みことばの花 180716「恵みのわざ」

みことばの花180716「恵みのわざ」

「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」(Ⅰコリント 1:28)

神様のしてくださることを「恵みのわざ」と言います。この世界で、人が何かの役割に推薦される場合、その人のもっている能力とか資質というのが問われます。しかし神様の世界ではこれとは異なっています。神は「この世の有力な者」よりも「この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれた」とあります。実に挑戦的な言葉ですが、「あえて選ばれた」とあります。これは相応(ふさわ)しいから選ぶのでなく、むしろ「相応しい者にするために」選ぶ、ということなのでしょう。私も牧師をさせていただいていますが、牧師として相応しいので選ばれたと断言出来ません。むしろ牧師として相応しくなるため、育てていただくために「あえて選ばれた」のでしょう。とはいっても、いまだに牧師の肩書きをぶら下げた、ひよっ子に過ぎませんが、これまでこの働き続けることができているのは、まさに神の「恵みのわざ」だと思うのです。

磯部豊喜

みことばの花 180715 「推薦する、されること」

みことばの花180715「推薦する、されること」

「わたしたちは、またもや、自己推薦をし始めているのだろうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた、あるいは、あなたがたからの推薦状が必要なのだろうか。」(Ⅱコリント 3:1)

社会のグループ組織の中では、ご奉仕いただく方々にある役割を推薦することがあります。例えば教会の場合は、まったくのボランティアですので、推薦作業は骨が折れる場合があります。会社であれば辞令一つでどうにでもなるのでしょうが、教会では推薦した後に、本人に承諾を得ることが必要になるからです。ところで上記のみ言葉にあるように、自己を推薦する人がいます。ですが往々にして自己推薦者は、その役割に相応(ふさわ)しくない場合もみられます。これは私自身のことですが、ある役割を推薦された場合、推薦作業をしてくださった方々の労(ねぎら)う意味で、自分はそれに相応しくないと思いつつも特別な支障がない限り一度は引き受けることにしました。そして実際に引き受けた後に、ストレスが多い場合は次回は遠慮させていただくということにしました。ただ推薦される場合は、「ふつつかな者ですが、させてください…」という謙虚な心だけは失わないようにしたいのです。今日も主の恵みがありますように。

 

磯部豊喜

みことばの花 180714「心に適う者」

みことばの花180714「心に適う者」
「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。』」(マタイ 3:17【新共同訳】)
上記の御言葉(みことば)は、イエス・キリストがバプテスマのヨハネという人からヨルダン川でバプテスマ(洗礼)を受けた時に、語られた天(神)からの御言葉です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼ばれるのは素晴らしいことです。これはイエス様に向けて言われた言葉ですが、私どもも同様の言葉を天の父から聞くことが出来ます。それは素直に神様の示された道を信仰によって歩むことです。まことに単純なことですが、神様の言葉である聖書から生き方の道を示されたならば、「なぜ?」とか「どうして?」といわずに、「主よ、お言葉ならば」と言って従うことです。そのとき「わたしの心に適う者」という声が天から聞こえてきます。今日は聖なる第七日安息日(聖なる日)、天地万物の創造の記念日です。この日も信仰をもって清く守るとき、「わたしの心に適う者」という御声が聞こえてくることでしょう。ハッピーサバス!
磯部豊喜

みことばの花 180713「よく考えてみなさい」

みことばの花180713「よく考えてみなさい」

「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。…」(Ⅰヨハネ 3:1)

「へたな考え、休むに似たり」という言葉があります。考える内容によっては、どうでもよいこと、何の意味もないものがあるかも知れません。私、磯部の考えることは、往々(おうおう)にして多くはこの部類に入るでしょう。しかしここに力強く、「よく考えてみなさい」という言葉があります。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんな愛を父から賜わったことか」を「よく考えてみなさい」。ここでいう「父」とは、天の父、私どもの神様のことです。「神はあの人を愛される…でもわたしのことは愛してくださらない」と言いたくなる時があるかも知れません。ですがここは大胆に、「神はわたしを愛してくださっている」「主はわたしを愛してくださっておられる」と繰り返し、繰り返し、自分の心に叫ぶことは良いことです。今日を生きていても良いのだよ…と言われる天の神様を見上げて今日を歩みたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 180712「悲しみの家」

みことばの花180712「悲しみの家」

「悲しみの家にはいるのは、宴会の家にはいるのにまさる。死はすべての人の終りだからである。生きている者は、これを心にとめる。」(伝道の書 7:2)

お茶の間のテレビから多くの人を笑いに導いた、笑いの伝道師「桂歌丸」さん(81)が眠りにつかれ、一昨日に行なわれた葬儀の模様が放送されていました。葬儀は多くの場合、人を泣かせるものですが、桂歌丸さんの場合は悲しませつつも笑わせる場面もあったという。かつて自分の娘さんを死地に見送ったキリスト者がいました。その葬儀の際に、この方は気が狂ったのだろうか…突然、「バンザイ!」と叫び出した。これは気が狂ったのではない。この娘さんは、生前に「イエス・キリストを救い主として信仰して亡くなった」ことに感動して彼は涙をまぶたに溜めつつも、主を見上げて「バンザイ!」と唱えたのです。この「バンザイ!」には、「また会える!」の信仰が隠されています。人はいつか死ぬ。ですが再会の希望をもって眠ることが出来たらどんなに良いことかと思う。この希望こそ、キリスト者の特権(とっけん=とくべつのけんり)であると私は信じています。

磯部豊喜

みことばの花 180711「TPO]

みことばの花180711「TPO]

「心の痛める人の前で歌をうたうのは、寒い日に着物を脱ぐようであり、また傷の上に酢をそそぐようだ。」(箴言25:20)

人を揶揄(やゆ=からかう)する言葉の一つに「あの人は空気を読めない」という言葉があります。「TPO]という言葉もそうです。これは「Time(時)・Place(場所)・Occasion(場合)」の頭文字をとった言葉ですが、本来は、時、場所、場合にかなった服装をするというファッションの関しての提案として言われたものですが、最近はマナーに対しても使われます。上記の聖句もそうでしょう。心を痛めて悲しんでいる人の前で、ハッピーな歌を歌うことは控えたい。ところで母が亡くなり父に捨てられた人の話が新聞に載っていました。この方は母方の親戚の世話になって成長したのですが、TVで見た「タイガーマスクの挿入歌(みなし児のバラード)」にとても励まされたとのこと。「あたたかい人の情けも…知らないで育った僕はみなし児さ」というフレーズが、自身の姿に重なったという。それでもタイガーマスクは、マスクを脱ぐと子供達に優しく接する。自分の心に向ける歌はいいものですね。讃美歌にもそのような心を慰める歌がたくさんあります。主の慰めが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180710「勝利の歌」

みことばの花180710「勝利の歌」

「そこでモーセとイスラエルの人々は、この歌を主にむかって歌った。彼らは歌って言った、/「主にむかってわたしは歌おう、/彼は輝かしくも勝ちを得られた、/彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた。」(出エジプト記 15:1)

現在、私が牧師をさせていただいている教会は、四つあります。千葉教会、袖ヶ浦教会、九十九里集会所、銚子聖書研究会です。そのどの教会も共通していることは、神を賛美(ほめたたえること)することが大好きだということです。ところで神を賛美する歌を聖書の中で調べましたら、上記の聖句が見つかりました。これはモーセをリーダーにイスラエルの人々がエジプト奴隷から解放されて紅海を渡った後に、追って来たエジプトの大軍が海に飲み込まれたときの勝利を歌ったものです。この勝利の歌こそが、聖書に出てくる神を賛美する最初の歌です。現在は、自然災害や人災が立て続けに起こるので、心から神を賛美する気持ちになれないことがあります。ですがこの世の闇が、消え去る時が必ず来ます。主イエス・キリストはまもなく来られます。その時、悲しみや苦しみは消え、愛と平和が訪れます。この時、神様に勝利の歌を心からささげることができるでしょう。今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180709「大雨」

みことばの花180709「大雨」

「…すべての民は神の宮の前の広場に座して、このことのため、また大雨のために震えおののいていた。」(エズラ記 10:9)

西日本一帯に記録的な豪雨が発生し、多くの方々の命が飲み込まれてしまいました。とても悲しいことです。台風が日本列島を通過する時に、必ずといってよいほど尊い命が消えてしまう。今度は猛烈な台風8号が沖縄に近づいているという。私の住む千葉では土曜日の夜、地面がかなり横に揺れました。幸いに直下型ではなかったので、災害はほとんどなかったのですが、特に千葉市に大地震が起きる確率が日本で一番大きいという。「大雨」「地震」などの自然災害は、上記のように昔からあったことが聖書をみれば分かります。これらは何を教えているのか。人間の弱さ、命のはかなさ、そして終末の足音を教えているのではと思います。人はいつ人生の終わりを迎えるか分からない。あなたの毎日が貴重だと、災害は語る。今日生かされていることが奇跡という、謙虚な思いをもって毎日を過ごすことが必要なのかも知れない。そしてまた「主よ災害のない御国を来たらせ給え」、と祈らずにはいられないのです。主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180708「断食と祈り」

みことばの花180708「断食と祈り」

「そこでわれわれは断食して、このことをわれわれの神に求めたところ、神はその願いを聞きいれられた。」(エズラ記 8:23)

昨日は777の断食祈祷日でした。わたしは2食続けての断食と祈りをさせて頂きました。昨日は九十九里の集会で講演会を行いました。九十九里へは2週続けての講演会でしたが、先週の講演会に肝心なお客様は一人もいませんでした。それで昨日の朝は、「今日は一人でもいいですから、どなたかを聖書に触れるチャンスを与えてください」と祈って出発しました。果たして、以前からの知り合いの方ですが、とても素敵なご婦人がご出席くださっていました。講演会後も、そのご婦人や数名の方々と有意義な話をすることが出来ました。断食して祈るということは、良いことです。さらに夕方、体重計で体重を量りましたが、1キロ減っていました。ここのところ腹ばかりが出つつあったのですが、少しウエストが締まったような気がします。この願いも?聞かれたのかな~と思います。時々、2食程度の断食するのも良いかも…。もちろん祈りを加えて。

磯部豊喜