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みことばの花 200301「いたずらに」

みことばの花 200301「いたずらに」

「わたしは心を清く保ち/手を洗って潔白を示したが、むなしかった。」(新共同訳/詩編 73:13)

昨日、送りました聖句の別の訳を今日は送ります。
「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。」(口語訳/詩篇 73:13)
と書いた昨日の聖句とは、読んだイメージが違うかもしれません。
気になるのは「いたずらに」という言葉です。それは「空しさ」を強調する意味で書かれています。
「私が今までしてきたことは、無駄だったのでしょうか。きよくあろうと苦しんだ日々は何だったのでしょうか」(リビングバイブル)
と分かりやすく訳す聖書もあります。
人は清くあろうと願い生きても、それが理解されないということがあります。
むしろ正しく生きようとすればするほど苦しい立場に置かれるということもあります。
しかし最後には心を清く正しく生きようとする者が勝利をするのだと、このみ言葉は教えています。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200229「手を洗う」

みことばの花 200229「手を洗う」

「まことに、わたしはいたずらに心をきよめ、罪を犯すことなく手を洗った。」(詩篇 73:13 口語訳)

「手を洗う回数が日ごとに増えていく。悩ましいのは、どれくらい洗えば新型コロナウイルスを防げるか、確信が持てないことだ。
…感染症の予防に手洗いが有効なことを知らない人はいまい。しかし医学史をさかのぼれば、そんな常識が広まったのは19世紀も半ば以降のことだ。
ハンガリー生まれの産科医ゼンメルワイス(1818~1865年)が提唱するまで、医師の間にも手洗いの習慣はなかった。」
(朝日新聞「天声人語」2020年2月28日参照)
このゼンメルワイスは当時、産科医の手洗いを勧めたゆえに「産科医たちをまるで殺人者呼ばわりをしている」と非難を受けたそうです。
これは開拓者の宿命でしょう。
さて、手洗いは大切。しかしそれと共に心の手を洗うことも上記の御言葉のように大切な気がします。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 200228「メンタルを鍛える」

みことばの花 200228「メンタルを鍛える」

「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。」(箴言 16:32 口語訳)

昨日の補足です。テニスのジュニア全国大会で優勝した山崎郁子選手は、高校1年生の時は、県大会で初戦敗退という過去を持っていました。
そして昨年、夏に負けが続いていた時にメンタルトレーナーをつけ、精神的に成長。
体力強化にも励んだ結果が実を結んだそうです。
巨人ゴリアテに勝利したダビデも羊飼いとして羊を猛獣から守るために、メンタルを鍛え正確な石投げの技術を訓練していたようです。
補欠とはいえ、こういう隠れた努力が実を結んだといっても過言ではないでしょう。
華やかな勝利の背後にあるものが、とても大切な気がいたします。
ダビデの場合はこれに加えて、神に信頼するという強い信仰心が巨人を恐れることなく勝利に導いたと考えられます。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200227「補欠」

みことばの花 200227「補欠」

「サウルはダビデに言った、「行って、あのペリシテびとと戦うことはできない。あなたは年少だが、彼は若い時からの軍人だからです」。」
(サムエル上 17:33 口語訳)

昨日の新聞にテニスのジュニア全国大会で優勝した山崎郁美さん(18)のことが載っていました。
山崎さんは補欠でエントリーしていた選手で、辞退者の代わりに出場。
そして決勝では一度も勝ったことのない相手でしたが、逆転勝ちをしたとありました。
補欠ということで思った聖書の話があります。
イスラエルの2代目の王となったダビデの話です。
イスラエルの軍人には、敵の巨人ゴリアテと戦う勇気のある人はいませんでした。
それでダビデは、イスラエルのサウル王に名乗り出た。れば羊飼いの紅顔の美青年。リアテの相手など務まるとは思えない。
上記はそのサウル王の言葉です。
ですがこの話の結末は、ダビデが巨人ゴリアテに勝利した。
補欠であっても奇跡が起きることもあるのです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花200226「失望に終らない生き方」

みことばの花200226「失望に終らない生き方」

「聖書は、『すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない』と言っている。」(ローマ10:11 口語訳)

上記の聖句の「彼」とは神の御子キリストを指しています。
よってこのように言い換えることが可能でしょう。
「すべてイエスを信じる者は、失望に終ることがない」。
この反対は、「イエスを信じない者は、失望に終ることもある」となるでしょうか。
聖書は、「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。…」(Ⅰコリント13:13 )口語訳)と書いていますが、
信仰という言葉が冒頭に書かれていることに注目したい。
この聖句においても信仰対象は、神の御子イエス・キリストを指していると私は信じています。
イエス・キリストは天地万物の造り主。
この方を本当に信じて失望する人はいない。
死の間際でさえも「大丈夫」と言えるからです。
主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜