みことばの花 190426「借りの作り愛」

みことばの花190426「借りの作り愛」

「互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。」(ローマ 13:8)

借りを作るのはあまり良くないことでしょう。
しかし愛は別のようです。愛し愛されることには借りがあっても良いという。
リビングバイブルでは、この聖句を「借りがあれば、全部返しなさい。
ただし、他の人を愛するという『借り』だけは別です。
その『借り』だけは、いつまでも返し続けなさい」と書いています。
愛し愛されるという「借りの作り愛(合い)」。
なるほど、いい生き方だと思いませんか。

磯部豊喜

みことばの花 190425「信仰の導き手」

みことばの花190425「信仰の導き手」

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(ヘブル 12:2)

女子マラソンのメダリストを育てた名指導者、小出義雄監督がお亡くなりになられました。
小出監督という人の指導法は、選手を褒めて伸ばすものだったそうです。

その小出監督の名言。
「一つのことに打ち込んでこそいい仕事ができる。」
「逆風は君を潰すためにではなく飛躍させるために吹く。」
「焦らなくてもいい大きな山はゆっくり登れ。」
「私の教え方は夢と希望を持たせることです。」

…とまあ、すべて前向き。素晴らしい人であったに違いない。
実は私の信じるキリスト、まさに夢と希望を弟子たちに注がれたお方でした。
主を裏切ったペテロに対しては、「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。
それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)。
ペテロはこの言葉を思い出し、立ち直ることができたに違いない。
キリストは信仰の導き手だと上記にあります。
この方は、さらに私たちにも「あなたは尊い」とも語ってくださいます。

磯部豊喜

みことばの花 190424「『見える』と言い張るところに…」

みことばの花190424「『見える』と言い張るところに…」

「イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。
しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」(ヨハネ 9:41

「わたしには見えている」という人も危ない。
キリストは、「あなたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と言われました。
この言葉は、こういう言い回しだと分かりやすい。
「しかし、何もかもわかっているとあくまで言い張るので罪はそのまま残るのです」と(リビングバイブル参照)。
「自分には見えている」「自分には分かっている」…こうして自分の賢さを披歴(ひれき)する。
人間はすべてを見透かすことは出来ません。
これは神様の領域でしょう。
神の領域を自分のものにしてしまうので、罪があると主は言われたのかも知れません。
常に謙虚でありたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190423「自分が見えない人」

みことばの花190423「自分が見えない人」

「パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、
『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、
また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。」(ルカ 18:11)

自分の本当の姿が見えていない人の事例がここにあります。
上記の祈りをささげたパリサイ人のような人です。
彼は自分のことを良く知っているかのように語っています。
ですが自分の中に潜んでいるものに気づいていません。
自分は品行方正だと思っています。
こういう人は、やはり優越感を抱く。
彼のように優越感を抱き他者を見下げる人は、実は自分が見えない人なのでしょう。
こういう人にならないように注意したいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190422「自分を知る」

みことばの花190422「自分を知る」

「わたしは自分のしていることが、わからない。
なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。」(ローマ 7:15)

上記のみ言葉を書かれたパウロのように言える人は良い。
まだ自覚があるからです。
ところが「自分がしていることが、わからない」とも言わず、本当に自分のことを知らないとなるとどうでしょう。
私は時々、自分のしていることを知らせてくれるセンサーが欲しいと思うことがあります。
果たして私はどんな毒素を周りに撒いているのか…考えるとそら怖いものです。
神のみ言葉、聖書は自分を知る一つの心の鏡。
この鏡の前に立ってみると、自分の汚さがよく見えてきます。
今日も主の光を見つめて行きたい。

磯部豊喜

みことばの花 190421「福音に預かってほしい」

みことばの花190421「福音に預かってほしい」

「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」(Ⅰコリント 9:23) 

宣伝で「埼玉県民には草でも食わせておけ」とひどい言葉が語られる映画「跳んで埼玉」が大ヒット。
埼玉県観光課では、「逆説的だが、埼玉への関心を高めてくれる大チャンス」と好意的。
ところでこのような「自虐広告」の草分けは島根県。
「日本で47番目に有名な県」とうたいました。
茨城県では「のびしろ日本一」。
魅力度ランキングで全国最下位が続いたのを逆手にとった広告です。
三重県志摩(しま)市のテーマパーク「志摩スペイン村」が今年、「並ばないから乗り放題」などと来場者の少なさを自虐広告。
すると3月には学生の来場者が前年の倍になったという。
さて、この自虐広告を教会に当てはめ、「疲れを癒す(=安眠?)牧師の話」などはいかがか。
何であれ一人でも教会に来て、福音に預かって欲しいと私は願うのです。

磯部豊喜

みことばの花 190420「神殿燃ゆ」

みことばの花190420「神殿燃ゆ」

「イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。
そこでイエスは彼らにむかって言われた、『あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。
よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう』。」(マタイ 24:1,2)

ノートルダムの大聖堂の尖塔(せんとう)が燃え崩れました(4/15~16)。
この大聖堂はフランスのパリの象徴でありユネスコ(国連教育科学文化機関)世界文化遺産でもある建造物ですので驚きと共に痛みを覚えました。
火事の映像を見て、私は聖書の中にある上記のみ言葉を思いました。
こちらはユダヤの大神殿が崩落するというキリストの預言です。
この預言がなされて約40年を経、キリストの予告通りになりました。
現在、その神殿の一部が「嘆きの壁」として残っており、参拝者たちが涙を流して祈る光景を見ます。
私たちは神殿に心を奪われてしまいますが、実は神殿よりも大いなるお方がおられることを覚えたい。
それは神様です。神殿は燃え崩れても神ご自身は決して破壊されることはない。
今日は第七日安息日、大いなるお方、主を礼拝しませんか。

磯部豊喜

みことばの花 190419「つもり」

みことばの花190419「つもり」

「そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。」(使徒 15:37)

上記の聖句には、バルナバという人が若者マルコを宣教に連れて行く心つもりを持っていることを示した言葉です。
人はしばしばこのように「つもり」(心に意とするところ)を抱くことがあります。
ところでこの「つもり」はあっても、現実は違う場合もあるそうな。
「つもり違いの十ケ条」という言葉を知りました。

①高いつもりで低いのは教養、
②低いつもりで高いのは気位、
③深いつもりで浅いのは知識、
④浅いつもりで深いのは欲、
⑤厚いつもりで薄いのは人情、
⑥薄いつもりで厚いのは面の皮、
⑦強いつもりで弱いのは根性、
⑧弱いつもりで強いのは我(が)、
⑨多いつもりで少ないのは分別、
⑩少ないつもりで多いのは無駄。

このように現実は、「つもり」とはかけ離れいている場合もあるようです。
現実とつもりが一つになれば良いのですが…。

磯部豊喜