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みことばの花 200930「家は…」

みことばの花 200930「家は…」

「家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。」(ヘブル 3:4 口語訳)

「有神論」と「無神論」。昨日の続きです。無神論者は自分も世界も宇宙も動植物も偶然にある…と信じることにしています。
では家は?家は人が作ったのでそこにあります。ところで家は家を作ることが出来ません。
ですが人は人を生む。花も種となり、同じ花を生みます。この素晴らしい仕組みは果たして偶然なのでしょうか。
私はときどき思います。「無神論者」ってとてつもない信仰者だと。美しい草花が偶然にあると信じているのですから。
家もそこに偶然にあると信じる信仰者、これが「無神論者」の発想。
私はかつて「無神論」を謳歌(おうか)していた一人でしたが、聖書をとおして創造の神を知った時、実に単純な信仰者となったのです。
とてつもない信仰を抱く無神論者を卒業しました。
「家はすべて、だれかによって造られるものであるが、すべてのものを造られたかたは、神である。」なんと明解な言葉でしょうか。
創造者の愛が今日もあなたの胸に届きますように。

磯部豊喜

みことばの花 200929「偶然」

みことばの花 200929「偶然」

「そして見ていて、それが自分の領地へ行く道を、ベテシメシへ上るならば、この大いなる災を、われわれに下したのは彼である。
しかし、そうしない時は、われわれを撃ったのは彼の手ではなく、その事の偶然であったことを知るであろう。」(サムエル上 6:9 口語訳)

「有神論」と「無神論」。聖書を信じる「有神論者」は、信じる対象者を神と呼び、すべてのものはこのお方によって造られたと考えます。
一方、「無神論者」は「神はいない」と信じ、「有神論者」は「神はいる」と信じる。ここに両者の共通点があります。
それはいずれも「信じる」という心があるということです。
ところで「無神論者」の一つの特徴は、「偶然」を多用します。聖書には、この「偶然」という言葉は、口語訳聖書には一か所しかありません。
それが上記の御言葉です。Miqreh(ミクレー)というヘブライ語は「運命、偶然、何か起こる、臨む事、はからずも」と訳せる言葉。
果たして私は偶然の産物なのでしょうか。それとも神に造られた産物なのでしょうか。
信仰は選択。さて、どちらの選択が私にとって幸せなのでしょうか。

磯部豊喜

みことばの花 200928「安かれ」

みことばの花 200928「安かれ」

「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた。」(ヨハネ 20:19 口語訳)

ヨハネ20章19~26節の中に、立て続けにキリストがお語りになられた一つの言葉。それは「安かれ」(19、21、26節 口語訳)。
訳の違う聖書では「平安があるように」「平和があるように」とも訳されています。
これは「心が穏やかでいられる」ようにという励ましに満ちた言葉です。
危機が迫る時、自分の願いが適えられない時など、人の心は穏やかでなくなります。
ですが、そのような人の心の只中にキリストのこの御声が届くと、人の心に奇跡が起きます。
弟子たちの心が穏やかになるまで主が連発された「安かれ」は、今も「私の心が穏やかでない」時、「安かれ」を私の心に語り続ける必要を、主が願っておられるような気がします。
自分の前に主を描き、自分の心に向けて「安かれ」と語ってみませんか。

磯部豊喜

みことばの花 200927「天を見つめる」

みことばの花 200927「天を見つめる」

「しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。」(使徒 7:55 口語訳)

上記は数日前にも紹介した聖句です。ある方からこんなメールを頂きました。「軽井沢はお金持ちが作った保養所だから、おしゃれな分お金がかかる。
手つかずの自然があるところは蛇やサルや熊が出るから危険です」と。
私も自然界が好きなのですが、「熊に注意」などという看板にふれると緊張が走ります。
南房総に車を走らせると、自然界のサルが出没します。一方、人間界では凶暴な人に出会う可能性があります。
車を運転していても、暴走車がいます。この世界、今はどこにも安全地帯はない。
ですが、どんなに危険な所に身を置いても、天を見上げれば平和な主を見ることが出来ます。
心の目を天に向けたい。そこには、地上の何物にもとらわれない「我と汝」の世界があります。
今週も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200926「命のパン」

みことばの花 200926「命のパン」
「わたしは命のパンである。」(ヨハネ 6:48 口語訳)

キリストがキリストご自身を表現する言葉が聖書にはいくつか登場します。
「わたしは世の光である」(ヨハネ8:1 2口語訳)とか、「わたしは門である」(ヨハネ10:9 口語訳)、「わたしはよい羊飼である」(ヨハネ10:11 口語訳)、「わたしはまことのぶどうの木…である」(ヨハネ15:1 口語訳)などもそれです。
上記の聖句は「わたしは命のパンである」。この聖句は「あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。」(ヨハネ6:49,50 口語訳)と続きます。
人が口から食べるパンは地上の命を助けてくれますが、人を不老不死の命に導くことは出来ません。
ですがキリストという「天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことない」という。
これは、人生のセカンドステージの命、キリストを信じる人に与えらる永遠の命を含む言葉です。
この26日(土)、教会では洗足聖餐式というものを行います。
その意味はとても大切ですから、教会に来れない方には、ライブ配信などでその意味を知っていただきたく願っています。
ハッピサバス(幸せな安息日を)!

磯部豊喜
・・・・・・・
9/26(土)ライブ配信 URLです。過去のメッセージは、http://sda-chiba.org/
安息日学校(聖書の学び)URL 9月26日(土)10:00  第Ⅲ期13課「信仰による一歩」 磯部豊喜
https://youtu.be/DKMTPOkEuyQ
礼拝説教 URL 9月26(土)11:00 説教題「十字架の叫び」(イエスが十字架の上で叫ばれた「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」の真相は?)
https://youtu.be/5KNicAxdKDU