みことばの花210322「新しく造られる」

みことばの花210322「新しく造られる」

「割礼のあるなしは問題ではなく、ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。」(ガラテヤ 6:15 口語訳)

人間というものは、何事につけ自分を変えることが難しい存在だと思います。自分のスタイルが一番だと思い込んでしまうからです。
古いスタイルに慣れてしまうと、新しいものがなかなか入ってきません。
そこでこれは自分に向けて語るのですが、「最近の若いもんが…」と口には言わなくても、態度で示すようであれば、自分は古き時代の人間になってしまいます。聖書を別の角度から眺めてみますと、実に「新しい天と地を見た」とか「古いものは過ぎ去った、見よすべてが新しくなった」という言葉が目に飛び込んできます。
「新しい」ことに挑戦しなさい…と語っているかのようです。この度、引っ越しの準備をする中で、古いシステムを捨てることの難しさを実感しました。
いつまでも古い物を持ち歩く自分がいます。ですが新しいものにも慣れなくては感じました。
さて、今日の聖句も「新しく造られることこそ、重要」(これは物ではなく、者ですが…)との聖句は私の心に重く響くのです。

磯部豊喜

みことばの花 210321「導かれるままに」

みことばの花 210321「導かれるままに」

「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」。」(マルコ 14:36 口語訳)

「導かれるままに」というのは、私の好きな言葉の一つです。
勿論、悲しいことに私も欲?のある人間ですから、あっちへ行きたい、こういう道に進みたいという願望はないと言えばウソになります。
千葉教会には、あと1、2年はいたいと言う願望がありました。ですが昨年末にそうではない道が示されました。
そして自宅のある東京へ戻ることになったのです。完全引退かボランティア牧師かの選択もありました。これは教区長先生の選択にゆだねました。
その結果、大岡山教会(3度目)に行くようにとの連絡を受けました。
牧師が同じ教会へ3度も赴任するなどこれまで聞いたことがありません。2度でも稀有な話。主の祈りの言葉を思い出しました。
「わたしの思いではなく、みこころのままに」、この祈りに倣いたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 210320「想えば懐かし」

みことばの花 210320「想えば懐かし」

「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ 13:34 口語訳)

昨日「想えば懐かし」の事を書きましたが、次がその詩です。元歌は「仰げば尊し」(作者不詳)ですが、この美しい曲を讃美歌にしました。
「1.想えば懐かし、主イエスの声、敵をも愛せと 教えられた やさしき御顔に ひかり溢れ 世界に伝えよ 永遠(とわ)のいのち」
「2.互いに愛せと 主は言われた 別れる時には また来ますと その日が来るまで 愛に励め 世界に伝えよ 永遠のいのち」
「3.闇夜をみあげて 主は祈られ 血の汗流して 心そそぎ あなたも一緒に 祈りささげ 世界に伝えよ 永遠のいのち」。
2番は上記の聖句から。口ずさんでみませんか。

ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 210319「三育」

みことばの花 210319「三育」

「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、
わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。」(Ⅰテサロニケ 5:23 口語訳)

私どもの教会の教育機関は「知育・徳育・体育」の三育(さんいく)と呼ばれます。今日は3月19日ですからまさに三育(3・1・9)の日。
昨年、茨城県の北浦三育中学校が千葉県に移転し三育学院中学校と名称を改め、去る3月14日に第一回目の卒業式が行われました。
ネットで視聴し、私も感動の涙を共有しました。三育教育の教師や生徒さんたちは素晴らしいの一言。
上記聖句は、「霊・心・からだ」を育てるススメ。「
霊」は神に対する知識、「心」は人を愛する徳の心、「からだ」は良き奉仕者となるための体作りと読めます。まさに三育教育に通じる。
今回の卒業式では、「まらなたプロジェクトチーム」で制作したCD3「星の砂漠」の中にある、私の賛美作詞「想えば懐かし」(元歌:仰げば尊し)を中学生が賛美してくださったことも感謝でした。

磯部豊喜
・・・・・・・
3月20日(土)ライブ配信 URL を送ります。
安息日学校 URL 3月20日(土)10:00 聖書の学び(イザヤ書―わが民をなぐさめよ)第12課「諸国民の願い」磯部豊喜
https://youtu.be/tpxmPT5fd3s
礼拝説教  URL 3月20日(土) 11:00 説教題「ゆだねる」磯部豊喜
https://youtu.be/-8af2iGTJrY

みことばの花 210318「アブラハムの引越し」

みことばの花 210318「アブラハムの引越し」

「テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、
ハランに着いてそこに住んだ。」(創世記 11:31 口語訳) 

私の調べたところ、アブラハムの引越しは次のようです。
カルデヤのウルより出発、ハラン、カナンのシケム、ベテルの東の山、ネゲブ、飢饉でエジプトに寄留、再びネゲブ、ベテルの東の山、
ヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわら、ネゲブのカデシとシュルの間(ゲラル)、
ベエルシバ、ヘブロンのキリアテ・アルバ(妻サラの死、ケトラと再婚、彼もここで死ぬ)。
アブラハムは、神に導かれ東の国(カルデヤのウル)を出立し、カナンの地方を歩き回り、最後はヘブロン(これまで12か所)で亡くなった。
その旅の初めはウルからハランでした。しかしハランで最初のつまづき。カナンが神に示された地でしたが、父テラはそこで定住しここで亡くなった。
これをハラン信者という。アブラハムにとってこの世は寄留地。しかし寄留地が定住地になってしまうことの戒めとしてハラン信者と呼ぶ。
私の人生の目指す地はどこでしょうか。

磯部豊喜

みことばの花 210317「完成者」

みことばの花 210317「完成者」

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」(ヘブル 12:2 口語訳) 

時々、「自分の心は自分できれいにする以外にない」と考えます。ですが今日、引っ越しを直前にして考えました。引っ越しには業者を依頼します。
その道のプロです。ド素人の私よりも、手際よくきれいに片づけてくださることでしょう。
今日私のできることは、このプロの手さばきをただ仰ぎ見ること。これは上記の聖句にとても良く似ています。
人の心の中の片づけをしてくださるプロはイエス・キリスト。そうです、イエスという名の「人の心の整理整頓をしてくださる方」がおられる。
聖書はこのお方が「信仰の導き手であり、完成者」であると書いています。
ゆえに私自身の心を変える時の私の役割は、十字架の上のイエスをひらすらに仰ぎ見つつ、走ることなのだと思います。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210316「掃除したはず?」

みことばの花 210316「掃除したはず?」

「帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。」(ルカ 11:25 口語訳)

いよいよ明日引越しです。そこでまた掃除の話。今日が正念場です。狭いところから広い所へ越すのは楽。
ですが今回は広いところから狭い場所へ越します。そこで苦慮します。ガンジーの持ち物は身の回り程度だと言います。
またイエス様の持ち物は服さえもはぎ取られたのでもっと少ない。私はと言えば、やはり荷物は多い。
ところで上記聖句は、掃除の話です。この家は、人の心をたとえている。自分の心掃除を試みることは良いのですが、なぜだかその心の家には、自分以上に悪い霊が入って中に住み込むので、その人の状態は悪くなったという。
これは人の心の掃除は自分では本当はできないことを教えているのだと思います。
人の心はきれいにしたと思っていても、すぐにゴミが舞い戻ってきて汚くなります。
人の心を真に美しく掃除できるのは神(キリスト)以外にない…ということをこの聖句は教えているのでしょうか。

磯部豊喜

みことばの花 210315「片付け」

みことばの花 210315「片付け」 

「また、ある女が銀貨十枚を持っていて、もしその一枚をなくしたとすれば、彼女はあかりをつけて家中を掃き、
それを見つけるまでは注意深く捜さないであろうか。」(ルカ15:8 口語訳)

「片付けが嫌いなの?」と妻にやさしく言われます。引っ越しの時には、特にそうです。「片付けは嫌い」というのは半分当たっています。
ですが正解は「嫌いなのではなく苦手なのです」。最初は取っておくもの、捨てる者をきっちりと分ける事が出来ますが、やがて一緒に箱に詰め込む始末。
結局荷物は軽くならず。ゴミはこうして毎回持ち越されます。今回の引っ越しも最終的にはそうなるかも知れません。
上記の女性も「片付けが下手」なのでしょうか。大切な銀貨を無くしてしまい「家中を掃かないと」見つからないようです。
この聖句はたとえ話ですから、その本意は失われた銀貨は神様の宝物である私どもを指し、これを見つけたら神の御使いたちに喜びがあると記されています。
こういうお宝大発見の片付けでしたら良いのですが…。
主の愛が今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210314「救われる人」

みことばの花 210314「救われる人」

「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」(マルコ 16:16 口語訳)

キリスト教の救いの定義は、「罪と死からの救い」です。俗にいう「家内安全心願成就」というたぐいの救いとは、根本的には内容が異なっています。
家の中が安全であることは良いことですし、心に願うことが適えられることも素晴らしいことでしょう。
ですがそうであっても、人生の終焉にあるものは「死」。この「死」を克服する唯一の教え(約束)が聖書に記されています。
聖書によれば「死」は侵入者。「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、
こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ」(ローマ5:12 口語訳)とある。
この「死」の原因である「罪」を処理するために神の御子イエス・キリストが来られて十字架にかかって死んでくださった。
そして命を保証すべくして復活されました。
このキリストを信じてバプテスマを受ける者は、罪が赦され、永遠の滅びから救われて永遠の命を受け継ぐことができるのです。
今週も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 210313「新しく生まれる」

みことばの花 210313「新しく生まれる」

「あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。」(ヨハネ 3:7 口語訳)

今日は、千葉教会&銚子教会(聖書研究会)の担当牧師として、銚子に赴く最後の安息日となりました。
銚子教会としては何年ぶるになるのでしょう。バプテスマ(洗礼)と言って、愛の神に人生をささげて新しい人生の出発をする方々が3名おられます。
牧師としてこんなに嬉しいことはありません。バプテスマはイエス・キリストとつながって生きることの表明です。
天地万物の創造主を信じ、このお方に自分の人生をゆだねるスタートです。
これまでの自己中心の人生にサヨナラを告げ、神の導かれるままに人生をおまかせします。
これを悔い改め(生き方の向きを変える、神に心を開いて歩む)とも言います。
ですから「新しく生まれる」ことができます。真に幸せな人生に進むことができます。もはや自分にのみ頼り、頑張らなくて良いのです。
救いの神が私の人生の拠り所になるのです。

磯部豊喜