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みことばの花 201021「生きることに疲れたら」

みことばの花 201021「生きることに疲れたら」

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ 11:28 口語訳)

上記はきわめて有名なイエス・キリストのみ言葉です。ここには「元気な者は」とか、「充実している者は」とか語られてはいません。
「重荷を負うて苦労している者は」と語られています。
ある日、次のような讃美歌の歌詞に触れました。「生きることに疲れたら、イエスの胸に中にゆだねてごらん♪」。
昨今、新型コロナのために仕事を失った人が6万人もいると新聞に書かれていました。
またシングルマザーで赤ん坊を抱えて、食べ物もないという人もいると…。まともな食事を摂れていない子供が多くいるという報告も。
社会保障制度のあるこの国で、「重荷を負うて苦労している者」が多くいるという。その一方で、仕事があり家族もあり、家土地も財産もある。
ですが心が渇いている人がいます。
この人生砂漠がこの国にあるとしたら、この主のみ言葉を、もっと伝えなくてはならないと思うのです。

磯部豊喜

みことばの花 201020「ポツンと一人の時」

みことばの花 201020「ポツンと一人の時」

「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」(マルコ 14:50 口語訳)

「避けられる」ということは有難いことではありません。これ以上に「見捨てられる」ことも悲しいことです。
ですが私どもが人生を送る上で、時に「避けられる」ことも「見捨てられる」という事態に置かれることがあるかも知れません。
ポツンと一人になってしまう…こういう経験はしたくありませんが、そういう立場に置かれると感じることがあるかも知れません。
ですがそういう時に、覚えてほしいことがあります。それは、そのようなことはすでに神の御子イエス・キリストが味わっておられたということです。
弟子たちでさえも、キリストを見捨てて逃げ去った。彼は避けられ、見捨てられました。
それゆえに避けられ、見捨てられる人の悲しみ、寂しさをよく知っておられます。
そのような心境に包まれる時、主イエスの胸の中に飛び込んでいって欲しいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 201019「避ける」

みことばの花 201019「避ける」

「…人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」(創世記 3:8 口語訳)

この聖句は、数日前にも「神の顔」という題で紹介しましたが、今日は「神の顔を」に続く「避けて」という言葉に着目しました。
相手を「避ける」という行為は、「避けられる」側としては本当に残念で悲しいことではないかと思います。
讃美歌にも「などて愛の光を避けてさまよう♪」という歌詞があります。
神は愛の深いお方なので、本来は「避ける」必要はないのですが、どこか神様というと煙たくなってしまう心を持つ人が多いと思います。
「触らぬ神に祟りなし」と誰が語ったか分かりませんが、「神を友として」迎えるよりも、「近づき難い存在」として受け止めている人が多い気がします。
ですが「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」(ヤコブ4:8 口語訳)と聖書記者ヤコブは書いています。
心に覚えたいみ言葉です。真の神は、ご自分に近づく者を喜んでくださいます。

磯部豊喜

みことばの花 201018「音楽」

みことばの花 201018「音楽」

「ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、」(ルカ 15:25 口語訳) 

また「音楽」の巨匠と言われる人がお亡くなりになりました。「筒美京平」さんです。
今年は「エール」というNHK連続ドラマが高視聴率で放送されています。こちらは戦中戦後の作曲家「小関裕而」さんをモデルにしているとのこと。
「筒美京平」さんは、レコード販売日本一だそうです。
「ブルー・ライト・ヨコハマ」とか「サザエさん」とか多くのヒット曲を作られた人で、私の記憶にも多く残っています。
人の歴史には音楽がつきものです。上記は、キリストの語られた「放蕩息子」のたとえ話の一コマですが、ここにも「音楽」が登場します。
音楽は悲しみ、喜びなど人の心に寄り添っています。歴史が次のステップを迎えて、天国がこの世界に入れ替わっても、音楽はそこにあると思われます。
聖書は、「神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って」(黙示録15:3 口語訳)と書いています。
これはきっとこの地上の音楽とは比にならぬ美しい調べだと私は想像します。
「みことばの花」読者の皆様と共に、この歌を歌えればと夢見ています。
今週も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201017「選びを選ぶ」

みことばの花 201017「選びを選ぶ」

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。…」(ヨハネ15:16 口語訳)

「人間に備わっている宝は、選びの力」だと思います。
朝目覚まし時計が鳴って直ぐに起きることも、目覚ましのスイッチを切ってそのまま眠ることも選ぶことも出来ます。
信仰も同じで、神を信じることも信じないことも選ぶことが出来る。
ところで上記の聖句は、キリストがその弟子たちに語られた御言葉。
「あなたがた」を「弟子たち」と置き、「わたし」を「キリスト」と置いて読むとよく分かります。
キリスト信仰は、キリストの選びから始まります。キリストが私というものを選んでくださっている。この事実に気付くことが信仰の始まり。
信仰とは、結局のところ「キリストに選ばれている」ことに感謝し、キリストの選びに応答しキリストを選ぶこと。
「選びを選ぶ」ことです。
今日は第七日安息日、「創造主の選びを選んで」、創造主を礼拝するのです。
ハッピーサバス!

磯部豊喜