みことばの花 191002「わたしたちが神の子と呼ばれるためには」

みことばの花 191002「わたしたちが神の子と呼ばれるためには」

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。
わたしたちは、すでに神の子なのである。…」(Ⅰヨハネ 3:1 口語訳) 

上記の聖句がそのまま讃美歌になっている曲があります。

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには♪、
どんなに大きな愛を父から賜わったことか♪、
よく考えてみなさい、良く考えてみなさい♪
どんなに大きな愛を父から賜ったことか♪」

曲題は「わたしたちが神の子と呼ばれるためには」。

こんな一文があります。
「アダムは、土のちりで造られたが、『神の子』であった。」(エレンホワイト著「人類のあけぼの」㊤p18)
今、人は罪のために神の子としての称号が失われています。
ですがまた主イエスによって回復されるとの約束があります。この天の父の大きな愛を思いたい。

磯部豊喜

みことばの花 191001「ひとりの人」

みことばの花 191001「ひとりの人」

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、
こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(ローマ 5:12 口語訳)

上記の聖句は、内容に特徴があるので、幾度が「みことばの花」の瞑想に取り上げました。
今日は、これまでとは別の視点でこの聖句をみたい。
今日の着目点は「ひとりの人」。
「たったひとりの人が何をできるか」などと冷めた心を持つことがありますが、
先日スウェーデンの16歳の少女グレタ・トゥンベリさんが、国連本部で各国の首脳らを前に涙ながらに
「温暖化対策」のことを訴え人々の心を揺さぶっています。
人類の祖先アダムによって「罪がこの世にはいり」とありますが、この少女の訴えも世界を変えるかも知れません。
「ひとりの人」は小さい。
ですが、ただ一人のイエス・キリストが12人の弟子たちの心を変え、やがてこの人々が世界を変えました。
「ひとりの人」はたかが一人、されど一人でもあるのです。

磯部豊喜

みことばの花 190930「最もよく…」

みことばの花 190930「最もよく…」

「わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。
あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。」(詩篇 139:14 口語訳)

時々、自分なのに自分のことが分からなくなることはありませんか。
実際そうです。身体の状態のことも検査にでもいかないと自分の状態は分かりません。
心もそうかも知れません。
自分の心で良いと考えていることが、他の人にとってはそうでない場合があります。
パウロも「わたしは自分のしていることが、わからない。
なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」(ローマ7:15 口語訳)
という言葉を残しています。
結論をいえば、私のことを「最もよく」知っているのは神様以外にはいないということなのでしょう。
それならば、主に今日の私をゆだねて行くのが一番です。
心も安定します。
今日も主も恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190929「後ろのものを忘れ」

みことばの花 190929「後ろのものを忘れ」

「ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、」(ピリピ 3:13 口語訳)

人が前に進めない最大の理由。
それは恐らく過去の失敗経験が足を引っ張り、前に向かうことを恐れさせてしまうことではないか。
過去の失敗経験は、一つの失敗を学ぶ教訓にはなっても、それをもって前へすすめない材料にしてはならないと思う。
思想家のラフル・ワルド・エマーソンの言葉に「恐れることをやってみろ。
そうすれば恐怖心は跡形もなく消え去る」とある。
今回の世界ラグビーで格上のアイルランドを破った日本のラグビーは、その言葉を連想させます。
ずっと負けていた相手に初めて勝ったのはすごい。
私自身、弱音の虫に打ち勝つ秘訣を教えられた気がします。

磯部豊喜

みことばの花 190928「愛に根ざし愛を基として」

みことばの花 190928「愛に根ざし愛を基として」

「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。」(エペソ 3 :17-19)

ここにキリストの圧倒的な愛の姿が表現されています。
キリストの愛を極めることは難しいでしょう。
これを書いたパウロは、かつてキリスト教を滅ぼすためにその運動の先鋒として励んでいた人物。
ですが復活のキリストに出会い、彼は自分の過ちを知り、キリストに帰依しました。
彼は迫害者である自分を受け入れてくださったキリストの愛の広さを知りました。
その精一杯の表現の一つが上記です。
今日は聖なる第七日安息日、キリストの愛を求めて教会に行きたいと思います。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 190927「招きに応える」

みことばの花 190927「招きに応える」

「見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。」(マタイ 23:38 口語訳)

今日は「選びの大切さ」を考えたい。
昨日の「みことばの花」では、
イスラエル(元ヤコブのこと)が別れ別れになっていた愛する息子ヨセフとの喜びの再会の言葉に触れましたが、
上記はイエス・キリストが言われたみ言葉で、キリストを拒んだエルサレムの人々に語られた嘆きの言葉の一節です。
昔神は預言者を遣わし、最後は御子が来られて熱意をもって天国に入る人々を求め招待されましたが、
それを頑なに拒んだエルサレムの人々に対するみ言葉です。
人を永遠の命に救う天国への門戸は、神の側では常に開かれています。
ただ神はそれを強要はなさらない。
選びは常に自由だからです。
愛の神は常に、愛情をこめて神と天国を選ぶように私を招いておられます。
今日も主の愛がありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190926「Live=ライブ」

みことばの花 190926「Live=ライブ」

「そしてイスラエルは言った、『満足だ。わが子ヨセフがまだ生きている。わたしは死ぬ前に行って彼を見よう』。」
(創世記 45:28 口語訳)

昨日、S姉のプロデュースで小さなスナックにて人生初の「賛美ライブ」を行いました。
下手な演奏ですが、ギターの弾き歌いを行いました。
聴衆は約15人くらいでしたが、その多くはノンクリスチャン。
ですが、温かく忍耐深い人たちでした。
私ごときの聖書のショートメッセージを挟みつつ奏でる讃美歌を聴いたり、一緒に歌ってくださいました。
ところで「賛美ライブ」のライブは「Live」と書きます。
これには生演奏という意味があります。
他にも「生きている」といった形容詞でも使われます。
生きていればライブも出来、上記のイスラエルのように愛する人と再会できる。
ですが真の「Live(ライブ)」は、天国での再会です。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190925「決してあきらめない!」

みことばの花 190925「決してあきらめない!」

「主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない。」(申命記 31:8 口語訳) 

先日、私の尊敬するS牧師を教会へ招き、「決してあきらめない!」という題の講演を行って頂きました。
聞く人の心を揺さぶるとても素敵な講演でした。
ところで私どもに目を注ぎ「あきらめの悪い方」が私のすぐそばにおられます。
それは上記のみ言葉を語られる「主(神)」です。
「主は…あなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられない」と言われます。
このみ言葉を私へのメッセージとして受けとめたい。
私のことを「決してあきらめない!」お方にいつも守られていると信じられる人は幸いだと思います。
今日も主の愛に包まれてお歩みください。

磯部豊喜

みことばの花 190924「偽り者と闘う」

みことばの花 190924「偽り者と闘う」

「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。
見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない。」(Ⅰヨハネ 4:20 口語訳)

上記のみ言葉は、ときどき私の心にズキンと刺さるみ言葉です。
なぜかというと好きな人とか気の合う人とかはまったく問題はないのですが、
自分の考えと相いれない人とか、何となく折り合えない人の場合「憎む」とまではいかなくても、
受け入れがたい感情がふつふつと湧いてしまうという嫌な感情があるからです。
こういう感情は天の力に対処されたいと願う。キリストの愛は「敵さえも愛する」ものでした。
「敵さえも許す類(たぐい)なき愛」…この言葉が私の脳裏に浮かび、先の嫌な感情の自戒となります。
「愛するとは私の中にある『偽り者』と闘い、その勝利は許すこと」に違いない。

磯部豊喜

みことばの花 190923「愛のベクトル」

みことばの花 190923「愛のベクトル」

「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、」
(マタイ 28:19 口語訳) 

神の名がここに記されています。
「父と子と聖霊」です。
このみ言葉ゆえ、聖書の神(創造の神)をしばしば三位一体の神と呼ばれる。
三つにして一つなる神はとても理解し難い。
ですが三つのベクトルを持った愛の総称とすると良い。
一つの愛は線の愛。
二つの愛ですと平面の愛、三つの愛は立体の愛。広く深く大きな愛、これが三一の神の愛の姿なのです。
「神は愛」(Ⅰヨハネ4;8)なのですから、わたしはそのように理解するのです。
今日も大きな主の愛に包まれますように。

磯部豊喜