みことばの花 181102「主の祈り(5)ーみ国」

みことばの花181102「主の祈り(5)ーみ国」

「御国がきますように。」(マタイ 6:10)

「主の祈り」では「み国を来たらせたまえ、」と祈りますが、上記は同じ内容の聖句です。「み国」とは何でしょうか。それは「神の国」であって、「永遠に続く愛と平和の世界」です。しかし人は目に見えるこの世界しか知らない。この世界には、戦争があり、殺人があり、盗人がおり、分裂があり、人は一生涯、平和な人生を送ることは難しい。つらいことのある世界ゆえ自殺者も後を絶たない。自殺をせずとも人生の終りには死が待つ。そこでキリストは「ただ、御国を求めなさい。」(ルカ12:31)と言われました。この「み国」は、愛があふれ、永遠の命と平和がある世界。ところでこの「み国」は、キリスト抜きには語れないのです。キリストは、「また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21)とも教えられました。イエス・キリストを私の心の中に受け入れる時に、「神の国」は始まります。「神の国」は、愛の広がりという空間軸と、永遠と言う時間軸が共にある豊かな世界なのです。今日も愛と永遠の神イエス・キリストを求めたい。

磯部豊喜

みことばの花 181101「主の祈り(4)ーあがめるべき方」

みことばの花181101「主の祈り(4)ーあがめるべき方」

「天にいますわれらの父よ、御名(みな)があがめられますように。」(マタイ 6:9より)

通常ささげられる「主の祈り」では、「天にまします我らの父よ、ねがくはみ名をあがめさせたまえ」が冒頭の祈りの言葉。「我らの父よ」の次は、「ねがわくはみ名をあがめさせたまえ」です。ここには崇められるべき方が、誰であるかがはっきりしています。それは「天の父のみ名」です。聖書の中に「そのみ名は聖にして、おそれおおい」(詩篇111:9)と書かれていますが、その名称は軽々しく扱ってはならないのが神様のみ名です。崇められるのは、天の神様のみ名であって、自分の名はもちろんのこと、国家の首相の名でもなければ、人気歌手や俳優の名でもありません。人を尊敬したりファンになるのはよい、でも崇めてはならないと思います。それは人であって神ではないからです。真の神は、私たちを創造されたお方。しかも愛そのもののお方です。それゆえに唯一「崇められるべきお方」。牧師であっても、親であっても、神様の位置に自分を置いてはならない。人は誰であれ創造主の前にへりくだって歩むべき存在なのです。

磯部豊喜

みことばの花 181031「主の祈り(3)ー我らの主」

みことばの花181031「主の祈り(3)ー我らの主」

「天にいますわれらの父よ、」(マタイ 6:9より)

昨日の新聞の第一面に「独メンケル氏、党首辞任へ」とあり、「21年、政界引退」とも書かれていました。その背景には、メンケル氏が行なった政策に「シリアなどから欧州に押し寄せる難民の受け入れを決め、100万人以上が入国したが、これに反発する声が強まった」とされます。今米国のトランプ氏を筆頭に「母国第一主義」という考え方を持つ人物を各国のリーダーに選ぶと言う動きが世界に見られます。上記の記事に並んで、「ブラジルのトランプが当選」との文言もありましたがこれもその一つでしょう。ところで聖書にある主の祈りの冒頭には、「天にいますわれらの主よ(天にますます我らの主よ)」」と語られています。「私の主よ」ではなく「我らの主よ」です。天の神様の目には、国境も人種もない。キリストの系図を遡(さかのぼ)ると、「…アダム、そして神に至る」とあります。これによれば全人類は、みな一人の祖先アダムから始まっており、本来はみな親戚である兄弟姉妹なのです。このようにすべての人類を結びつける思想が「主の祈り」の冒頭にあるのは考えさせられます。

磯部豊喜

みことばの花 181030「主の祈り(2)」

みことばの花181030「主の祈り(2)」

「天にまします我らの父よ、ねがくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ、みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ、我らの日用の糧を、今日もあたえたまえ。我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ。国とちからと栄えは、限りなく、なんじのものなればなり、アーメン」(マタイ6:9~15の書き換え)

これが昨日、約束しました「主の祈り」の全文です。これを私たちクリスチャンは、お祈りの後などにお題目のように唱えます。この祈りの言葉には私どもの心の中を暖かくしてくれるものがあります。ですがしばしばこの「主の祈り」についてこのようにも言われます。「主の祈りは最も祈られる祈り、されど最も祈られていない祈りでもある」。これはどういうことかといいますと、回数的には良く祈られている。ですが、心を込めて祈られていない祈りでもある可能性が高いと。この祈りの内容をよく確かめつつ、心のメモリーに入れて置くならば、きっと本当に祈られる日が来るに違いないでしょう。この祈りの中身をじっくりと瞑想してみたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 181029「主の祈り」

みことばの花181029「主の祈り」

「だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。…」(マタイ 6:9)

上記は「主の祈り」と呼ばれる祈りの冒頭の部分です。「主の祈り」は、イエス・キリストがその弟子たちに教えられた祈りです。その祈りの一文には多岐にわたって、素晴らしい祈りの内容が含まれているのでこれまで天の神様に祈ったことのない人も、これを唱えることは有意義だとされています。私の担当している千葉教会にはシャローム若葉というディ-サービス老人介護施設が併設されていますが、その職場でも毎朝、朝礼においてこの「主の祈り」が職員の皆様に唱えられています。しかし意味を本当に知って祈られてはいないかも知れません。ところで、千葉教会員のMさんが、「わたしは就寝する前に、この『主の祈り』を唱えてから眠るのです」と話をされたので、私もそれにならうことにしました。就寝前の「主の祈り」、なかなか良いものです。心が天に近づく至福の時となります。明日は、普段唱えられる「主の祈り」の全文を紹介します。

磯部豊喜

みことばの花 181028「愛を学ぶ」

みことばの花181028「愛を学ぶ」

「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」(Ⅰヨハネ 3:16

「鉄は熱いうちに打て」とあります。忘れないうちに書き留めたい。昨日、銚子に行って、素晴らしい一文を知りました。ロバート・グラウニングという英国詩人(1812-1889年)の遺された詩の一文です。タイトルは「信仰の道しるべ」となっています。そして内容は、「人生とは、喜びと悲しみ、希望と恐れより生じるすべてをもって、まさに神の愛を学ぶという賞与を得る貴い機会なのだ」。人生には、私たちの心を暖めてくれる日もあるし、心が凍えるような経験をする日がある。しかし、この明暗に包まれる人生を、よくよく吟味すると「神の愛を学ぶという賞与を得る貴い機会」となるという。詩人がこの詩を書かれた背景に、「老ヨハネが弟子たちにキリストの愛を語る場面での言葉」とありました。上記はキリストの愛を語った使徒ヨハネの言葉です。私の人生に起こるいろいろな出来事に背後に、どのような神の愛が語られているかを学習したいものです。今日も主の愛のみ顔を見つめることが出来ますように。

磯部豊喜

みことばの花 181027「気品」

みことばの花181027「気品」

「あなたは人の子らにまさって麗しく、気品がそのくちびるに注がれている。このゆえに神はとこしえにあなたを祝福された。」(詩篇 45:2)

故人になられましたが、岡田眞澄さんというとてもダンディな俳優さんがおられました。実はこの方は再婚をされ、一人の娘さんが生まれました。その岡田氏の愛娘、岡田朋峰(おかだともみ)さんが、先日ミスインターナショナル代表に選ばれたとのことです。朋峰さんが7歳の時に、父を亡くされましたが「父はどんなときにもエレガントで気品を忘れない女性であることを教えてくれました」と話しておられ、確かにそのしぐさに気品(どことなく感じられる上品さ)が漂っています。気品という言葉の反対はガサツ(動作・態度などに落ち着きがなく、丁寧さが欠ける)ということでしょう。果たして私は???(たぶん後者かも…)と自省しますが、気品のある人にはあこがれます。今日は聖なる第七日安息日、キリストから世界最高の気品を学ぶ日でありたいと思います。「キリストの気品が、わたしの生活全体に少しでも影響を与えてくださいますように…」と、祈りつつ教会へ行かせて頂きます。

磯部豊喜

みことばの花 181026「まだ生きている」

みことばの花181026「まだ生きている」

「そしてイスラエルは言った、『満足だ。わが子ヨセフがまだ生きている。わたしは死ぬ前に行って彼を見よう』」(創世記 45:28)

昨日の新聞の第一面、大きく「安田純平さん解放確認」の文字。フリージャーナリストの安田純平さん(44)は、かつてISが台頭していたシリアで2015年に武装組織に拘束されていた映像を見たことがありましたが、拘束されたのは残酷なISではなくある武装組織のグループであったようです。それにしても安田さんのご家族は、拘束されてからの40ヶ月、どんな思いで過ごしておられたのかと思うと心が痛みます。ですがご子息の無事であったとの報道に、そのご両親は「嬉しさで感激しております」とコメント。このご両親の言葉を見て、私は聖書のイスラエル(元の名はヤコブ)という人が、すでに死んでしまったと思っていた愛する息子ヨセフが「まだ生きている」との報せを知った時の様子を思い出しました。愛する人にとって、その人の命は地球の重さよりも重い。実は神の御子イエス様も私の命を重く見てくださる。イスラエルの言葉は、「永遠の命を受けよ」と言われるキリストの思いと重なっているような気がします。

磯部豊喜