みことばの花 210312「春風、秋霜」

みことばの花 210312「春風、秋霜」

「しかるに、隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか。」(ヤコブ 4:12 口語訳)

幕末の儒学者、佐藤一斎(さとういっさい)の言葉に「春風(しゅんぷう)をもって人に接し、秋霜(しゅうそう)をもって自ら粛(つつし)む」というのがあります。
「春風接人、秋霜自粛」とも書きます。この意味は「人に対しては春風のように優しく爽やかに接し、自分自身に対しては秋の霜のように厳しく行動をただす」という。
「厳しく追及他人の誤ち、笑って過ごす自分の過ち」とは正反対です。果たして私はどうか…と自問。最近の春風は、花粉が混じって息苦しい。
ですが他者に対し花粉(息苦しさ)のない真に優しい春風を届けたい、そして同時に秋霜のように厳しく自己を見つめる、そういう人になりたいと思う。
今朝、上記の御言葉を眺めてそのように教えられた気がします。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜
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3月13日(土)ライブ配信 URL です。
安息日学校 URL 3月13日(土)10:00 聖書の学び(わが民を慰めよ)第11課「行動する愛」渡邊邦男(千葉教会長老)
https://youtu.be/hljK2hNlS0g
礼拝説教  URL 3月13日(土) 11:00 説教題「イエスのたとえに見る神の愛」金田寛子(千葉教会長老)
https://youtu.be/2UeWGFpPEKU

 

みことばの花 210311「あれから10年」

みことばの花 210311「あれから10年」

「あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。
あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。」(黙示録2:10 口語訳)

今日は2021年3月11日。だとすると10年前は東日本大震災のあった2011年3月11日になります。
あの日、私はこれから行く予定の大岡山教会において大岡山教会を去る荷物の中にいました。
今年は大岡山教会に異動するために東京の自宅に戻る荷物の中にいます。
あれから丁度10年が経っていて、この人生の流れは不思議なものを感じます。
上記聖句は十日の間の苦難のことが書かれていますが、これは黙示録の預言ですから、10日は10年に置きかて解釈することもできます。
10年は長いようで短いと思います。長かろうが短かろうが、大切なことは「忠実」に生きること。今日という日、忠実に誠実に生きる。
主はそのような人に「いのちの冠」を与えてくださるということを覚えたいのです。

磯部豊喜

みことばの花 2103010「別れ」

みことばの花 2103010「別れ」

「さてパウロは、なお幾日ものあいだ滞在した後、兄弟たちに別れを告げて、シリヤへ向け出帆した。プリスキラとアクラも同行した。」(使徒 18:18 口語訳) 

別れは出会いのはじめ、出会いは別れのはじめ、というのは真実だと思います。
先月、辞令を頂きボランティア牧師の継続と異動が決まり、私は慣れ親しんだ千葉教会を離れ、東京(自宅)に戻り、大田区にある大岡山教会に通うことになりました。
上記はパウロの宣教旅行での一コマ。「別れを告げる」点では同じです。
私の場合の同行者は妻です。引っ越し日は来週の水曜日となり一週間後。ですが3月20日、27日の安息日は東京から千葉へ通います。
私は新しい出会いが好きです。大切な人が増えるからです。しかし出会いは別れの始まり。
ですが、この地上で築かれた絆は最終的には天国へ持ち越されます。
ここにキリスト者の喜びがあります。

磯部豊喜

みことばの花 210309「先取信仰」

みことばの花 210309「先取信仰」

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル 11:1 口語訳) 

「まだ事が起きていないのに、あたかもそのようになると確信し振る舞う」ことを先取信仰(さきどりしんこう)と言います。
先取信仰は、私どもの人生を送る上で人生を明るくします。事実、本当に結果も良い。ですが、自分の人生を暗くする先取もあります。
それは「まだそうなると確定したわけではないのに、あたかもそうなるかのように悲観的想定をして振る舞う」。
こういうのは、別名、「取り越し苦労」とも呼びます。まだ悲しい出来事が起きてはいないのに、あたかもそうなるに違いないと思い込み(信じ込み)悩む。
これも信心という点では似ていますが、まったく正反対の生き方。果たして私はどちらの信心を選ぶ傾向があるでしょう。
「先取信仰」か「取り越し苦労信仰」か。私は前者を選んだ方が良いと考えています。
少なくともキリスト信仰は「先取信仰」を助けてくれます。
神の愛と最善を信じるからです。

磯部豊喜

みことばの花 210308「感動」

みことばの花 210308「感動」

「祭司長、律法学者たちはこれを聞いて、どうかしてイエスを殺そうと計った。彼らは、群衆がみなその教に感動していたので、イエスを恐れていたからである」(マルコ 11:18 口語訳)

人はどういうときに感動するのでしょう。
予想していたことのレベルを超えていること、あるいは予想もしていなかった出来事に触れたり味わう時に感動するのではないかと思います。
私はかつて自暴自棄に陥っていた時がありました。
自分は実に罪深く、とてつもなく悪い人間だ…と心が落ち込んだことがありました(今でも自分の至らなさに落ち込むことはある…)。
そのような時、「あなたの罪は赦されているよ」という主の御声に触れました。そのときとても感動しました。
「えっ、こんな私でも…ですか」。その日以来、キリストが大好きになりました。
上記はイエスの教えのすばらしさを語っている場面です。キリストの教えは温かく、心を開いて聞く人を感動させます。
キリストの御言葉は愛の言葉、どうぞ主の愛の言葉に触れ続けてください。
主の愛が今日も迫ってきますように。

磯部豊喜

みことばの花 210307「自分の目」

みことばの花 210307「自分の目」

「人の道は自分の目には正しく見える、しかし主は人の心をはかられる。」(箴言 21:2口語訳) 

みことばの花210307「自分の目」
「人の道は自分の目には正しく見える、しかし主は人の心をはかられる。」(箴言 21:2)
最近、私は足をいろいろな所へぶつけて「痛っ」と悲鳴をあげることしばしばです。
七十路が近くなってきているからであろうか・・・などと考えたりもしますが、結局、これは自分の目測ミスに他ならない。
「この足の運びで大丈夫」という感覚と実際が異なっているのです。
さて、この私の目測の誤りは、人生の道についてもいえるかも知れません。
例えば聖書はこれこれ言っているけれど、私はこう考える。このような自分の目は、人生の道を踏み外す可能性が大きい。
私はこう思うけれど、「まずは神の言葉に聞いてみよう、従ってみよう」と選択したい。そうすれば人生の道は必ず開けるに違いない。
「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6 口語訳)と主は言われました。
主の道は何ですか?と今日も、祈りつつスタートしたいのです。

磯部豊喜

みことばの花 210306「神の忍耐」

みことばの花 210306「神の忍耐」

「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。
ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(Ⅱペテロ 3:9 口語訳)

キリストは「わたしは来る」と言われてから二千年もの期間が過ぎました。その理由は一つ。「ひとりも滅びることがなく」のためです。
ですが現実は滅びる人が多い。私は古い讃美歌の次の一節を思います。
「なさけ知らぬ罪びとの、心にもやどるなり、母のおもわ、神の愛、ここにこそ救いあれ。ひとりだにも滅ぶるは、みむねならじ、たすけよ。」
今日の安息日説教題は「母のおもわ神の愛」としました。
ハッピーサバス!
磯部豊喜

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本日、3月06日(土)ライブ配信 URLです。
安息日学校 URL 3月06日(土)10:00 聖書の学び(わが民を慰めよ)第10課「『信じえないこと』を行う」磯部豊喜
https://youtu.be/yEu2esCqAWU
礼拝説教  URL 3月06日(土) 11:00 説教題「母のおもわ神の愛」磯部豊喜
https://youtu.be/ylzDzcA0GvU

みことばの花 210305「メラの水」

みことばの花 210305「メラの水」

「彼らはメラに着いたが、メラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、その所の名はメラと呼ばれた。」(出エジプト15:23 口語訳)

新聞に新型コロナウイルスに感染して嗅覚・味覚障害が起きた人の姿が記載されていました。
目を閉じて食べると「ピザかパスタかパンかわからない」。この程度ならまだしも「コーヒーはガソリン、肉は金属のような味がする。
さらに排泄物は良い香り、水道水は臭くてシャワーを浴びるのが嫌になる」。嗅覚・味覚は大切です。
さて上記はメラ(新共同訳聖書ではマラ)の水のことが記されています。「メラの水は苦くて飲むことができなかった」とある。
はじめは名のない場所。水が苦い場所だったのでメラ(苦い)と名づけられた。
これがもし新型コロナの人がこの水を味わったらどうなる?蜂蜜のように感じて飲んだら、腹痛を起こしかねない。
この話は、人々の叫びを受けたモーセの祈りに応えて、神が示された一本の木をそこに投げ込むと「甘くなった」という。
この一本の木は、神の憐れみを表徴する。苦い人生を甘い人生に変える力を持った神の愛を教えているのです。

磯部豊喜

みことばの花 210304「何が大切か」 

みことばの花 210304「何が大切か」 

「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。」(ローマ 10:1 口語訳)

上記の御言葉に続き、この聖書の著者パウロは「わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、
その熱心は深い知識によるものではない。」と書いています。
「熱心」という言葉は魅力的な言葉ですが、熱心は度を越すと真に大切なものを見失うことがあります。
サインズ誌に、健康志向に目覚めた著者の失敗談が書かれていました。
健康に熱心ゆえ、家族に「あれは健康にだめ、これは身体に悪い」と熱心に講じていた著者。
その勢いに押されて、夫も子供たちの顔からも笑顔が消えていったという。
著者はその様子をみて、自分の押し売り熱心さの問題点にハタと気づいたという。
自分が本当に望んでいたのは、家族の笑顔を見たかったはずなのだ。
しかし「こうあらねばならない」と押し付けて、大切なものが抜けてしまっていた…と。
自分の熱心以上に大切なものがある。
上記の聖句では「彼らが救われること」。
一番大切なことは何かを見極める知識を得たいものです。

磯部豊喜

みことばの花 210303「恥ずかしい」

みことばの花 210303「恥ずかしい」

「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。」(創世記2:25 口語訳)

つい先日、BS配線をすることでテレビよりユーチューブを見ることができることを知りました。
これをいじっている時のこと、何とその画像の中で忽然と私の動画が現れました。とてもびっくりしました。
そして恥ずかしい気持ちになりましたが、それは礼拝説教のライブ配信で、説教題は「私は夢をみる」。
ライブ放送を始めた初期の頃のものでしたので、カメラの位置も顔に近く、
しかも緊張丸出しの「下手くそ説教(内容こそはそんなに悪くないと思いましたが…)」。もはや映ってしまっているのは仕方がない。
腹をくくり、この未熟なメッセージを通してでも、これを開いて視聴された方が聖書に触れて頂くきっかけにでもなれば良し…と思えるようになりました。
さて上記は、人類祖先アダムとエバが罪を犯していない時の様子を描いています。
純粋無垢な二人は、「恥ずかしいとは思わなかった」とあります。
罪のない姿とは、この時のアダムとエバのように「恥ずかしいとは思わなかった」姿なのでしょう。
恥ずかしくない生き方が出来たならば、素晴らしいことだと思います。

磯部豊喜