みことばの花 181110「あかりと、油」

みことばの花181110「あかりと、油」

「思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。」(マタイ 25:3)

11月8日の朝日新聞の1ページです。ここに聖書の言葉が2箇所も記載されていました。一つは英文聖書を訳したのかも知れませんが、「分裂して争う家は立っていることができない」(マタイ12:25)という聖句が記載され、現在の米国の分断を描写して、昔リンカーンが演説で引いたとされる一節が書かれていました。そしてもう一つの聖句が、上記です。そこにはこんなコメントがありました。「…視界が遮られているのは、目を凝らせばある未来が確実に来ることがわかるのに、すべてを先送りにし、その対策に本気で着手できないでいるからではないのか。例えば人口減少、国家財政の破綻、経済成長の限界、放射性廃棄物処理の膠着(こうちゃく)。聖書のこの一節は私たちのそんな無様(ぶざま)も思い起こさせる。」と。今の時代は、油の欠落している時代なのでしょうか。「あかり」は人生に希望を与える神のみ言葉、油は「あかり」を心に灯す「神様の霊(聖霊)」を指しています。聖書の光は油があって正しく理解されます。今日は第七日安息日、「あかりと、油」を求めたい。

磯部豊喜

みことばの花 181109「主の祈り⑪ーなんじのものなればなり」

みことばの花181109「主の祈り⑪ーなんじのものなればなり」

「国とちからと栄えは、限りなく、なんじのものなればなり、アーメン」(「主の祈り」より)

キリストが弟子たちに教えられた「主の祈り」は、マタイによる福音書では6章9~12節に記されています。ルカによる福音書11章2~4節にもあります。ところでこれまで並行して紹介してきました定番の「主の祈り」の言葉には、マタイにもルカにも書かれてない一文が足されています。これは旧日基讃美歌564番にある。どうして聖書に記されていないこの一文が、ここにあるのか私には分かりません。ご存知の方がおられたら教えていただきたいのでありますが、この一文を添えると、「主の祈り」をささげる時に、何となくストンと落ちつくのです。「国と力と栄えは、限りなく、なんじのものなればなり、アーメン」と唱えて、「祈った~」となります。この言葉は、「すべてのものが、神様、あなたのものです!」という信仰の告白。「自分のものは、自分のものだ…」と固く主張する自分がいますが、私の命も実は神様からの預かりもの。命の与え主のものであると言えるでしょう。ですから、今日もこのような信仰の告白をもって、主をみあげて歩みたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 181108「主の祈り⑪ー悪しき者」

みことばの花181108「主の祈り⑪ー悪しき者」

「わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。」(マタイ 6:13)

上記は定番の「主の祈り」では、「我らをこころみにあわせず、悪より救いだしたまえ」となります。「悪」は「悪しき者」から出てきます。では「悪しき者」とは何者なのでしょう。聖書に聞くならば、ルシファーという天使長がいました。はじめは、聡明で欠点もなく美しい存在であったのですが、「わたしは天にのぼり、…いと高き者(神)のようになろう」などと心のうちで言ったとあります(イザヤ14:13,14参照)。そのために、彼は仲間に引き入れた天使たちと共に、地に投げ落とされたと聖書に書かれています(黙12:7~9)。地球に落とされ「悪しき者」になった彼は、人間を誘惑するように働いているという。この祈りは、この事実を前提にささげられます。「悪しき者」の仕事は、「私たち人間を試みる」ことです。そして多くの場合、彼の試みは成功を収めています。ですからこの「悪しき者」の誘惑に勝つためには、上記にように祈ることが必要です。「悪しき者」は、「高ぶり」とか「憎しみ」などのように私の心にその舞台を持っています。しかしこの祈りをささげるとき、「悪しき者」は何も出来ずに、守られます。

磯部豊喜

みことばの花 181107「ゆるす者は、ゆるされる」

みことばの花181107「ゆるす者は、ゆるされる」

「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」(マタイ 6:12)

この祈りの言葉より「主の祈り」は後半に入ります。定番の「主の祈り」では、「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」です。これまでの祈りは、神様と私と言う縦軸の祈りでしたが、人に対する横軸の祈りがささげられます。「わたしたちに負債のある者を(我らに罪を犯すものを)、ゆるしましたように(我らがゆるすごとく)」と祈ります。キリスト教がキリスト教であることの大きな特長の一つは、そこにゆるしがあることです。ある説教家の言葉を思い出します。「天国はゆるす者と、ゆるされる者が集うところだ」と。確かに、仮に私が天国に入れたとしても、もし心の中から誰かへの怨念が消えない限り、そこに天国はない。また誰から憎まれていると感じるならば、そこにも天国はない。この祈りは「神様からゆるされる」ためには「ゆるすこと」が前提となっています。ところで、私の心にゆるす力がない場合はどうしたら良いのか。「ゆるす力を、私にください」と神さまに祈り求める。その祈りを始める時に、奇跡が起きます。私の心が優しくなる。試してみませんか。

磯部豊喜

みことばの花 181106「主の祈り(9)ーもう一つの食物」

みことばの花181106「主の祈り(9)ーもう一つの食物」

「我らの日用の糧を、今日もあたえたまえ。」(マタイ6:11)

昨日、「日用の糧」すなわち「日ごとの食物」のことを書きましたが、書いている時に、私たちの身体を生かしてくれる食物以外の食物が、私の脳裏を過(よ)ぎりました。それは心の食物。キリストの有名な言葉、すなわち「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ4:4)を思い出しました。私たちは二つの食物で実は生かされています。人は口から入る食物に預かったとしても、人生が満たされるとは限りません。「衣食足りて礼節を知る」とありますが、「衣食足りて生きがいを得る」とはならない。人はやはり心が満たされる必要があります。実に神のみ言葉には、心を養う不思議な力があります。「あなたは我が目に尊く」(イザヤ43:4)と言われたり、「わたしはあなたを忘れない」(イザヤ44:21)などのみ言葉の響きに触れますと心に涙の川が流れます。ゆえに「わたしの渇いた心に、今日もみ言葉をあたえたまえ」と祈るのです。

※今千葉教会では、教会員10人による「キボウのトビラⅡ」講演会を11/4-8、11-15(毎夕18:30-19:40頃)の10日間行なっています。ご都合の良いかたはお出かけください。

磯部豊喜

みことばの花 181105「主の祈り(8)ー日ごとの食物」

みことばの花181105「主の祈り(8)ー日ごとの食物」

「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」(マタイ 6:11)

上記は定番の「主の祈り」では、「我らの日用の糧を、今日もあたえたまえ。」となっている個所です。「日用の糧」が口語訳聖書では「日ごとの食物」と訳されています。リビングバイブルには「私たちも必要は日々の食物を、今日もお与え下さい」とあります。これは分かりやすいですね。人が生きることに必要な物は「衣食住」ですが、これらはすべて物質で出来ています。これらの物質をたどるとすべて自然の中にあります。人間はすでに自然の中にあるものに細工を施して、自分の生活に便利なものを作っています。特に食物はその最たるものです。日ごとの食物…は、雨とか太陽の光とか適度な風(空気)がなければ育ちません。しかしそれらの背後に、目に見えないお方の恵みの手が添えられています。それは神様のみ手です。人が飢えて死なないように、恵みの雨、恵みの光、恵みの風(空気)を送ってくださいます。本当にありがたいことです。

※今千葉教会では、教会員10人による「キボウのトビラⅡ」講演会を11/4-8、11-15(毎夕18:30-19:40頃)の10日間行なっています。ご都合のつくかたはお出かけください。

磯部豊喜

みことばの花 181104「主の祈り(7)ーみ心が、地にも」

みことばの花181104「主の祈り(7)ーみ心が、地にも」

「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイ 6:10)

いま一つ、「みこころ」について瞑想していましょう。「神様の御心」は天国の心です。そこには聖なる愛の律法があります。神様の律法は天の住民の生活の原則。神様の御意思(お考え)を知ることは、この地上においても大切なことだと思います。天における住民(たとえば聖い天使たち)は、神様の愛の律法を、神への恐れから守るのではなく、僕としてではなく、あたかも神の子であるかのように喜んで受け止めて、その律法の精神を受け止めて奉仕します。創造主なる神様を心から尊敬しているからです。この心をもって奉仕することが、地上でも行なわれますようにと祈る。創造主の心と私の心が一つになるという祈り。「わたしはみこころを行なうことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」(詩篇40:8)といって、神を愛する、これが「主の祈り」です。神への服従は苦役とはならない。今日も神の「みこころ」を心から求めて生活したいものです。

磯部豊喜

みことばの花 181103「主の祈り(6)ーみこころ」

みことばの花181103「主の祈り(6)ーみこころ」

「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」(マタイ 6:10)

「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ、」が「主の祈り」として祈られています。ここに「みこころ」という言葉が登場します。「みこころ」とは「神様の御意思(お考え)」です。わたしはしばしば「こうあって欲しい」という願いを祈りの中で訴えます。ところがすべてが期待通りににならない場合があり、その時はガッカリします。ですが決してガッカリしないで済む「祈りのマジック」がこの短い祈りの言葉に隠されています。それが「みこころ」。神様のみ心を、常に最善だと信じる。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道3:11)とか、「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」(ヘブル12:11)とあります。今はつらくても、後に「ああ~このことの為だったのか」と分かる事があります。神様は私の人生のキャンバスにいろいろな色を配合し、最後は美しい絵を描かれる。これがきっと「神のみこころ」なのでしょう。今日は第七日安息日、神様の御心を見つめたい。

磯部豊喜