みことばの花 190823「負けて勝つ」

みことばの花190823「負けて勝つ」

「そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。
なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。」(Ⅰコリント6:7) 

2019年夏の高校野球大会が履正社高校(大阪)が,星稜高校(石川)を破り夏のドラマを終えました。
この両校の戦いの裏に、春の選抜大会で両校は対戦しこの時、履正社は星稜高校に0-3での敗北経験があった。
この敗戦が履正社を強くし、この夏で両校が決勝でぶつかる。
このような対戦自体が奇跡のようですが、「打倒星稜」を胸に履正社の球児は強くなった。
この事実は「時に人生は負けることも大切だ」と教えてくれます。
ところで上記の御言葉は、人生の本当の敗北と勝利を教えているような。
「不義を受ける。だまされること」、これは敗北の選択。
しかし自らそれを選べる人は本当に強い人だと思います。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190822「危険な季節」

みことばの花190822「危険な季節」

「わたしのいのちは常に危険にさらされています。しかし、わたしはあなたのおきてを忘れません。」(詩篇 119:109)

夏から秋にかけて台風が日本列島にやってきます。
まさに危険な季節です。
ところでこの2学期の始まる直前の8月末は、中学生たちにとって、もっとも危険な季節だといいます。
2学期が怖くて、命を閉ざしてしまう生徒がいると聞きます。
8月18日の新聞(朝日)は、その予防のための特集記事がひしめいていました。

「好きなことして、君の道を生きて」(新聞の見出し)
「自分自身を見捨てないで」(内田也哉子)
「必要のない人なんていないんだから、必要とされるものに必ず出会うから。
そこまでは、ず~っといてよ。ぷらぷらと」(故・樹木希林)

…自然災害ですが、人的な災害も注意して欲しいと共に、神様の愛も覚えて欲しいのです。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190821「悪い時代」

みことばの花190821「悪い時代」

「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。」(エペソ 5:16)

この聖句は今から約1950年も昔にパウロの書いた一文です。
今日、読んでも違和感がありません。
あおり運転が後を絶たず、ボイスレコーダーが必要な時代。家のドアもロックが必要。
戦後の日本のほうが安全。隣近所の付き合いも半ば家族のように勝手に玄関へ入れて、味噌、醤油を譲り合った。
そんな時代は過去の遺物。
「今は悪い時代」、やはりイエス・キリストに出現してもらわなければならないのでしょうか。

磯部豊喜

みことばの花 190820「新しく造られる」

みことばの花190820「新しく造られる」

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。
古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(Ⅱコリント 5:17 口語訳)

人は新しくなることはできるのでしょうか。
このみ言葉は人が新しくなうことを約束しています。
新しくなるのは、古いものが改善するとか修正されるとかそういうものではありません。
つまり「リホーム」されることではなく、「改築」されることです。
「リホーム」は土台が変わっていません。
いい人になろうと努力する人。
しかし品性の根幹は変わりません。
こういう人は人生の嵐が吹くと倒れてしまうでしょう。
ですが「改築」は、土台から変えられます。
その土台はキリストです。
キリストが人生の中心になります。
これをキリスト教用語では「新生」と呼ばれるものです。
「新生」された人は、人生の嵐が吹き付けても揺らぐことはありません。
新しく造られることを求めたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 190819「主の熱心」

みことばの花190819「主の熱心」

「弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくすであろう」と書いてあることを思い出した。」(ヨハネ 2:17) 

 「熱心」という言葉と「激しい」という言葉は似て非なるものです。
私の信じるイエス・キリストはどのようなお方だったのか。
これは私にとって最も瞑想したいことです。
イエス様のご生涯で時折見る驚くべき行動があります。
その中の一つは「宮清め」という言葉に表された出来事です。
神殿が宗教の名を借りて商売の道具にされていた時、キリストは一見激しいと見える行動を取っておられます。
縄で鞭を作り、両替人の台をひっくり返します。
これはキリストの激しい品性の一面なのではないか、と受け止める人がいます。
ですが「キリストは熱心ではあったが激しくはなかった」という言葉が私の脳裏に浮かびました。
聖書は「あなたの家を思う熱心が」と書いています。キリストのように熱心な人になりたい。
私の願いです。

磯部豊喜

みことばの花 190818「ヤベヅの祈り⑦」

みことばの花190818「ヤベヅの祈り⑦」

「ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、『どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように』。神は彼の求めるところをゆるされた。」(歴代上4:10)

ヤベヅの三つ目、四つ目の願いは「あなたの手がわたしとともにあって」と「わたしを災いから免れさせ」です。
この二つの願いが、彼のいやな名前の意味(悲しみ、痛み、苦しみ)を乗り越える鍵となっています。
そしてこの二つの願いは繋がっています。彼の願いはまず「神が自分と共にあること」でした。
神が共にいてくださればどんな災いも乗り越えて行くことが出来る。
自分の願い事をする人は多い、ですが「神が自分と共にあること」を願う人は少ない。
この二つがパックであることを覚えて、ヤベヅの祈りをささげたい。
「ヤベヅはその兄弟のうちで最も尊ばれた者であった」という結果は、この祈りあってのことだと考えられます。

磯部豊喜

みことばの花 190817「ヤベヅの祈り⑥」

みことばの花190817「ヤベヅの祈り⑥」

「ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、『どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように』。神は彼の求めるところをゆるされた。」(歴代上4:10)

ヤベヅの二つ目の願いは「わたしの国境を広げ」でした。
「国境を広げる」とはどういうことでしょう。
自分の働きの世界を広げること、存在価値を広げること…いろいろな要素が想像されます。
彼は「小さな」ことは祈らない。
これを名誉、名声を求めるかのように取られると問題ですが、ヤベヅは神を計算に入れると、こういう祈りをしたくなった。
「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」(マタイ19:26)と御言葉にあります。
「あなたの口を広くあけよ、わたしはそれを満たそう。」(詩篇81:10)との約束もあります。
大胆に「わたしの国境を広げ」と祈るヤベヅに倣(なら)いたいものです。
今日は聖なる第七日安息日、創造主にお会いしたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 190816「ヤベヅの祈り⑤」

みことばの花190816「ヤベヅの祈り⑤」

「ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、
『どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、
わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように』。神は彼の求めるところをゆるされた。」(歴代上4:10 口語訳) 

昔、「ちあきなおみ」さんという歌手がいましたが、そのヒット曲の一つに「四つのお願い」というのがありました。
実はヤベヅはまさに「四つのお願い」を神にささげています。
最初の願いは「あなたが豊かにわたしを恵み」と言って、神の祝福を求めました。
これは「あなたにはそれがお出来になります!」「神様は私にとって最も良いものを届けてくださるお力があります」という信頼の言葉です。
信頼と厚かましさは紙一重。
ヤベヅの言葉は信頼心から出ています。
心から信頼されますと、神はそれを無にはなさいません。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190815「ヤベヅの祈り④」

みことばの花190815「ヤベヅの祈り④」

「ヤベヅはイスラエルの神に呼ばわって言った、『どうか、あなたが豊かにわたしを恵み、わたしの国境を広げ、あなたの手がわたしとともにあって、わたしを災から免れさせ、苦しみをうけさせられないように』。神は彼の求めるところをゆるされた。」
(歴代上4:10) 

「過去は変えることは出来ないが、未来は変えることが出来る」とは良く聞く言葉です。
苦しみからスタートしても、それが人生を決定するのではない。
「これまで苦しかったから、これからも苦しみ続けるのが君の人生」と思わせる暗雲の声が心に響くかも知れません。
ですが「未来は変えられる」。
ヤベヅは自分の名に抗(こう)する道を神に祈りました。
この祈りは聞かれています。
「神は彼の求めるところをゆるされた」と書かれています。
愛の神への祈りは、未来を変える導火線なのです。

磯部豊喜

みことばの花 190814「ヤベヅの祈り③」

みことばの花190814「ヤベヅの祈り③」

「ヤベヅはその兄弟のうちで最も尊ばれた者であった。
その母が『わたしは苦しんでこの子を産んだから』と言ってその名をヤベヅと名づけたのである。」(歴代上4:9)

ヤベヅについて分かる第二のこと。それは彼の名の意味です。
その母が「わたしは苦しんでこの子を産んだから」とあるので難産だったのでしょうが、
「悲しみ」とか「痛み」という意味がそのまま彼の名前になったようです。
「悲(れん)」君とか「痛(いたみ)」君という呼び名が浮かびます。
このような名前を毎日呼ばれたらどんなものでしょう。
彼の人生のスタートが決して恵まれていなかったということが分かります。
ですがイエス・キリストは「悲しんでいる人たちは、幸いである」(マタイ5:4)と言われましたので、
こういう人生のスタートもありかなと思います。
悲しみは喜びの吉兆なり!

磯部豊喜