口語訳)

キリスト者になるということは、素晴らしいことだと私は信じています。
キリスト者で誇れることは、何か。それはイエス・キリストという清らかな方を知っていることです。
先週、千葉教会員のKさんのご主人様がお亡くなりになり、昨日告別式の司式をさせて頂きました。
Kさんのご主人様もクリスチャン。ずっと体調を崩しておられた奥様の介護に付きっきりの晩年を過ごしておられました。
私が家にお訪ねしますと、いつも変わらぬ態度で、やさしく歓迎してくださいました。
そういう優しく愛妻家のご主人様でしたから、この方のお宅にお訪ねすることは私の楽しみの一つでした。
こういう方の告別式を終えて、私も司式をする身ながら教えられました。
「清くなるため」、というキリスト者としての人生目的を再確認したのです。

磯部豊喜

みことばの花 200525「夜いかに過ごすか」

みことばの花 200525「夜いかに過ごすか」

「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。」(Ⅰテサロニケ 5:7 口語訳) 

長かった緊急事態宣言の解除が今日正式に発表されるようです。
これまで自粛ムード一色でしたが、これから徐々に解消されていくと思います。
ですがまだ新型コロナは完全に日本から、世界から消えてしまったわけではありません。ここに注意が必要。
そこで一番気になるのが、夜をどう過ごすか。上記の御言葉は、夜酔う人への警告かも知れません。
私は「酒は避け?たほうが絶対に良い」と考える一人です。
アルコールは心を司る脳にすぐに達して精神的にいたずらをします。また肝臓にも負担を与えます。
酒が入ると、気が晴れて良いコミュニケーションが図れると世間は言います。
ですが酒を飲まなくても良いコミュニケーションは十分に可能です。
問題は、夜どのように過ごすか。夜はしっかりと眠れば、翌日に良い目覚めができるでしょう。
私は酒の代わりに、心をさわやかにしてくれる「聖書の御言葉を味わう」ことをお勧めします。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200524「確かな相談相手」

みことばの花 200524「確かな相談相手」

「主よ、どうぞわたしにみ心を留め、わたしの訴えをお聞きください。」(エレミヤ18:19 口語訳) 

上記は旧約聖書に登場する預言者エレミヤの言葉です。
エレミヤは、真実に神の言葉を語ったゆえに、それを良く思わない人々からひどい仕打ちを受けます。
「彼らは言った、『さあ、計略をめぐらして、エレミヤを倒そう。
祭司には律法があり、知恵ある者には計りごとがあり、預言者には言葉があって、これらのものが滅びてしまうことはない。
さあ、われわれは舌をもって彼を撃とう。彼のすべての言葉に、心を留めないことにしよう』。」(同18:18 口語訳)と。
このような圧迫を受ける時、人の心は意気消沈することがあります。
ですが、エレミヤの強みは、気持ちを訴えることのできる確かな相談相手があった事。
すべてのことをご存知の相談相手を持つ人は幸いです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜