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みことばの花 201026「エール」
「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ 5:5 口語訳)
「神の存在を問う若者のように、なぜ、どうしてと自分の身を振り返ってとるうちは希望は持てません。
どん底まで落ちて大地を踏みしめ、共に頑張れる仲間がいてはじめて真の希望が生まれるのです。
この希望こそ、この国の未来を作ると私は信じています」「僕もその若者のように自分のことになっていました」「あなたは戦争中人々を応援しとった。戦争が終わった今、あなたに出来ることは何ですか」「変わりません、応援する歌を作り続けます」「希望をもって頑張る人にエールを送ってくれますか」「はい」…作曲家小山祐一(モデルは小関祐而)と長崎の原爆後、自身被爆者ながら任務を果たした医者(モデルは永井隆)との会話です。
軍歌を作り、戦後苦しんでいた小山さんが立ち直るきっかけとなったとされる、朝のテレビドラマ「エール」の中の名シーンです。
ここで私は「希望は失望に終わることはない」という上句の御言葉を思いました。
磯部豊喜
みことばの花 201025「鐘」
みことばの花 201025「鐘」
「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。」(Ⅰコリント 13:1 口語訳)
「長崎の鐘」のことを知りました。
1945年8月9日11時2分、長崎「浦上天主堂」の上空500メートルで、原子爆弾が爆発、天主堂は破壊し多くの犠牲者が出たという。
この時の鐘が地下に埋もれ、奇跡的に掘り出され、再びその鐘が鳴らされた。これは被爆後の人々への希望の鐘の音だったという。
ところで「鐘」を聖書で探すと、上記の一句がありました。ここでは鐘は「愛がなければ」の文脈の中で否定的に描写されています。
ですが「長崎の鐘」は希望と愛の鐘の音であったに違いない。
この希望と愛の鐘は、私の心の中でも鳴らすことが出来るのです。主イエスを見上げるならば…。
主の恵みが今日もありますように。
磯部豊喜
みことばの花 201024「正直であること」
みことばの花 201024「正直であること」
「彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」(黙示録 14:5 口語訳)
今朝この聖句は、私の心を深く突き刺します。
「彼らの口には偽りがなく」、このような生き方を求めているつもりが、実は私の口を映す録画ビデオを巻き戻して振り返ってみると、不合格とされるのが明らかだと自認するからです。
私は「正直」という言葉が好きです。ですが「正直」を貫くことの難しさは、66歳になった今でも感じることがあります。
時に適当に言い逃れをして、その場を切り抜けようと咄嗟に判断する器用さが自分にはあるからです。
もちろん「馬鹿正直」というのは、愚かなこと。何でもさらけ出す必要はありません。
ですが正直でなくてはならない時に、適当に誤魔化す心が問題です。
堂々と生きる生き方を、この聖句を見つめて日々仕切り直したいと願うのです。
今日は安息日、「傷のあるまま」の自分をさらけ出し、すべてをご存じの上、こんな者でも受け止めてくださる十字架の主を信じ拝顔したいと思う。
ハッピーサバス!
磯部豊喜
みことばの花 201023「幸福度」
みことばの花 201023「幸福度」
「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。」(使徒 20:35 口語訳)
「あなたは幸福ですか?」と聞かれたら何と答えるでしょう。
昨日、この質問を介護施設でお働きになっている方々の朝礼で投げかけてみました。
「はい」という人、「まあまあ」という方もあれば、沈黙された方もおられました。
次は米国のシカゴ大学での実験。96名の被験者の学生たちに5日間にわたり1日5ドルを支給し、このお金を自分のために使うグループと、自分以外の誰かのために使うグループに分け、両者の幸福度を報告してもらったそうです。
時間の経過に伴い、前者は幸福度が低下し、後者は幸福度が上昇する傾向が明らかになったという。
与えることは、自分の持ち物ものを減らすことですが、幸福度は増加するようです。
与える生き方を選びたいものです。
磯部豊喜
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10/24(土)ライブ配信 URL です。
安息日学校 URL 10月24日(土)10:00 2020年第4期SS聖書の学び 4課「主の目―聖書の世界観」 小林勝牧師
https://youtu.be/21lUd1j-JCI
礼拝説教 URL 10月24(土)11:00 説教題「見える信仰」 小林勝牧師(教団信徒伝道部長)
https://youtu.be/bAkfWFTP67U
みことばの花 201022「怒りの子
みことばの花 201022「怒りの子」
「また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。」(エペソ 2:3 口語訳)
「生まれながらの怒りの子であった」。ここに書かれているように現在形でなく過去形で記されることは素晴らしいことだと思います。
今、教会で祈祷週という共に祈る会を毎日持っています。
祈祷週読み物というのがあって、それを読むたびに、自分のキリスト者生活の至らなさを心に実感し、それを互いに見つめあっています。
「怒りの子」とは無縁とも思えるような人であっても、「まだ自分の心にはそのようなものが残っている」と告白したりもします。
「怒りの心」が頭にもたげるとき、どうすればようのでしょう。
「怒りがこみ上げて、抑えられなくなったとき」、十数えるという方法もありますが、一番良いのは「祈る」ことだと思います。
「神様、穏やかな心にしてください」と。この祈りは聞かれます。
今日も穏やかな一日でありますように。
磯部豊喜