ブログ

このエントリーをはてなブックマークに追加
サイト管理人のブログです。

ブログ一覧

みことばの花 210106「生れた日」

みことばの花 210106「生れた日」

「この後、ヨブは口を開いて、自分の生れた日をのろった。」(ヨブ 3:1 口語訳)

誕生日は嬉しいでしょうか。それとも佐藤愛子さんの本のタイトル「90歳。何がめでたい」とあるように、自分の年齢に疑問符を抱く方でしょうか。
若い頃は誕生日が嬉しかった。しかし成人を迎えてから普通になり、60歳を過ぎると「何がめでたい」となっていく自分を感じています。
ところで聖書には「生れた日」について実に否定的な言葉が多い。
「また溶けてどろどろになるかたつむりのように、時ならず生れた日を見ぬ子のようにしてください。」(詩篇58:8 口語訳)、「わたしの生れた日はのろわれよ。
母がわたしを産んだ日は祝福を受けるな。」(エレミヤ20:14 口語訳)などある。確かに人の一生は生まれて後、あとは病と死に向かう道。良いことは決してない。
ですがイエス・キリストに出会って、人生の第二ステージ(死後の命)を知った今、人生も悪くないと思えるようになりました。
今日は私の「67歳。何がめでたい…いえ、感謝」の日なのです。

磯部豊喜

みことばの花 210105「主の御言葉」

みことばの花 210105「主の御言葉」

「主の御言葉は正しく/御業はすべて真実。」(詩編 33:4/新共同訳)

昨日は口語訳聖書の通読について書いてみました。
今日は新共同訳です。新共同訳の場合、旧約は1502ページ、新約は480ページあり、口語訳聖書よりもページ数が多い。
これを1年365日に分けると、5.4ページ読むと1年で完読します。
3日間を旧約聖書約18ページ、1日に新約聖書6ページと読み進んでいくと絶対に完読できる。むしろ208ページ分さらに読み返すことが可能です。
聖書の御言葉は神様の愛の手紙。そして「主の御言葉は正しく、御業はすべて真実」だとここに紹介されています。
10~15分、毎日聖書を読み、意味を味わい、神様の正しさとその御業の真実を体験したいものです。
まだ読み始めていない人も、まだまだ間に合います。口語訳では25ページ、新共同訳では30ページ、今頑張れば!
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210104「通読か積読か」

みことばの花 210104「通読か積読か」

「主はわたしに答えて言われた、「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。」(ハバクク 2:2 口語訳)

新年を迎えますと、まず決心を新たにさせられることは、神の御言葉である聖書の通読です。
ですが通読はなかなか難しい。口語訳では旧約聖書1326ページ、新約聖書は409ページですから、1年365日に分けると約5ページ読まなければ読み終えない。
聖書の1ページの文字数は、24文字×24行×2段=1152文字。大体1100文字あり約2分はかかる。
5ページを読破すると10分で済むのですが、これは棒読みの場合。内容を理解して読もうとするとスムーズには読めない。
難解な箇所で立ち止まることもあります。その結果、通読目標が積読になりかねません。
それでも聖書は人が読むために書かれた命の書。一日10分の聖書通読に走りながらも挑戦したい。

磯部豊喜

みことばの花 20103「生かす」

みことばの花 20103「生かす」

「あなたの約束はわたしを生かすので、わが悩みの時の慰めです。」(詩篇 119:50 口語訳)

「生かす」という言葉は、私の好きな言葉の一つです。
かつて本人が望まぬ日米開戦に海軍大将として登場し、59才で非業の死を遂げた山本五十六元帥は「人を生かす」言葉の人としてもよく知られています。
「やってみせて、言って聞かせて、やらせてみせて、ほめてやらねば人は動かじ。」ところがこの続きの言葉があることを知りました。これがまた良いのです。
「話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」(サインズ2020年12月号より)。
人を育てる、人が実る秘訣を見事に語っていると思います。親という字は、木の上に立って見ると書きます。
天の父も程度な距離感をもって私の祈りに耳を傾け、私の自主性(選択)を尊重してくれます。そして信頼してくださいます。
この信頼に応えて今日も生かせて頂きたいものです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210102「目当て」

みことばの花 210102「目当て」

「神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」(ユダ 1:21 口語訳)

「目当て」とは「目をつけること、注意して見守る点」を指す言葉です。
「財産を目当てに結婚」とかいうのは程度の低い話ですが、果たして私は何を目当てに生きているでしょうか。
上記の聖句には、「永遠のいのちを目あてとして」と勧められています。
バニヤンという人の著書に「天路歴程」という本がありますが、そこに登場する主役に「クリスチャン」という名の人がいます。
彼は「永遠のいのち」を叫びつつ困難な旅をするのです。この世界と私どもの命を考えるとき、「永遠のいのち」があるのは希望です。
この希望に触れるために第七日安息日があります。今日も「永遠のいのちを目あてとして」過ごしたいものです。
ハッピーサバス!

磯部豊喜