みことばの花 181123「恥を恐れない」

みことばの花181123「恥を恐れない」

「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」(創世記 2:25)

昨日は11月22日でした。巷(ちまた)では「いい、ふ~ふ」と読むとのこと。この日にあやかってか昨夜のTV番組で、スーパーに買い物に来ていた夫婦に「恥ずかしくなる」ようなイベントを行なっていました。それは店内で、くじを引き、くじの内容をやってのける…というもの。寄り添うツーショット撮影を行なう(この場合買い物の3割引)とか、店内でお互いに大声で「愛しています!」を掛け合う(この場合は6割引)という内容。二人で仲良く買い物へ来ている人たちですから、撮影されたペア夫婦は、これを見事にやってのけていました。買い物の恩典があるとはいえ、もし自分があの場にいたら「恥ずかしがらずに出来るかどうか…」。「愛しています!」は言えるかもしれませんが、放送だけはNGにしたい。ところで「いい、ふ~ふ」のルーツは、人祖アダムとエバにも見られます。この二人が罪を犯すまでは、上記聖句のように互いに「恥ずかしいとは思わなかった」。愛には裸(隠したくなる心を含めて)の恥は無い。何事も「恥を恐れない」、本当の愛の人になれたら幸いです。

磯部豊喜

みことばの花 181122「二都物語」

みことばの花181122「二都物語」

「彼は力強い声で叫んで言った、『倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そして、それは悪魔の住む所、あらゆる汚れた霊の巣くつ、また、あらゆる汚れた憎むべき鳥の巣くつとなった。』」(黙示録 18:2)

昨日「二頭追う者は一頭をも得ず」と書きました。すると敬愛する読者の方から、「『二兎を追う者は一兎も得ず』ではないでしょうか」とのご指摘がありました。こうして浅薄さを露呈してしまう私でありますが、ありがたき読者を持つ我が身は幸なり…です。カッコつけて英語を書いてみるとスペルを間違えていたり…。赤恥を書きながら「みことばの花」の配信は3年以上も続いているのは奇跡です。さてこの「二兎」から「二都物語」という言葉が浮かびました。「二都物語」というとディケンズの長編小説。フランス革命のころのパリとロンドンを舞台に四人の男女の複雑に変転する運命が描かれています。ところで聖書の黙示録にも「二都物語」と言える内容があります。それは新エルサレム(天の都=神の世界)とバビロン(地の都=悪魔の世界)です。最後はバビロンは滅亡し、新エルサレムは永遠に続く。「あなたはそのどちらの都を求めますか?」との問いを常に聖書は訴えています。今日もよき選びをしたいものですね。

磯部豊喜

 

みことばの花 181121「ふたりの主人」

みことばの花181121「ふたりの主人」

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6:24)

「二頭追う者は一頭をも得ず」といいます。欲張る心をたしなめる言葉です。これと似た言葉がレバノンを含む中東のことわざにもあるという。「スイカ二つを片手では持てない」という言葉。昨日の新聞やニュースで「日産ゴーン会長逮捕」「報酬50億円過少記載容疑」という言葉が、並べられていました。すべてが明らかとは言えないのですが、東京地検特捜部が逮捕したというのですから、これは事実なのかも知れません。それにしても50億円とは私にとっては高嶺の花です。年間に500万円稼ぐ人でも40年働いて得るのは、2億円程度です。有り余るほど持っている人なのに、欲と言うものには勝てないものなのでしょうか。ところでキリストのみ言葉には、「ふたりの主人に兼ね仕えることはできない」とある。特に「神と富に兼ね仕えることはできない」となれば、どちらに価値を持つか、これが人に問われているような気がします。本当に価値のあるものを選びたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 181120「忘れてはならないもの」

みことばの花181120「忘れてはならないもの」

「その時、あなたはみずから慎み、エジプトの地、奴隷の家から導き出された主を忘れてはならない。」(申命記 6:12)

現代は情報配信の多い時代です。スマホをいじっていましたらこんな動画を発見しました。「みんなの替え歌」。その中に一人のご婦人が登場。「中島みゆき」さんの名曲「地上の星」の替え歌でした。聞いていて思わず笑ってしまいました。替え歌の題は「日常のドジ」。歌詞は「したはずのメガネ 買ったはずの豆腐 みんなどこへ行った 記憶たどるけど無く 財布忘れて行った 街角のスーパー 自転車乗って出かけた 徒歩で帰宅をします 前を走る車 急いで左折すると つられて自分も左折 つばめよ教えておくれ 今何をしに行った つばめよ私の豆腐 今どこにあるのだろう」。いや実はわたしもこの歌詞のような生き方をしています。特にどこに置いたかを忘れ、探すことの多いこと…。忘れて良いものがあります。怨念とかいやな思い出。しかし決して忘れてはならないものもあります。それは恩。してもらったことは忘れてはならない。上記の聖句もそうです。神様に奴隷の家から導いていただいたことを忘れてはならない。常に感謝できるから…。

磯部豊喜

みことばの花 181119「筒抜けの言葉」

みことばの花181119「筒抜けの言葉」

「彼らはヨセフが聞きわけているのを知らなかった。相互の間に通訳者がいたからである。」(創世記 42:23)

今日はまずホットな話題を。言葉は、地方によって異なっていますが、ある雑誌編集者の観察によれば、「京都は『はひふへほ』、大坂は『ばびぶべぼ』、神戸は『パピプペポ』」だそうです。京都弁は確かに…、納得します。大坂には「難波、道頓堀、堂島…」など濁音のものが多い。神戸となると、そんなイメージかも。では千葉は?私(磯部)イメージは「だべぶぺぽ」です。「だべ」とか「すっぺ」とかの語尾。さて、言葉遊びは興味が尽きませんが、外国語圏の人が、私の語る言葉を知っていたらドキッとします。上記はエジプトの宰相になったヨセフの物語の中の聖句です。ヨセフは少年の頃に兄たちにエジプト行きの隊商に売られてしまいましたが、神の導きでエジプトの総理大臣になった。そこへ飢饉のために兄たちがエジプトにやってきて再会しますが、兄たちは彼がヨセフだと気づかない。彼らの話は実はヨセフは通訳をつけていたものの筒抜けでした。実は私の心の会話も神様の前では筒抜けなのです。独り言であっても良い会話を自分自身の心の中でしたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 181118「迷う」

みことばの花181118「迷う」

「主よ、わたしをさばいてください。わたしは誠実に歩み、迷うことなく主に信頼しています。」(詩篇 26:1)

「迷う」ということ、それは私にとって金魚のフンのように追いかけてきます。スパスパ!と決定できて「迷い」のない人生を送れたらどんなに良いかと時々思います。ところで「迷い」について、落語家の柳家小三治さんは「安心しているときが、一番危ないときだよ。迷ってねぇときは、危ない。迷っているときは、もっと危ない。要するにいつも危ない」と言っておられます。また毎日新聞記者の小国綾子さんは「迷うのは、自分で選ぼうとしている証拠、自分の頭で考えれいる人だけが得られる『勲章』みたいなものだ」と言っておられます。どちらも納得します。人生はとにかく二者択一という場面が多いです。

要は「迷って良いもの」と「迷ってはいけない」ものがあるということでしょうか。上記の「迷うことなく主に信頼しています」と語る詩篇記者の言葉は、いいなあと思います。自分の小さな選択は迷ったとしても、人生と言う大きな選択だけは迷いたくないものです。今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

 

みことばの花 181117「いなくなって存在感を増す」

みことばの花181117「いなくなって存在感を増す」

「彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている」(ヘブル 11:4)

上記は、「信仰によって義なる者と認められた」と称されるアベルという人に関しての言葉です。人の価値は、その人がいなくなって測られるのでしょうか。いるときは「うっとうしい」とか「煙たい」とか思える人でも、いなくなってみると、「ああ、もう一度あの人の言葉を聴きたい」と思える人になれたら素晴らしいと思います。上記のみ言葉に続き、「信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。」(ヘブル11:5)とエノクという人が登場します。エノクは、忠実で敬虔な信仰者でした。時には悪を責めた人物だったようです(ユダの手紙14,15参照)。ですが彼がいなくなって、人々は寂しく思ったらしい。「生き物は、いなくなってから存在感を増す」(那須圭子・原発反対運動の写真家)という言葉。味のある言葉です。「いなくなって存在感を増す」人に近づけたら本望です。今日は第七日安息日、「いなくなって存在感をいよいよ増す」イエス・キリストを今日も求めたいと思います。

磯部豊喜

 

みことばの花 181116「起きなさい」

みことばの花181116「起きなさい」

「イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、『起きなさい、恐れることはない』。」(マタイ 17:7)

今朝はキリストがお語りになられた短い言葉に注目。その一つは「起きなさい」という言葉。キリストがこの言葉を語られる時、人を助け、励ます場合が多い。「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、『若者よ、さあ、起きなさい』と言われた」(ルカ7:14)。「イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、『起きて、まん中に立ちなさい』と言われると、起き上がって立った」(ルカ6:8)。「イエスは彼に言われた、『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』」(ヨハネ 5:8)。「イエスは娘の手を取って、呼びかけて言われた、『娘よ、起きなさい』」(ルカ 8:54)。キリストは起きて立ち上がらせる力を持っておられるのですね。そういえば聖書は、今日の私にも「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう。」(エペソ5:14)と語りかけておられます。心の眠りがちな私への金言としたい。

磯部豊喜

みことばの花 181115「広い視野」

みことばの花181115「広い視野」

「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(ピリピ 2:4)

視野という言葉があります。視野の広さは、きっと自分の側の視点だけに立たないことを指していると思います。自分の側から物を言うのはたやすい。しかし同時に、相手の側にも立ってみなければ、それは狭い視野となる。父とその幼い息子とのこのような話のやりとりをみました。「お父さん、敵のヘルメットを持って帰って来て。そんなふうに幼い息子からねだられ、出征した父親がいた。第一次世界大戦でドイツと戦ったフランスの兵士である。持ち帰るのはむりかもしれないと、戦場から手紙を書いた。『考えてごらん。ドイツ人だって僕たちと同じなんだよ』。もし逆なら、お前はどう思うか。お父さんの軍帽を、ドイツ兵が自分の子どもに持ち帰ったとしたら―。殺される側のことを教えようとした彼は、1915年に戦死した」(11月13日朝日新聞1ページ)。悲しい話ですが、自分のサイドからの視点だけでなく、相手側の視点も父は考えたのです。上記のみ言葉を心に刻み、常に広い視野でいたいと思うのです。

磯部豊喜

みことばの花 181114「十人」

みことばの花181114「十人」

「ギデオンはしもべ十人を連れて、主が言われたとおりにおこなった。ただし彼は父の家族のもの、および町の人々を恐れたので、昼それを行うことができず、夜それを行った。」(士師 6:27)

十人という数は良いものです。聖書の中で人間の最小グループは10人を指している場合が多いです。ルツ記という聖書の中には、外国人女性であったルツを妻にするにあたって、ボアズという人は、手続き上、「ボアズはまた町の長老十人を招いて言った、『ここにおすわりください』。彼らがすわった時、ボアズは親戚の人に言った、『モアブの地から帰ってきたナオミは、われわれの親族エリメレクの地所を売ろうとしています。』」(ルツ 4:2,3)といい、十人の長老たちに証人となってもらい、結果としてルツを妻にめとりました。上記は、イスラエルを誘惑していた偶像を壊すのに、士師のギデオンが、「しもべ十人」を連れてこれを破壊したときの聖句です。最低同志が十人いれば、意見はまとまり、力も強くなります。今千葉教会でも十人の有志による講演会を行っています。日に日に出席者が増えているのは、牧師にとって励みになります。「十人十色」と言いますが、十人の個性がキリストのもとに一つになって説教する姿は実に頼もしいものです。※この講演会は明日最終日を迎えます。

磯部豊喜