みことばの花 200610「小さくても」

みことばの花 200610「小さくても」

「時に、ペリシテびとの陣から、ガテのゴリアテという名の、戦いをいどむ者が出てきた。身のたけは六キュビト半。」(サムエル上 17:4 口語訳) 

今大相撲注目の一人に炎鵬という力士がいます。
身長168センチ、体重99キロは角界一の小兵。これまでの生涯戦歴126勝88敗(幕内戦歴は6場所で47勝43敗)は立派です。
彼は子供の頃から相撲をしていましたが負けてばかり。
転機は晃くんという先輩を見てから。晃君も細くて小さい、でも強い。決して後ろに下がらない。
晃君を手本に、彼も恐れずに前に出る相撲を取るようになり大きい人にも勝てるようになったという。聖書に登場するダビデのようです。
少年ダビデは、身の丈6キュビト半(約3メートル)の巨人ゴリアテと闘った。
そして一撃必殺の石投げで勝利しました。
ダビデの勝利の秘訣は、炎鵬に似ています。心を後ろに下げなかったことです。
前向きな心こそ勝利の秘訣なのでしょう。

磯部豊喜

みことばの花 200609「悩みの日」

みことばの花 200609「悩みの日」

「わたしの悩みの日にわたしはあなたに呼ばわります。あなたはわたしに答えられるからです。」(詩篇 86:7 口語訳)

どんなに頑張ってもどうにもならない場合があります。人間の限界といっても良いでしょう。
自分の無力を知るとき、人は悩みを抱えます。これまで人生を送る上で一度も悩まなかった人はあるでしょうか。
たびたび紹介しますが、私の車のナンバープレートは783(ナヤミ)。
自分で選んだのではありませんが、車を入手する時に、付いてきたナンバーです。牧師だって、このナンバーのように悩むのです。
私は毎週、悩んでいます。今週、どんなメッセージを準備したらいいのか…と。
ですが、不思議なことに毎週説教を語り終える度に、「神様ありがとう!無事に終えました」と心で叫ぶのです。
毎週アップアップの説教準備ですが貧しくはあれ、何とか終えています。
悩みの日、主の名を呼んでください。

磯部豊喜

みことばの花 200608「難」

みことばの花 200608「難」

「幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、」。(Ⅱコリント 11:26 口語訳) 

「バイキング」というと何を思うでしょう。いろいろな種類の食べ物が大きな皿に盛られて並んでいる食卓を思うでしょうか。
実は、6月8日は「バイキングの日」だそうです。しかしこれは793年の今日、北欧の「海賊」が登場し記録された日との事。
ところで「盗賊」は昔から存在していました。上記は1世紀のパウロの記録。
この一句には「盗賊の難」ばかりでなく「難」の多い事。この中には「都会の難」という言葉もありますが、東京都を襲う「新型コロナの難」を思います。
私どもの人生は「難」だらけ。夫婦の難、親子の難、職場の難・・・???。
パウロの場合、その「難」を常に守られたのはイエス・キリストでした。
私どもの人生の「難」を守ってくださるのも同様、主イエスだと私は信じています。

磯部豊喜

みことばの花 200607「心の苦痛」

みことばの花 200607「心の苦痛」

「わたしは卑しめられ、苦痛の中にあります。神よ、わたしを高く上げ、救ってください。」(詩編 69:30 新共同訳)

「苦痛」を好む人はいないでしょう。身体の苦痛も辛いものですが、これよりも辛いのは心の苦痛ではないかと思います。
上記の言葉の前後を見ますと、これは明らかに(著者ダビデの)心痛の叫びです。
「嘲りに心を打ち砕かれ、わたしは無力になりました。望んでいた同情は得られず慰めてくれる人も見いだしません」(詩編69:21 新共同訳)。
しかし上記のように叫んだことによって彼は、「神の御名を賛美してわたしは歌い御名を告白して、神をあがめます」(詩編69:31 新共同訳)と気を取り戻しています。
苦痛が襲う時、主はわたしの逃れ場です。
そのことを信じられる人は幸いです。
今週も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200606「詩篇122篇1節」

みことばの花 200606「詩篇122篇1節」

「人々がわたしにむかって『われらは主の家に行こう』/と言ったとき、わたしは喜んだ。」(詩篇 122:1 口語訳)

東京アラートという言葉が飛び交うようになりました。
緊急事態宣言が解除された途端に、感染者が再び増えてきています。
このまま増加するとまた緊急事態宣言が出てしまうと困ります。
さて、この数か月全国の教会は休会をしていましたが、徐々に集会を再開するようになってきています。
千葉教会も今日から再開です。
上記の詩篇122:1の聖句は、私の教会の週報の表に記載している聖句です。
教会が休みの間、「教会は何のためにあるのか」とずっと考えて来ました。
天の創造主なる神と交わる(礼拝する)ために教会はある。
しかしこれはライブ配信でも可能です。
では何のために、教会はあるのか。信仰共同体が教会です。「
われらは」と上記の聖句にあります。
「一緒に天国に」に教会存在の理由を私は見るのです。

磯部豊喜

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今日の礼拝説教の URLが手違いで変わってしまい、失敗しました。
下記が新しいものです。よかったらこれからの時間でも大丈夫です。どうぞご覧ください。
変更のURL https://youtu.be/8Kj-mCgAZsc

みことばの花 200605「あなたの名を」

みことばの花 200605「あなたの名を」

「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、『恐れるな、わたしはあなたをあがなった。
わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。』」(イザヤ 43:1 口語訳)

ここ数日、名前について考えましたが、自分の名と同じ名前の人と出会ったらどう感じますか。
5,6年前になりますが、私は生まれて初めて漢字は違っても同姓同名の人に出会いました。
教会の姉妹機関である東京衛生病院で、健康診断に行った時のことです。
「イソベトヨキ」さんと言う名が呼ばれて、私ともう一人の人が同時に返事をしました。同姓同名でした。
この時、もう一人の「イソベトヨキ」さんと親しくなったのは言うまでもありません。
人は自分の名前が呼ばれると嬉しいものです。ところで私の名をしっかりと間違うことなく呼んでくださる方が天におられます。
上句はその御言葉。「ヤコブ」や「イスラエル」のところに自分の名〇〇を置き換えて読んでみませんか。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200604「豊か」

みことばの花 200604「豊か」

「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。」(ヨハネ10:10下句 口語訳) 

今日も手前味噌の話で失礼します。私の名は「豊喜」ですが、この名前が付けられた由来は確認したことがありません。
ただ、子供の頃はあまり好きではありませんでした。その理由は、何といっても字数が多い。
豊は13画、喜は12画。これに磯部が加わると磯は17画、部は11画。合計すると53画。時間勝負のテストにはハンディを抱えます。
「読み方も」「トヨキ」は記憶しにくいのか、ときどき「豊吉(トヨキチ)」と記憶される場合があります。
ですが、クリスチャンに導かれた今、この自分の名を誇れるようになりました。
上の聖句はキリストのみ言葉ですが、「豊かに」とあります。とても良い響きがします。
愛の豊かな人になりたい。この名前は今、私の一つの目標になっています。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200603「喜び」

みことばの花 200603「喜び」

「いつも喜んでいなさい。」(Ⅰテサロニケ 5:16 口語訳)

10年くらい前こと、ある教会の知り合いの方から、「牧師さんのお名前は豆尽くしですね」と教えてもらったことがありました。
私の名は豊喜。確かに豊に下方に「豆」、喜を真ん中に「豆」があります。
当時50年以上もこの名と付き合ってきましたが、その事実を知りませんでした。以来、「豆」がそれまで以上に好きになりました。
さて、上記の聖句は「喜び」の奨励です。
ところが「いつも喜んでいなさい」とあるこの一句は実行の難しい言葉ではないかと思います。
ですが「神があなたをいつも喜んでおられる」ということが分かると「いつも喜ぶ」ことは不可能ではないと思えるようになりました。
神は私の存在を「喜んでくださっている」という信仰を磨きたい。
確かに神は私の存在を喜んでくださる。生まれた赤ん坊を喜ぶ親のように!

磯部豊喜
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毎週水曜日午前8:30~9:30に、電話祈祷会を千葉教会発信で行っています。参加の方法は、①03-4578—0172(この部分は有料)、②案内放送が流れる、③818-273—1108#を(固定電話は無料、携帯電話はカケホ以外は有料なのでご注意)。聞くだけの参加でも結構です。

みことばの花 200602「久しく食べた」

みことばの花 200602「久しく食べた」

「彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。」(列王上 17:15 口語訳)

他県から他県への移動自粛を含む緊急事態宣言が解除されたことで、私ども夫婦は久しぶりに千葉県を脱出し娘のところへ行きました。
そして約3か月ぶりにその娘と一緒に食卓を囲むことが出来ました。
非日常に遭遇するとこれまでの日常の有難さを実感します。
しかし新型コロナがまだ終息しているわけではありませんので、これから先は、非日常が日常と交互に入れ替わる可能性があります。
いえむしろそういうことが日常になるのかも知れません。
上記の聖句は、飢饉のために食生活をさえ切り詰めなくてはならない家族が久しぶりにまともな食事をとったことが記されています。
これも久しぶりに日常を取り戻す家族の姿です。
これからの時代、何が起こるか分かりません。
将来をしっかりと見据えながらも、あまり悲観的にならず、瞬間、瞬間の喜びをかみしめ、感謝すべきことを見つめて歩みたいと思います。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200601「不思議にたえないこと」

みことばの花 200601「不思議にたえないこと」 

「わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。
すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである。」(箴言 30:18、19 口語訳)

先日、「みことばの花」の読者の一人の方が、「不思議なみわざ」(200527)を読み、
その返信としてご自分が奥様と出会った時の思い出(慣れ初め)の物語をお寄せくださいました。
以前は全く知る機会もなかった赤の他人同士が、出会ってそして夫婦になる。み言葉は、これを「不思議にたえないこと」の一つだと述べています。
「不思議にたえないこと」となると、それを偶然の出会いと考えるか、神の導きと受け止めるかは、その人の解釈。
私は後者を信じます。後者を信じると、きっと人生の終りまでロマンスは続くと思います。いえ、きっと天国に至るまで…。
ところで「この人とはこの地上だけでもうたくさん」、と考えている人はいませんか。
そのような方にはノーコメントです。
今日も、可能な限り人生パートナー(結婚相手に限らず、傍にいる方)を、大切にしてお過ごしください!

磯部豊喜