みことばの花 200110「不正の富」

みことばの花 200110「不正の富」

「またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。
そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。」(ルカ 16:9 口語訳) 

今、社会の関心を包んでいる一つの出来事はカルロス・ゴーン氏の国外逃亡とそのスピーチです。
審判中にもかかわらず国外逃亡をしたことは支持できませんが、彼の日本脱出劇は、驚きました。
ですがこれも協力者あってのこと。ゴーン氏の交友関係の広さと資金力が底にあるようです。
そこで思い出したのが上記の聖句。
「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい」。
これはキリストの例え話ですが、命がけずられる時、助けとなるのは何かを教えています。
「不正な富?」は解釈に悩む言葉ですが、何よりも命を守ることの重要性をこの例えは語っています。
ここでは「永遠のすまい」の命を得ることが大切だと教えているようです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200109「死が全人類に」

みことばの花200109「死が全人類に」 *筆者注(ひとりの人=人祖アダム)

「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、
こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(ローマ 5:12 口語訳)

昨年12月1日Sさん、12月27日Oさん、そして今年1月5日Sさんご夫妻、1月9日Nさん、これは葬儀の日取りです。
そしてまた、一昨日また一人の大切な方がしばしの眠りに就かれました。葬儀は1月12日になります。
ここ一ヶ月半で6人もの方々を見送ることになります。
これまでの任地において私は比較的葬儀の少ない牧師でした。
これまでの約40年間、私の担当した葬儀は2年に一回、あったかどうか…。
今、私の脳裏に上記の聖句が身に染みます。
しかし死は、新しき命の始まり。
聖書には、死を越える命の希望が約束されています。
主の愛が今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200108「私の自分史①…私は何者?」

みことばの花 200108「私の自分史①…私は何者?」

「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」(詩篇 8:4 口語訳)

私は牧師になるまで、ユニークな人生を歩いてきました。
まず今日は、私という人間の育った背景をご紹介したいと思います。
私の生まれは葛飾柴又、姓は車、名は寅次郎ではありませんが、生まれは山口県下関、姓は泉、名は豊喜でありました。
しかし「泉」という姓を名乗って生きて来たのは、わずか6年間。
小学校1年生の時に養子縁組によって「磯部」と名乗るようになりました。
どうしてこういうことに…。
ところで「私は何者?」なのか。
大人に成長するにつれ、このような問いかけをしながら生きて来たような気がします。
しかしこれは私ばかりではないと思います。
上記の聖句の「人」や「人の子」を私と置き換えて読んでみてはどうでしょうか。
「私は何者なので、これをみ心にとめられるのですか…」と。
神のみ心にとめられない人は一人もいないのです。

磯部豊喜

みことばの花 200107「このようなことは」

みことばの花 200107「このようなことは」

「…このようなことは昔からあったことがなく、後の代々の年にも再び起ることがないであろう。」(ヨエル 2:2 口語訳)

一昨日(1月5日)のこと。

私は先に1月2日に起きた出来事(早朝に妻が亡くなり、
その亡き妻の写真を見て淋しさと悲しみのうちに後を追うようにその夫も夕方に心臓が停止して亡くなった)を受け、
そのご家族のご意向によりこの家族との関りがあった私が、送り人の一員としての役割を担うことになりました。
式は火葬式のみでしたが、母がクリスチャンでしたので司式をさせていただきました。
夫婦の棺(二体)を前にして、司式をするのは初めての体験です。
事故とかで同時に亡くなったのではないのです。
私自身にとってはまさに上記の聖句のような経験です。「このようなことは」二度とないと思います。
昨年の暮れは、同一日に葬儀と結婚式の司式をしたり、「このようなことは」二度とないであろう体験をさせられています。
本当に私たちは「明日のことも分からぬ身」であることを実感します。

磯部豊喜

みことばの花 200106「誕生日」

みことばの花 200106「誕生日」

「生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、」(伝道の書3:2 口語訳)

昨日、かつて姉だった人(血のつながった姉)から何度か電話が届いていました。
そこで返信しましたら「あなたを産んだ母が亡くなった」との報せでした。
私には二人の母がいます。
一人は育ての母。この母は、昨年の1月12日の朝に、しばらくの眠りにつきました。
そしてもう一人は生みの母。昨日は、この母が亡くなったという報告(幼少時代より、会うことなく人生を終えた)。
私は本日誕生日、66歳を迎えます。
自分の人生とは何か?自分の人生を思い出し、自分史のおさらいをしようかなと思います。
昨年の秋の講演会で「なぜ私は牧師になったのか」という話をしました。
ゆっくりペースで、「みことばの花」にも自分の生まれた日からの小さなドラマをときどき挟んでみたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 200105「悲しむ人々」

みことばの花 200105「悲しむ人々」

悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」(マタイ5:4/新共同訳)

年初早々に「○○さんが亡くなりました。
急いで訪問したら、今度はご主人が倒れて目の前で救急車に運ばれてしまいました」という悲しみのメールを受けました。
人が死ぬことは、悲しいことです。
しかしキリストはこのような悲しみを持つ人に、特別な慰めを注いてくださいます。
「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。」(ローマ12:15 口語訳)との聖書の勧めを心にとめて生活したいものです。

磯部豊喜

みことばの花 200104「試練という友」

みことばの花 200104「試練という友」

「鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。」(箴言 27:17 口語訳)

下記のような一文に触れました。
「生涯の試練は、わたしたちの品性から不純で粗野なものを取り去る、神の職人である。
切り出され、角材とされ、削られ、刻まれ、磨かれるのは苦しい工程である。
研石車におしつけられるのはつらいことである。
しかしこうして石は、天の神殿に置かれるように整えられる」(希望への光p1128)。
自分の真の姿を見せられるのは、自分に好意を寄せる人ではない。
自分にとって嫌だと思う人が意外に宝物。
それは自分の心の顔を研いでくれるからです。
嫌な人には好んで人は近づきたくはない。
ですが、これは私が磨かれるチャンスと受け止められる良いでしょう。
研がれて人は輝く。
今日は聖なる安息日、教会で御言葉という鉄(友)にも触れたい。

磯部豊喜

みことばの花 200103「悲しんでいる人々」

みことばの花 200103「悲しんでいる人々」

「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」(マタイ5:4/新共同訳)

昨日同様、これも逆説的な教えが伝わってきます。
「悲しむ人々」よりも、「喜こぶ人々」は幸いな気がします。
そこで「悲しむ」というのは、何を「悲しむ」のかを考察する必要がありそうです。
まずこの「悲しみ」とは、自分の罪のための真心からの悲しみを指しています。
自分の罪が、神の御子を十字架につけたと悲しむ心を持つ人は幸いな人です。
三浦綾子さんの書かれた「塩狩峠」に登場する主人公に伝道師が「君がイエス様を十字架につけたのです。
これが分からなければ君はキリストとは何の関係もない」と語る場面があります。
罪は自己中心、神の愛を受け止めない心、神の愛の律法(十戒)を無視する生き方、この自分の罪を悲しむ、敏感な人になりたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 200102「心の貧しい人々」

みことばの花 200102「心の貧しい人々」

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3/新共同訳)

上記は、疑問に思った聖句の一つです。
「心の豊かな人々は、幸い」ならば分かるのですが「心の貧しい人々は、幸い」とはどういうことか…と。
しかし学んで分かったことは「心の貧しい」の「心」は「霊」とも訳される言葉。
すると、これは「自分の霊的な貧しさを認めて、罪からの救いの必要を感じるものは幸いである」となります。
霊的(あるいは自分の良い所)に満足している人は「自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もない」(黙3:17 口語訳 )と考えるので真理の光を求めない。
このような人は、自分の行為に満足するので真理の必要を感じないでしょう。
この状態こそ、実は最も危険な魂の姿を指すようです。
福音は「へりくだる心、渇いた心」に流れます。
自分の心の醜さに気づく人は幸いです。
本気で真理の光を求めるからです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200101「成長」

みことばの花 200101「成長」

「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。」(エペソ 4:15 口語訳)

今日より、2020年の日々が刻まれていきます。
今日はそのスタートですので、どのような聖句が一年の始まりにふさわしいのかを心に描きながら、聖書を開きました。
そして目に留まったのが上記の御言葉です。
牧師をしていますと「真理を語る」と息をまいているのですが、「愛にあって」が抜けてしまってはいないかと反省させられます。
またもっと人間的に「成長」したいと思います。
ですが御言葉には「あらゆる点において」成長することが教えられています。
還暦を越えた今、身体の成長は止まっていてどうにもなりませんが、
人間の内面、すなわち心の成長や知的な成長はまだ伸びしろがあるのでは…と考えます。
そして成長の最終目標が「かしらなるキリストに達する」こと、とても大きな目標ですが素敵な目標だと思うのです。
2020年が良い一年でありますように。

磯部豊喜