みことばの花 190909「神の子が来られた目的」

みことばの花 190909「神の子が来られた目的」

「罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。
神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。」(Ⅰヨハネ 3:1  口語訳)

さて私ども人間が、知らずして犯してしまっている罪の種まきをした存在があることを聖書は語っています。
それは悪魔(サタン)です。
これがまたピント来ない話です。
ただ「罪」を考えるとき、少しばかり逃れ道があるのは、人間は自分から積極的に罪を犯したのではないということです。
悪魔という誘惑者があって、罪を犯すように誘惑されたということです。
そしてこの誘惑は、今の時代にもあります。
「わかっちゃいるけれど、やめられない」のスーダラ節の歌詞にあるように、罪への誘惑にすぐに負けてします。
これが罪びとの姿です。
神の子キリストが人間になって来られたのは、この「悪魔のわざ(=罪と死との法則)を滅ぼしてしまうため」でした。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190908「罪とは」

みことばの花 190908「罪とは」

「ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。
またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。」(イザヤ59:2 口語訳) 

「人は死ぬ定めを持っている」ということは事実ですから、誰も疑問はないと思います。
ですが「罪」が「死」の原因だというとピンとこないかも知れません。
「罪」の定義が分からないからです。
聖書は神の律法を守らない「不法」(Ⅰヨハネ 3:4 口語訳)、善い事が分かっていても行わない「不善」(ヤコブ4:17 口語訳)、
イエス・キリストを信じない「不信」(ヨハネ16:9 口語訳)などが罪であると書いています。
ですが罪のルーツは、アダムとエバの物語にさかのぼります。
罪は結局、神との関係にヒビが入った悲しい行為です。
上記の聖句では「不義」とも呼ばれています。
愛であり命の与え主である神との関係が壊れたこと、これが実は罪の実体です。
愛の神を見上げて「わが父よ!わが神よ!」と呼べなくなった。
ここに私どもの気づかざる罪があります。

磯部豊喜

みことばの花 190907「死ぬ定め」

みことばの花 190907「死ぬ定め」

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ 6:23  口語訳)

昨日、「神の御子の登場は人類の歴史を変える」と言う言葉を添えました。
神の御子はイエス・キリストです。
この方が来られたことで人類のどのような歴史が変わるのでしょう。
それは死(永遠の滅び)から命(永遠の命)に至る道が開かれたということです。人類の否定しがたい事実は、「人が死ぬ」ことです。そして聖書は「死」の原因が「罪」であると言います。
「罪が熟して死を生み出す」(ヤコブ1:15)とあります。
人は当初、永遠の命をもつ者として神によって創造されました。
ですが「罪」を犯したために「死ぬ定め」を持つようになったのです。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190906「ひとり子なる神」

みことばの花190906「ひとり子なる神」

「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」
(ヨハネ1:18 口語訳)

昨日、キリストの本質が神と等しいお方であることを紹介しました。
上記の聖句も、その補足になります。
「神を見た者はまだひとりもいない」。
人は心のどこかで神が本当におられるならば、この目でみてみたいと思うでしょう。
少なくとも私はそうでした。
また神が愛であるならば何らかの行動をとられるに違いないとも思いました。
上記は、その疑問に応えています。
「ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」
聖書はイエス・キリストこそ神をあらわした「ひとり子なる神」だと言います。
「旧約聖書は神のかたちに造られた人間(アダム)から始まり、
新約聖書は人間のかたちに造られた神(イエス)から始まる」と語っている人がいます。
神の子の登場は人類の歴史を変えるのです。

磯部豊喜

みことばの花 190905「受肉」

みことばの花190905「受肉」

「イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。
わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。」(ヨハネ14:9 口語訳) 

昨日、キリストが苦難の道、十字架の道を選ばれたと書きました。
ではイエス様が十字架で死なれることと人の救いがどう結び付くのか。
これはおそらく多くの人の疑問だと思います。
これを説明するには、まずイエス・キリストが誰なのかということを説明しなくてはなりません。
「わたしを見た者は、父を見た」とキリストは言われます。
まずキリストは「父」で表現される神(創造主)と等しいお方でした。
この神が人となったという事実を「受肉」といいます。
神が人になった。
これは十字架の意味を知る第一歩です。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190904「選択の難しさ」

みことばの花190904「選択の難しさ」

「行ってダビデに言いなさい、『主はこう仰せられる、「わたしは三つのことを示す。あなたはその一つを選ぶがよい。わたしはそれをあなたに行うであろう」と』。」(サムエル下 24:12 口語訳) 

人生は選びの連続です。
時にそれは面倒になります。
ですがどうしても選ばなくてはならない時があります。
ここにイスラエルの王ダビデの罪の結果、神は三つの選択を迫った。
①七日間の飢饉、②敵国の侵略、②三日間の国内への疫病。
このうちのどれをあなたは望むかと。全部選びたくない内容です。
A良いか悪いかの選択は簡単、B良い中での選択は難しい。C悪い中での選択は苦しい。
主イエスの選択はCだった。
しかし主は十字架の道、茨の道を選ばれた。
人の救いのために!
今日も主の祝福がありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190903「思いやる」

みことばの花190903「思いやる」

「獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。
また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。」(ヘブル 13:3  口語訳) 

近年「神対応」という言葉を良く聞きます。
テニス界の女王になった大坂なおみ選手が若干15歳の選手と戦い圧勝した様子がニュースに映されていました。
ところがその試合後、大坂選手が対戦相手のところへ「一緒に会見をしよう」と近づく様子を、
メディアが「大坂選手の神対応」として紹介していました。
試合に大差で敗れたショックを隠せない若い選手の気持ちを思いやる優しさが高い評価を得ました。
これは大坂選手がかつての自分の姿を若い選手の中に見たことがこの行動につながったといいます。
相手の気持ちを「思いやる」人は素晴らしい。
自分の立場しか考えない人もいるが、もし相手が自分だったらということも考えたい。

磯部豊喜

みことばの花 190902「命を与える神様」

みことばの花190902「命を与える神様」

「また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。
神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、」(使徒 17:25  口語訳)

「聖書の神と他の神々との違いは何か?」と質問されたことがあります。
この質問の背後には、聖書の神もその他の神々の一つという先入観が基礎になっています。
ところで上記はキリスト教を世に広めたパウロの言葉です。
「神は、すべての人々に命を息と万物とを与え」を語っていますが、私どもに命を与えたおられる方こそ神だと呼びます。
となるとこれ以外の神々は、人間が勝手に想像した存在となる。
聖書の神は、すべての人々の存在の基となっています。
実に神様によって私の命が与えられている。
キリスト者はこのことを事実だと信じるので、この神を見上げて、この神様に祈るのです。
今日も創造主の支えがありますように。

磯部豊喜