みことばの花 180725「将来」

みことばの花180725「将来」

「パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。」(Ⅰコリント 3:22)

今日は朝の「みことばの花」ではなく夜の「みことばの花」になってしまいました。朝からバタバタとしてしまい落ち着いて机に座ったのが今という状況です。さて、ノスタルジーという言葉がありますが、これはフランス語で「過ぎ去った時間や時代、ふるさとを懐かしむ」という意味を持っています。私も最近、よく昔を懐かしむことがあります。「昭和のよき時代」などといって懐かしみます。そして今をチョッピリ否定的に考え、将来には憂いが漂ってしまうのです。これが年を取るということなのか、どうか…。しかしパウロが、将来という言葉を使う時は、実に前向きです。「生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのもの」と言います。確かに「過去は変えられないが、将来は変えられる」という言葉もあります。いつまでも過去にとどまるのではく、神の輝ける約束を信じ、希望の将来があることを信じて生きていくのは、大切なことだと思うのです。

磯部豊喜

みことばの花 180724「待つ」

みことばの花180724「待つ」

「この幻はなお定められたときを待ち、終りをさして急いでいる。それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。」(ハバクク 2:3)

毎日酷暑が続いています。連日「危険な暑さ」という言葉で紹介されるのは、私の記憶では初めてです。「なぜこんなに暑いのですか?」と叫びたくなりますが、信仰の言葉では「いつまでなのですか」。一昨日、大切な娘さんを亡くされたご家族に会って来ました。今年成人したばかりの夢あふれる若者。報告を聞いたときに「神様、何故なのですか?」と心の中で叫んでいる自分がいました。ですが自分の心で言い直して「神様、この悲しみはいつまでなのですか?」と今は祈っています。死もなく悲しみも叫びもない神の国を求める心を、今一度磨きたいと思いました。神様は「もしおそければ待っていなさい」と言われます。キリスト者は待つことの向こうの明日(あした)を描く民です。主の愛のみ手を離すことなく、頓挫(とんざ)することなく信仰でつながって行きたいと思います。今日も主のみ手の導きがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180723「希望」

みことばの花180723「希望」

「その日、人は言う、『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう』と。」(イザヤ 25:9)

聖書は希望の書です。なぜかというと、私たちにとってもっとも悲惨な罪とその結果である死から全く解放されることが約束されているからです。それはキリストの十字架と再臨です。十字架は、「わたしはあなたの罪を許している」という宣言です。そして再臨は、十字架でなされた宣言を、心から受け入れる人に新しい命が与えられる希望の出来事です。十字架は信じる者への「永遠の命」の保証、再臨は完全な救いの時と言って良いでしょう。私たちの神は愛の神、希望の神です。上記の御言葉は、キリストの再臨を待ち望む人々が、キリストがこられる時に叫ぶとされている喜びの表現です。共に、主を見上げてこの喜びの中に加わっていただきたいと願っています。主の限りなく愛と守りとが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180722「賜物」

みことばの花180722「賜物」

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ 6:23)

聖書の教えの中で一番おそろしいもの、それは「罪」です。罪とは命の主である神様と関係が壊れている状態です。そして「罪の支払う報酬は死」。無知なために神を愛の神として受け止められない人がいます。しかし間違いなく神は愛です。この世界にはあまりにも悲惨なことが多すぎます。それで「神は愛ではない。神が愛ならばどうしてこんな悲惨なことが起こるのか」とその愛を疑うのです。ですが神様の愛はすでに証明されています。それは愛する独り子を、罪を犯した地球に遣わしてくださった。しかも御子キリストが十字架にまでかかって死んでくださった。この神の賜物(プレゼント)なるキリストを私の救い主であると信じ受けとめる時に、私に永遠の命が始まります。これは約束です。今日もこの神様の愛の約束をしっかりと受け止めて過ごしたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 180721「安息の後に復活がある」

みことばの花180721「安息の後に復活がある」

「そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。」(ルカ 23:56)

イエス・キリストを信じていた人々の行動がここに描かれています。その日は、彼らにとっても心の重い金曜日でした。愛する主が十字架にかかって眠りにつかれたからです。主が亡くなられて迎えた日が、第七日安息日(今日の金曜日の日没)。これまでの神様を賛美して過ごした安息日に比べると、これほど暗く悲しい安息日はあったでしょうか。ところがこの安息日直後の週のはじめの日(日曜日)の朝に何が起きたか。人生の常識を覆す、驚くべき出来事が起きました。それは主の復活です。安息日は、深い意味において、人生をストップする日です。そして人生をストップした次の日に、新しい人生が始まります。それは復活の日です。安息日に主の十字架の恵みを体験した後、復活の恵みが用意されている日。安息日には、人生の重荷を神様におまかせしましょう。それらはそこで死ぬのです。死ぬので復活がある。死と復活のパックが、「安息の後に復活がある」…という恵み。この主の恵みに触れて第七日を過ごしたいと思います。ハッピ・サバス!

磯部豊喜

みことばの花 180720「信仰は前に進むこと」

みことばの花180720「信仰は前に進むこと」

「もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。」(ヘブル 11:15)

旧約聖書の創世記の中に後ろを振り返ったために、塩の柱になったロトの妻の話があります。身体は前に進んでいるのに、心は滅亡の町ソドムに残っていた女性の悲しい末路が描かれています。これとは正反対の進み方をした人がいます。それはアブラハムという人です。アブラハムは親族のいるカルデアのウル(現在のイラクにあった町)から神様の示されるまま、遠いカナン(主として現在のイスラエル)まで歩を進めました。以来、彼は一度もふるさとに戻っていません。慣れ親しんだ土地を離れるのは、勇気のいることです。しかし彼は、未知の地でしたが、神の示された土地を目指しました。これは彼の心の土地にも言えることです。信仰とは神様の愛と教えの道に従っていくことです。そして従ったら、後戻りはしない。そのような生き方によって、アブラハムは「神の友」(ヤコブ2:23)と呼ばれるまでになったのは実に教訓的な気がします。「手をすき(鋤)にかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」(ルカ9:62)ともあります。今日も主の導きがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 180719「猛暑」

みことばの花180719「猛暑」

「第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。」(黙示録16:8)

「今年の夏は例年よりも暑いかもしれない」と私は予想していました。なぜかというと、今年の冬は、とても寒かったからです。「極寒の冬の後には、猛暑がやってくる」という過去の事例があります。先ほどラジオで「命に危険な暑さなので、気をつけましょう!」との言葉が聞かれました。昨日、岐阜では40℃を越えたといいます。この猛暑を思っていましたら上記の黙示録にある聖句が浮かびました。これは終末的な出来事の予告の一つです。「太陽は火で人々を焼くことを許された」とある。このような出来事をどのように解釈するのか。「人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった」と続きます(9節)。人は苦しくなると神様のせいにしたくなります。しかし災害をもたらす原因は、自然破壊を進める人間が作り出しているのかも知れません。苦しい時、いかに生きるかで人の立っている位置が分かるという。人生の猛暑の中にあっても主の恵みがあることを覚えて過ごしたいと思います。

磯部豊喜

 

みことばの花 180718「しない道」

みことばの花180718「しない道」

「それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。」(マタイ 26:53)

ある能力を持っている人が、それをしない場合には忍耐が必要です。たとえば、子供の成長のために、その子が出来るまで待つということは、簡単に出来る親にとって我慢が必要。ところで、ご生涯の中で30近い奇跡を行なわれたキリストには、人知を超えてお出来になることがたくさんありました。ところがキリストがご自分の行動を制限された一つが上記の中に見られます。次の御言葉が続きます。「しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」(54節)。キリストはご自分の能力を現すことをあえて控え、天の父の御心を果たすことを選ばれました。それは一途に十字架の道に進むこと。そのために何もせず、沈黙の道を選ばれました。キリストは自分自身を救う力があったのですが、その道を選ばなかった。なぜでしょうか?罪人を救う唯一の道を開くためです。「する」も、「しない」も常に隣人の祝福のため。これが私の行動の動機となれば素晴らしいと思うのです。

磯部豊喜

みことばの花 180717「雲りの日に」

みことばの花180717「雲りの日に」

「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照し、昼も夜も彼らを進み行かせられた。」(出エジプト記 13:21)

「曇り」と聞くとどんな気持ちになるでしょうか。曇りという言葉は「心がどんより曇る」とか「顔が曇った」とか、あまり良い表現で使われません。ところで暑い毎日が続く中、今朝はとても涼しい風が吹いていました。あたりを見回すと、雲一面の空、いわゆる「曇り空」です。雲の下を通り抜ける涼しき風に吹かれて、「何と気持ちの良いことか」と感動しました。ところで雲の柱によって神様がイスラエルの人々を導いたという記録が聖書にあります。馬が走るエジプト軍が迫っている中、神は徒歩で女子供を含んで進むイスラエルの人々を昼は雲の柱、夜は火の柱で彼らを導き守られたという記録です。それにしても「西日本の豪雨被災地の酷暑の中にも雲を送ってください」と祈らずにいられない、そういう思いにさせられました。主の守りが、今日も特に被災地の方々やボランティアの方々の上にありますように。悲しみの中にある人々に、少しでも涼しき風が吹きますように…。

磯部豊喜