みことばの花 200104「試練という友」

みことばの花 200104「試練という友」

「鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。」(箴言 27:17 口語訳)

下記のような一文に触れました。
「生涯の試練は、わたしたちの品性から不純で粗野なものを取り去る、神の職人である。
切り出され、角材とされ、削られ、刻まれ、磨かれるのは苦しい工程である。
研石車におしつけられるのはつらいことである。
しかしこうして石は、天の神殿に置かれるように整えられる」(希望への光p1128)。
自分の真の姿を見せられるのは、自分に好意を寄せる人ではない。
自分にとって嫌だと思う人が意外に宝物。
それは自分の心の顔を研いでくれるからです。
嫌な人には好んで人は近づきたくはない。
ですが、これは私が磨かれるチャンスと受け止められる良いでしょう。
研がれて人は輝く。
今日は聖なる安息日、教会で御言葉という鉄(友)にも触れたい。

磯部豊喜

みことばの花 200103「悲しんでいる人々」

みことばの花 200103「悲しんでいる人々」

「悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。」(マタイ5:4/新共同訳)

昨日同様、これも逆説的な教えが伝わってきます。
「悲しむ人々」よりも、「喜こぶ人々」は幸いな気がします。
そこで「悲しむ」というのは、何を「悲しむ」のかを考察する必要がありそうです。
まずこの「悲しみ」とは、自分の罪のための真心からの悲しみを指しています。
自分の罪が、神の御子を十字架につけたと悲しむ心を持つ人は幸いな人です。
三浦綾子さんの書かれた「塩狩峠」に登場する主人公に伝道師が「君がイエス様を十字架につけたのです。
これが分からなければ君はキリストとは何の関係もない」と語る場面があります。
罪は自己中心、神の愛を受け止めない心、神の愛の律法(十戒)を無視する生き方、この自分の罪を悲しむ、敏感な人になりたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 200102「心の貧しい人々」

みことばの花 200102「心の貧しい人々」

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3/新共同訳)

上記は、疑問に思った聖句の一つです。
「心の豊かな人々は、幸い」ならば分かるのですが「心の貧しい人々は、幸い」とはどういうことか…と。
しかし学んで分かったことは「心の貧しい」の「心」は「霊」とも訳される言葉。
すると、これは「自分の霊的な貧しさを認めて、罪からの救いの必要を感じるものは幸いである」となります。
霊的(あるいは自分の良い所)に満足している人は「自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もない」(黙3:17 口語訳 )と考えるので真理の光を求めない。
このような人は、自分の行為に満足するので真理の必要を感じないでしょう。
この状態こそ、実は最も危険な魂の姿を指すようです。
福音は「へりくだる心、渇いた心」に流れます。
自分の心の醜さに気づく人は幸いです。
本気で真理の光を求めるからです。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 200101「成長」

みことばの花 200101「成長」

「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。」(エペソ 4:15 口語訳)

今日より、2020年の日々が刻まれていきます。
今日はそのスタートですので、どのような聖句が一年の始まりにふさわしいのかを心に描きながら、聖書を開きました。
そして目に留まったのが上記の御言葉です。
牧師をしていますと「真理を語る」と息をまいているのですが、「愛にあって」が抜けてしまってはいないかと反省させられます。
またもっと人間的に「成長」したいと思います。
ですが御言葉には「あらゆる点において」成長することが教えられています。
還暦を越えた今、身体の成長は止まっていてどうにもなりませんが、
人間の内面、すなわち心の成長や知的な成長はまだ伸びしろがあるのでは…と考えます。
そして成長の最終目標が「かしらなるキリストに達する」こと、とても大きな目標ですが素敵な目標だと思うのです。
2020年が良い一年でありますように。

磯部豊喜