みことばの花 180806「夾竹桃(きょうちくとう)」

みことばの花180806「夾竹桃(きょうちくとう)」

「モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。」(民数記 21:9)

一昨日土曜日、私の担当することになった袖ヶ浦教会へ行きました。その教会に赤と白の花が置かれていました。その花の名は「夾竹桃(きょうちくとう)」。この花はあの広島の原爆の後にも生き抜いて最初に花を咲かせたという。この花を調べてみました。たしかに「排気ガスなど公害に強い花」だと書かれていました。この花の原産地はインド。しかし強い毒性があることに由来して、「油断大敵」「危険な愛」「用心」という花言葉もあるとのことです。しかしこの漢字を良く見ると「夾竹桃」の「夾」は、十字架のキリストが描かれた文字に見える。十字架を中心に人が三人磔付けられています。そういえばキリストは上記のみ言葉にあるように、ご自身は全く清らかで罪なきお方でしたのに、青銅のへびに代表されるお方として人の罪を背負って死なれました。人の罪(死に至る病)を背負ってのろいを受けて死なれた。そして夾竹桃のように復活し、命の花を咲かせました。このキリストを信仰をもって仰いで見上げる人は、死から命へ移ることができるのです。確実な約束です。

磯部豊喜

みことばの花 180805「ロートルⅡ」

みことばの花180805「ロートルⅡ」

「『神がこう仰せになる。終りの時には、/わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、/若者たちは幻を見、/老人たちは夢を見るであろう。」(使徒 2:17)

昨日の続きです。PFCキャンプで見た夢、それは5つほど。一つは、「ダニ」の夢。このダニは夢の中でどんなにつぶそうとしても頑丈で生きているのです。二つは足の先に「タワシ」が足の裏に触るのです。蹴ってみたくなりましたが、ストップして起きました。するとなんと反対側に寝ていた若者が180度向きを変え、頭をこちらへ向けて眠っていた。ああ、蹴飛ばさなくて良かった。三つ目の夢は、講演会の準備中の夢。あと30分しかないというのに買い物に行った。そして帰ろうと車に戻ると、何と車はありましたが中のシートがごっそり誰かに盗まれている。椅子なし車でも運転して会場に戻る途中で目覚めた。四つ目は、人の庭に入って、小水をばら撒く自分の姿。だれもいないと思っていたら、目の前の道路に人影が。急いで途中で止めた。目を覚ましてトイレに直行。夢を見る人を聖書は老人(ロートル)のしるしという。しかし唯一、まともな夢もありました。それはイエス・キリストの再臨の夢。キリストの再臨の日に、人は死から甦り、永遠の世界に招かれるのです。これは確かな確かな夢でした。

 

磯部豊喜

みことばの花 180804「ロートル」

みことばの花180804「ロートル」

「『神がこう仰せになる。終りの時には、/わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、/若者たちは幻を見、/老人たちは夢を見るであろう。」(使徒 2:17)

7月30日~8月3日までの5日間、私の管轄下にある九十九里教会の子供たちを引率して、全国PFCキャンポリー(教会内での子供育成クラブ)に参加して来ました。今回の参加者(約130人)の中で高齢者の順でいくと、私はどうやら6番目。プログラムの中で登山があり、これに参加した人の中では3番目。かつてロートルという言葉が流行りましたが、そのグループの中で年長の人を指しているとばかり思っていましたが、調べますとこの言葉は中国語で「老人」を指すとのこと。気持ちは万年青年。ですが引退会見の故千代の富士関ではありませんが、今回登山をしてつくづく「体力の限界!」を悟らされました。ついでに期間中、見ているものは「夢」ばかり。そういえば聖書に「老人たちは夢を見る」とあります。やはり正真正銘のロートルなのか。しかし「わたしの霊をすべての人に注ごう」との約束もある。ここに希望を持って、今日の聖なる第七日安息日を過ごしたいと思います。ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 180730「パウロよ、恐れるな」

みことばの花180730「パウロよ、恐れるな」

「『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』。」(使徒 27:24)

ユーラクロン台風は、船に乗っている者たちにとって命をさらわれるような厳しい状況をもたらしました。この船は、パウロの「出港をしないほうがいい」という忠告を聞き入れなかったために危害を被(こうむ)ったのです。それでもパウロは、「元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失なうものは、ひとりもないであろう。」と断言します。昨晩に、彼の仕えている神様が天使を送って「パウロよ、恐れるな。あなたはカイザル(当時のローマ皇帝)の前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている」という声をパウロは聞いていたからです。果たして、このパウロの言葉のとおりになります。後にパウロは殉教死することになりますが、この場面で彼は死ぬことはありませんでした。彼はローマ皇帝の前で、主を証する前に眠ることは許されていなかったのです。今日も主のみこころがなりますように。

磯部豊喜

みことばの花 180729「ユーラクロン」

みことばの花180729「ユーラクロン」

「すると間もなく、ユーラクロンと呼ばれる暴風が、島から吹きおろしてきた。」(使徒 27:14)

先の台風8号は、日本に豪雨災害と言う甚大な被害をもたらしました。まだ復興行き届かない中、今後は台風12号。関東直撃との情報がありましたが西側に曲がり、東海地方へ。関東方面から西側に曲がる台風はこれまで見たことがありません。1951年よりの観測では初めてのことだそうです。今は大阪あたりを走っているのではと思います。12号で再び人命が失われないように今度は真剣に祈っています。聖書の中には、「有楽町」に似ている名で「ユーラクロン」という名の台風が登場します。これは、パウロが囚人として護送されるローマ行きの船に乗っている時に出会った台風でした。船は帆をおろして流されるままになります。「幾日ものあいだ、太陽も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、わたしたちの助かる最後の望みのなくなった」(使徒27:20)とルカは書いています。この有様の続きは、後に配信する予定の「みことばの花」をお読み下さい。

磯部豊喜

みことばの花 180728「心という容量」

みことばの花180728「心という容量」

「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。」(ルカ 5:38)

温故知新(おんこちしん)という言葉があります。「故(ふる)きを温(たず)ねて新(あたら)しきを知(し)る」、または「故(ふる)きを温(あたた)めて新(あたら)しきを知(し)る」と訓読する。これは孔子の論語にある名言だそうですが、いまひとつ分かりにくい。ところで上記はキリストの残された名言の一つ。新しいぶどう酒(発酵していない酒=ぶどうジュース)は、空気に触れるとやがて発酵します。そうなると弾力のない古い皮袋では、発酵する力に耐えられずに、パ~ン!と音を立てて破れる。ですから新しいぶどう酒は、弾力のある新しい皮袋へ入れるのがベストだという。同じように、真理の言葉も人の心に入るとパ~ン!とはじけるほどの力があります。これを受け止めるには、古く凝り固まった狭い心では耐えられない。新しい柔軟な心を持つことが大切です。今日は第七日安息日、これもただ掟(おきて)だから守る…から、さらに進んで、神を愛するので守る…となって行く(ヤコブ2:8、一ヨハネ5:3参照)。常に「心という容量」を柔らかく広げたいものです。ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 180727「そのとき、…逃げよ」

みことばの花180727「そのとき、…逃げよ」

「そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。市中にいる者は、そこから出て行くがよい。また、いなかにいる者は市内にはいってはいけない。」(ルカ 21:21)

次のような一文を見ました。「人間は自分が予期しない災害などに遭遇した際に、まさか自分がそんなことにあうわけがない、自分は大丈夫だろうと、それを無視したり軽視したりする心理があります。これは『正常性バイアス』というもので、心の安定を図るために大切なものです。『バイアス』とは偏見や先入観といった意味ですが、この心理的メカニズムがなければ、一々些細な事柄に過剰反応して心が持ちません。ただ大きな災害に遭遇した際には、逆にそのメカニズムのために逃げ遅れるということにもなりかねません。正常性バイアスの一番の問題は、行動しないで逃げ遅れてしまうことです。この対策・対処法としては、普段から手順を決めておいて、その訓練をすることが大切です」。この度の西日本豪雨災害にあって家々は被害を受けましたが、全員無事であった村落がありました。村落のリーダーの方は東日本大震災体験者で四国へ移った後、その村落で災害訓練を導いていました。やはり備えに勝るものはないようです。

磯部豊喜

みことばの花 180726「尊い人」

みことばの花180726「尊い人」

「愚かな者は、もはや尊い人と呼ばれることなく、悪人はもはや、りっぱな人と言われることはない。」(イザヤ 32:5)

上記の言葉をもっと分かりやすく描いている別の訳があります。「その時には、神様を敬わない無神論者は、決して英雄になれません。たとい金持ちでも、人をだます者は、りっぱな人と呼ばれません」(リビングバイブル)。「愚かな者」を「無神論者」と訳す。これは聖書の別の箇所で「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」(詩篇14:1)とあるからでしょう。また「悪人」を「人をだます者」と替えています。「彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、善を行う者はない」(詩篇14:1)とある。そうなると上記の「尊い人」とはどういう人のことになるのでしょう。「神様を敬う人」となる。愛の神様を「神として持っている人」は、結果として「善を行なう者」になることでしょう。そしてこのような人は、単なるご利益的な生き方もしない。どんなにマイナスの出来事がやってきても、神をのろうことをしない。それでも神様の最善を信じて神を賛美します。…私も、そういう人に少しでも近づけたら幸いだと願うのです。主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜