みことばの花 181004「舟を軽くした」

みことばの花181004「舟を軽くした」

「みんなの者は、じゅうぶんに食事をした後、穀物を海に投げすてて舟を軽くした。」(使徒 27:38)

9月30日の続きです。「困った時の神頼み」という信仰の世界は確かにあります。ですが、ここで一つ問う。では人間は何もしなくても良いのか。聖書はこの記録においてパウロとその一行は、ただ手を合わせて祈るだけで何もしなかったとは書いていません。パウロは、「神は、あなたがたと同船の者を、ことごとくあなたに賜っている」と告げられたと言い、「われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」と予告しました。そこで彼らは水深を測り、舟が徐々に陸地に向かっていることを知ります。その後、パウロは食事をするように勧め、上記のように穀物を海に投げ捨てて舟を軽くし、さらに錨を切り離して潮の流れのままに進ませました。やがて舟は浅瀬に乗り上げます。次には、泳げる者は海に飛び込み、その他の者は板などに乗って陸を目指します。こうして276人全員が助かりました。「穀物を捨てて、舟を軽くする」という人の行動も彼らが助かる大切な要素となっています。

磯部豊喜

みことばの花 181003「虫(2)」

みことばの花181003「虫(2)」

「しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。」(詩篇 22:6)

今日も「虫」について触れてみたくなりました。実は「無視」できない「虫」の聖句があります。これは詩篇22篇に登場する「虫」ですが、詩篇22篇全体をよく読んでいきますと、これは明らかにメシア(キリスト)についての預言です。この聖句は「ダビデの歌」と表題がありますが、ダビデ一人の経験として読むには適していません。ダビデは天からの霊感によって、やがて来られるイエス・キリストについて書いたのでしょう。例えば「わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた(心臓破裂)」(14節)とか、「彼らは互いにわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引きにする」(18節)などの言葉は、十字架に架けられたキリストの姿に合致します。その中で「しかし、わたしは虫であって…民に侮られる」とあります。神の御子が人間になっただけでも「虫」になったようなものなのですが、さらに人からそしられ「虫」のような立場に置かれる経験をします。ですが主が「虫」のようになられた事実に、「虫」ならぬ人間に永遠の救いの道が開かれたという神様の真実があります。

磯部豊喜

みことばの花 181002「虫(1)」

みことばの花181002「虫(1)」

「主は言われる、『虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。』」(イザヤ41:14)

台風24号は過ぎ去りました。今は北の彼方に消えてゆきました。さて、昨日の虫たちはどうなったのか?虫学者のように彼らの動きにこだわって、昨晩耳をそば立ててみました。風の音が強く騒いでいましたが、その中で虫の合唱は昨晩も、台風前と変わらずに響いていました。激しい嵐の中、どこに隠れていたのでしょう。ところで聖書は、「虫」が登場する場面には、「虫」は人を困らせるものとして描いているところが多いです。マイナスイメージの多い「虫」ですが、上記の聖句を発見しました。「虫にひとしいヤコブよ」と切り出します。ここでの「虫」は弱く、存在感のないような対象として描かれています。ですがそのような者を、主は「わたしはあなたを助ける。…」と慰め、励ましてくださいます。私自身、時々、「自分はこの『虫』のような存在だ。あまり価値のある者ではない…」などと否定的に自分を眺めてしまう時があります。そのような私に、主はこのみ言葉を教えてくださいました。主に助けてもらえるならば、そう「虫」で結構なのだ。虫のように強風の中でも神を賛美しよう!

磯部豊喜

みことばの花 181001「あらしの過ぎ去るまでは」

みことばの花181001「あらしの過ぎ去るまでは」

「神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びのあらしの過ぎ去るまでは/あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。」(詩篇 57:1)

久しぶりに一句、詠みました。「暴風雨、近づく前に、虫合唱」。昨日の夜、嵐の前の静けさと言いますが、静かなどころか、昨晩は近づく台風をよそに夜の空気は虫たちの合唱でふるえていました。一方の気象情報に生きる人間の世界では、台風ニュースの合唱です。しかし虫たちは「僕らには、そんなの関係ない!」とにぎやかな合唱。果たして、暴風雨の時、彼らはどのようにそれを過ごして行ったのか。豪雨後に彼らの合唱は?…そんな妙なことを真面目に考えてしまいました。「雨降れば地固まる」と言います。では「嵐過ぎれば…」何となる。虫たちに何か学ぶことができるのかと、今夜も耳をそば立てようと思っています。激しく荒れ狂う嵐は過ぎ去りました。午前3時頃、玄関のチャイムが強風に押されて「ピン、ポーン…」と数分間鳴りました。こんなことは初めてです。それでも昨晩は上記のみ言葉を心に浮かべ、「あらしの過ぎ去るまでは、主の翼の陰をわたしの避け所とし」て、過ごすことが出来たことは感謝です。「嵐過ぎれば賛美固まる」。

磯部豊喜

みことばの花 180930「助かる最後の望み」

みことばの花180930「助かる最後の望み」

「幾日ものあいだ、太陽も星も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、わたしたちの助かる最後の望みもなくなった。」(使徒 27:20)

それにしても災害が次々とやってきます。台風24号が日本を縦断しようとしています。「非常に強い台風」とニュースは伝えます。私どもは、戦線恐恐(せんせんきょうきょう)として、無事に台風の過ぎ行く時を待っているのですが、海外でもまた大きな地震と津波による災害がありました。インドネシアです。「M7.5地震・津波によって死者384人、重傷者が540人に達し、29人が行方不明と発表した。犠牲者はさらに増える恐れがある」とあります。人が災害に遭うとき、上記の聖句のように「わたしたちの助かる最後の望みもなくなった」となるのでしょうか。上記の聖句は、暴風にさらされた船が危険の中に置かれた時に、当事者が書いたものです。しかしこれを読み進むと、船に乗っていた276人が全員無事だったことを記録しています。「助かる最後の望み」はあった。それは神を信じるパウロと共におられた神様でした。「困った時の神頼み」と言いますが、これは窮極の世界です。困った時、神様(創造主なる神)に祈る。これは最高の救いの道だと聖書は教えています。

磯部豊喜

みことばの花 180929「関係を深める」

みことばの花180929「関係を深める」

「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。」(Ⅱコリント 5:21)

昨日、わたしは「この罪から私たちを解放するためにイエス・キリストが来られて十字架にかかって死んでくださったという。これを『よき訪れ』と呼びます」と書きました。命の主である神様から離れている以上、人は永遠に滅びるしかありません。ちょうど切花のように、根元から切られている姿が罪人の姿です。根につながっていない限り、そこには本当の命(永遠の命)がありません。切花が数日しか咲くことができないように、神様と言う根元から切り離された人間もその命は80年前後です。キリストの十字架の死は、神との断絶という罪を根本的に解消するためのものでした。私の罪が十字架の上でキリストの上に置かれた。神とつながっていたキリストが、わたしの変わりに罪そのものとなってくださった。キリスト者はこのキリストの愛を信じ、神様との関係を深めようとします。今日は第七日安息日です。神様との関係を深める尊い日。神様と関係を深める生き方が、キリストを信じる人の心に芽生えてきます。今日もさらなるキリストの愛を知ることができますように。

磯部豊喜

みことばの花 180928「私がなぜ罪人?」

みことばの花180928「私がなぜ罪人?」

「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、」(ローマ 3:23)

教会へ行くようになると必ず聞かされる言葉があります。それは「私たちは罪人です」という言葉。これを嫌う人がいます。「教会へ来て気持ち良く帰りたいのに『罪人、罪人!』となぜ呼ばれなければならないのか」と感じる人もいます。なぜこのように感じてしまうのかというと、それは罪というものを道徳的なものに置き換えて受けとめているからです。確かに罪は不義と同列であり、道徳的な視点も無視は出来ません。しかし罪の本質は、不道徳ではない。「すべての人は罪を犯したため」とありますが、すべての人が罪と結びついています。その証拠は、すべての人が「死ぬ」という現実です。この罪の本質は何でしょうか。それは命の与え主である創造者なる神様から離れていることです。それゆえに生まれながらに真の命(永遠の命)を持っている人はいません。聖書は、この罪から私たちを解放するためにイエス・キリストが来られて十字架にかかって死んでくださったという。これを「よき訪れ」と呼びます。

磯部豊喜

みことばの花 180927「定まる心」

みことばの花180927「定まる心」

「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ。」(詩篇 108:1)

すでに人生の眠りに就(つ)かれた私の尊敬するK牧師を思い起こす聖句です。K牧師がお付き合いしておられた女性に求婚しました。「しばらく祈らせてください」との返答。不安と期待の入り混じった思いで本当の返事を待っていました。しばらくして一通のお手紙が届きました。そこに記されていたのは上記の聖句。K牧師は、この聖句をもってこの女性の気持ちを知り、喜びと感謝を主に捧げたとのこと。聖句で、大切な気持ちを伝えるってロマンチックですね。ところで私たちの人生、幾度となく決定しなくてはならない瀬戸際に立たされることがあります。右を選ぶか左を選ぶか。右も左も選びたくないこともあり、どちらも一緒に選びたくなる時もあります。このような時、どうすればよいのでしょう。それは必要を具体的に神様に祈ること。そして、心に平安が寄せてくるのを選ぶ。たとえ苦しい選びであっても正しい選びには平安があるでしょう。そうすると上記のように賛美が生まれて来ます。主からの平安が今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180926「キリストの怒り(2)」

みことばの花180926「キリストの怒り(2)」

「主は恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、いつくしみ豊かです。」(詩篇 145:8)

「キリストの怒り」についていまひとつの考察をさせていただきます。昨日、キリストの怒りは「聖なる怒り」と書かせて頂きましたが、私たちが普通に怒るものとは、まったく異なっていたと思います。キリストのご品性は、上記の聖句のように「怒ることおそく」とあるように本来「怒ることの出来ない」ご性質。そのお方が、「怒った」。では何を怒ったのでしょう。突き詰めてみますと、それは人の心に支配しているもの、それはつまり「罪」です。神と人を引き裂く「罪」。この罪の虜(とりこ)になっている罪人を罪から引き離したいという思いが「怒り」となってあらわされました。「怒り」をあらわされたキリストの心は、涙に満ちていた。これが「キリストの怒り」だと思います。罪を憎んで罪人を憎まず。こういう品性をキリストはお持ちでした。彼はどこまでも「いつくしみ豊か」なお方なのです。今日も主の愛を見つめて歩みましょう。

磯部豊喜

みことばの花 180925「キリストの怒り」

みことばの花180925「キリストの怒り」

「イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、その人に『手を伸ばしなさい』と言われた。そこで手を伸ばすと、その手は元どおりになった。」(マルコ 3:5)

先日、ある集会で「イエス様は、いつも穏やかで素敵な方でした」ということをお話しました。するとクリスチャンではないけれども聖書をある程度読んでおられる方が、私のところへ来て「『キリストが神殿で怒った』ということが書いてあったと思いますが…あれはどうなのですか?」と真面目な質問をしてくださいました。確かに「聖書にはキリストがまったく怒らなかった」とは書かれていないので、その通りです。そこで「キリストの怒り」とは、どういう種類の怒りであったかをお話しました。キリストは自分のためにカッとなったりはなさらなかった。人の貪欲のために神殿が汚されたり、上記の聖句のように、人々が隣人への愛からまったく離れ、愛のない言動をする時に怒ることがあったようです。私はキリストのあらわされた怒りは、「聖なる怒り」だと呼んでいます。おそらく「怒り」には二種類あるのだと思います。価値のない怒りと、価値のある怒り。義のためにここぞという時に「怒る」、それもありなのかな…と考えます。でもキリストのように人生の基本は優しく穏やかでいたいものです。

磯部豊喜