みことばの花 180615「みごと」

みことばの花180615「みごと」

「これが枝を出し、実を結び、みごとなぶどうの木となるために、わしはこれを植えた苗床から水の多い良い地に移し植えた。」(エゼキエル 17:8)

天の神様が私どもに期待していることがあるようです。それは私と言う人生のぶどうの木が、「枝を出し、実を結び、みごとなぶどうの木となる」ということです。良い地に移植して、それを願う神様の心があります。私と言うぶどうの木の置かれた環境は、私をどのように成長させてくれるでしょうか。良い地だと思える所でつまづく人があるとおもえば、反対にいやな環境だと思えるところで成長する人もいます。そう考えると、結局、成長の鍵とは人の置かれた場所というよりも、その場所で「いかに咲くか」ということなのでしょうか。「置かれた場所で咲きなさい」と語ったのは、故渡辺和子氏でしたか。しかしどうしても耐えられない時は、つぶされそうな時は、「環境も変えてください」と祈っても良いでしょう。ですが多くの場合、いやな環境を忍耐を持って過ごす時に、人は「みごと」な成長を遂げるような気がします。ところで上記の聖句は、神様に期待され良い環境に置かれたにもかかわらず、枯れてしまう者たちの姿を描いています。人生とは不思議なものです。今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花180614 「雨の日にも歌う鳥」

みことばの花180614「雨の日にも歌う鳥」

「わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。」(詩篇 34:1)

雨の日に歌う鳥はあまりいません。ところが「駒鳥」という鳥は雨の日でも歌うといいます。ある詩人はこの駒鳥を指して「駒鳥だけは雨の中でも歌ってくれる。我々も歌おう」という言葉を残しています。人生の嵐の雨を前にして歌えるでしょうか。しかしここは駒鳥をならいたいと思います。上記の聖句には「常に」「絶えない」という言葉をもって、「主をほめまつる」「さんびはわたしの口に」を彩(いろど)っています。どんな時にも、賛美する心を持つことは感情的には難しいことでしょう。ですが、それでも賛美をしたい。涙を流しつつも賛美したい。そのとき、きっと心は晴れるに違いない。今日も「神様を賛美する」ために「雨の中でも歌うために」、私の人生があることを心に刻んで過ごしたいと思います。人知を超えた主の愛が今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180613「平和の神」

みことばの花180613「平和の神」

「最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。」(Ⅱコリント13:11)

「そうすれば、平和の神があなたがたと共にいて下さる」という一文が、書かれています。「そうすれば…」というのは、これこれの条件の下で、こういうことになる…という言葉です。「平和の神」が好まれるところがあります。それは「いつも喜ぶ人」「全き者」「互いに励まし合う人々」「思いを一つにする人々」。こういう人(人々)のところへは「平和の神」が共におられるという。ところで「いつも喜ぶ人」「全き者」「互いに励まし合う人々」「思いを一つにする人々」などというと、とても難しく聞こえます。ですが「極力」とか「意識して」とか、あるいは「目指す」…という修飾語を前に添えて読むと分かりやすい。「極力、いつも喜ぶ人」「全き者を目指す人」「極力、励まし合う人々」「意識して、思いを一つにする人々」とするならば、高いハードルと思える内容もが少し低くなると思います。「平和の神」が自分のそばにいてくださる者に一歩でも近づけたら幸いです。主の恵みが今日もご家族の上にありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180612「立ち帰るために」

みことばの花180612「立ち帰るために」

「後の日になって、あなたがなやみにあい、これらのすべての事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、」(申命記 4:30)

おそらく多くの宗教は、苦しみや悲しみ、病気やすべての不幸に思えることは、生前から定まった因縁(いんねん)だからあきらめよ…と教えていると思います。ところがキリスト教は聖書の言葉を通して、苦難や試練、病とか死は、神から離れた結果であると共に、神様はそれらを通して人間本来の立ち位置に戻るように教えます。人間本来の立ち位置とは、神様と向きあって歩む生活です。上記の聖句にも「なやみ」とか「すべての事(歓迎したくない事)」は、「あなたの神、主に立ち帰る」という機会が開かれることを伝えています。悲しみや苦しみなどは皆罪の結果であるけれども、反対にそういうものを通して神は、もう一度神に立ち帰る道を用意しておられるというのです。続く聖句には「あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう。」との約束があります。悩みとか苦しみの「るつぼ」の中にも、主の優しい御顔(みかお)がある。今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

※「るつぼ」=金属をとかすのにつかう壷

みことばの花 180611「悲しみの人」

みことばの花180611「悲しみの人」

「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」(イザヤ 53:3)

今日も讃美歌を書かせていただきます。「①身に負いえぬ 悲しみは 深くうずめん ほかぞなき  はやくゆきて ほうむれよ 負いなやみし 汝(な)がおもに」、「②なさけふかき イエス君(きみ)は 汝がかなじみ 知りたもう はやくゆきて 告げまつれ こころのやみ とく晴れなん」、「③こころのやみ はれもせば なおなやめる 世のひとに はやくゆきて 知らせよや すくいぬしの みめぐみを」(旧讃美歌523番)。これは私の好きな讃美歌の一つで、かつてよく口ずさんでいました。私たちの悲しみは、どこにもって行けば良いのでしょう。悲しみを持っていく場を、持っている人は幸いです。それは「悲しみの人」(イエス・キリスト)です。誰よりも人の悲しみを知っているお方は、私どもの悲しみを理解してくださいます。悲しみに包まれるとき、このお方のもとへ告げ知らせましょう!私の悲しみは必ず癒されます。主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180610「低くされること」

みことばの花180610「低くされること」

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。」(マタイ 23:12)

讃美歌に「①主よわれをば とらえたまえ さらばわが霊(たま)は 解き放たれん わがやいばを くだきたまえ さらばわが仇(あだ)に 打ち勝つをえん」、「②わがこころは さだかならず 吹く風のごとく たえずかわる 主よみ手もて ひかせたまえ さらば直き道 ふみ行くをえん」、「③わが力は よわく乏し 暗きにさまよい 道に悩む あまつ風を おくりたまえ さらば愛の火は 内にぞ燃えん」、「④わがすべては 主のものなり 主はわがよろこび また幸なり 主よ聖霊(みたま)を 満たしたまえ さらば永遠(とこしえ)の 安きを受けん」(旧讃美歌333番、希望の讃美歌383番)。①~④のどの歌詞も心にズシンときます。人生はガラスのような海をスーと流れるように進めばどんなに良いかと思いますが、嵐があります。特に激しい嵐は心の中に襲う嵐。この嵐の意味を考えてみました。上記の聖句にあるように真に高くされるために「低くされる」嵐があるのでは…。であれば嵐も大きな役割を持っていることになります。今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180609「平和のきずな」

みことばの花180609「平和のきずな」

「平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」(エペソ 4:3)

絆(きずな)というのは素敵な言葉です。国語辞典には「断とうにも断ち切れない人の結びつき」とあります。一度、結ばれた絆は出来る限り断ち切らないようにしたいものです。夫婦の絆、親子の絆、友と友の絆…いちど築かれたものは本来とても尊いものです。浅い絆になるのか深い絆になるのかは、当人の心がけ次第でしょう。聖書には、「絆」に加えて「平和の」が加えられています。「平和の絆」を築くことができたら素晴らしいです。そのためのキーワードは、続く言葉に見られます。「聖霊による一致を守る」…換言(かんげん=他の言葉に言いかえると)すれば、「神様を生活の中心にお迎えして、心を一つにされるように努力し、互いに仲良く暮らす」となるでしょうか。神様とまず一つになること、そして人と人の間が一つになることは切り離して考えられないことだと思います。今日は第七日安息日、神様と一つになれるチャンスの日です。キリストの愛に触れて、「平和なきずな」作りの一週間生活のスタートを切りたいと思います。ハッピ、サバス!

磯部豊喜

みことばの花 180608「謙遜を求めよ!」

みことばの花180608「謙遜を求めよ!」

「すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。」(ゼパニヤ書 2:3)

「柔和と謙遜」は私の好きな言葉…と言うより、私の目標です。それは自分は柔和でもないし、謙遜でもないからです。時々胸の中でメラメラ~と何かが熱くなります、また心の隅で「○○さんよりは、ましだ」という思いをもたげる自分がいます。しかしみ言葉は、「へりくだり」「謙遜を求めよ」という。昨日の朝のこと、雨に濡れた紫陽花(あじさい)を見ました。その時、天の光が私の心に射しました。そうだ!三つの俳句が浮かびました。①重くなり 雨に咲く あじさいか(※雨のために重くなり 姿勢は低くなっても美しく咲いている あじさいに感動)。②あじさいよ 雨に濡れて オジギソウ(※雨に濡れて 頭を下げるアジサイの姿に オジギソウを思い出した)。③雨にぬれ おじぎを見せる あじさいよ(※雨は聖霊<神の霊>、この聖霊の雨に打たれ謙遜にされ、道行く者に頭をたれる、あのアジサイのごとくになりたいものだ)。どれがいいか…。読者の皆様にアンケートを取りたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 180607「悲しみ」

みことばの花180607「悲しみ」

「あなたがたはむしろ彼をゆるし、また慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます深い悲しみに沈むかも知れない。」(Ⅱコリント 2:7)

こんな詩をの中から見ました。【「わたしの せなかの からの なかには かなしみが いっぱい つまって いるのです」でんでんむしはある日「たいへんな こと」に気づく。このままではもう生きていけないと友だちに告げると、誰もが「あなたばかりじゃ ありません」と言う。みなそれぞれ悲しみを抱えるからこそ、いたわりあうこともできる。でんでんむしは「わたしは わたしの かなしみを こらえて いかなきゃ ならない」と心に決めた。童話「でんでんむしの かなしみ」から。(=2018.6.6朝日新聞1面)】「悲しみ」…は私たち人間に無縁であれば良いのですが、そうではありません。「悲しみ」のない世界があればどんなに良いことかと思います。それゆえに人の「悲しみ」を逆なでしてしまうことだけは控(ひか)えたい。上記の聖句の「ますます深い悲しみに沈むかも知れない」は心に刺さります。天来の光を受けて少し一歩進んで、どんな人に対しても「優しい人」になりたいものです。

磯部豊喜