みことばの花 201119「子孫に引き継がれる賜物」

みことばの花 201119「子孫に引き継がれる賜物」

「・・・上なる天の賜物と露、/下に横たわる淵の賜物、日によって産する尊い賜物、/月によって生ずる尊い賜物、
いにしえの山々の産する賜物、/とこしえの丘の尊い賜物、地とそれに満ちる尊い賜物、・・・」(申命記 33:13~16 口語訳)

ここに7つの賜物が登場します。
実は、これは天の神を敬った結果、奴隷から古代エジプトの宰相へと導かれたヨセフの子孫であるヨセフ族の賜物を表現したモーセの祝福の言葉です。
先祖の功績は、後の子孫に受け継がれることを指しているのでしょうか。人の生き方は、彼の子々孫々に影響を及ぼす。
そう解釈しますと、自分の生き方を点検しなくては…と身が引き締まります。
確かに私の生き方は、子孫ばかりでなく、必ず誰かに何らかの影響を与えているに違いないと私は思うのです。
私の良し悪し共に…。

磯部豊喜

みことばの花 201118「困難の受け止め方」

みことばの花 201118「困難の受け止め方」

「自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。」(マルコ 4:17 口語訳)

人生の幸福について考えさせてくれる言葉を知りました。スイスの哲学者カール・ヒルティ(1833~1909年)の言葉です。
「人生の幸福は、困難に出合うことが少ないとか、まったくないということにあるのではなく、
むしろあらゆる困難と戦って輝かしい勝利をおさめることにある」(「眠られぬ夜のために」より)。これはすごく前向きな幸福感だと思います。
尼子氏の武将、山中鹿之助ではありませんが、「我に七難八苦を与えたまえ」と言い切れる人はそう多くはいないでしょう。
さて上記は、困難につぶされる人の姿を描いた言葉です。
置かれた困難を乗り越える、そのような筋書きに少しでも楽しめる者になれたらと私は願う。
そのためには心の根に主イエスが必要だと思うのです。

磯部豊喜

みことばの花201117「まず自分」

みことばの花 201117「まず自分」

「エチオピヤびとは/その皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。
もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる。」(エレミヤ 13:23 口語訳)

「人は変わる」ことが実に難しい。まさに上記のエチオピア人の皮膚やひょうの斑点のようです。
ウエストミンスター寺院の地下室にある碑文が刻まれた英国国教会主教の墓があるという。
その碑文は、「私は若いころ、世界を変えることを夢見ていた、ですが世界が変わらない。
そこで年を重ねて思った。自分の国から始めよう。だが自分の国も変わらなかった。
老年期になり、自分の国がだめなら、最も近くにいる家族を変えることにした。ですがこれも、ままならなかった。
今、死の床についてわかった、変えなければならないのは、自分自身だったと。」いう内容。
人は自分を変えられるのか。神にはできないことはないという。
その神に自らをお委ねする。すると自分、家族、国、やがて世界が変わると言うのです。
本当かどうか。まず最も難しい自分を変えることから挑戦したい。

磯部豊喜

みことばの花 201116「木には望みがある」

みことばの花 201116「木には望みがある」

「木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、/その若枝は絶えることがない。」。(ヨブ 14:7 口語訳)

木の生命力はおそらく地球の生物の中で群を抜いていると思います。
数千年という風雪に耐えて生き抜く木は、その命の力を私たちに教えてくれます。
ところで次のような聖句があります。「わが民の命は、木の命のようになり、わが選んだ者は、その手のわざをながく楽しむからである」(イザヤ65:22 口語訳)。
この聖句は、やがてきたる永世天国における人々の様子を描いたものです。私どもの現在の命ははかなくて終りがあります。
ですがきたるべき世界での命は、「木の命」のようになると神の御言葉は約束します。
生きる目的とは何か。「木には望みがある」という御言葉を提供される神を知ること、信じることだと私は受け止めます。
永遠の希望のために!

磯部豊喜

みことばの花 201115「再臨は保護のため」 

みことばの花 201115「再臨は保護のため」 ※再臨とは救い主キリストが天の雲に乗って再び来られること。

「また、古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。」
(Ⅱペテロ 2:5 口語訳) 

人類歴史の過去に一度だけ大規模な世界の終りに近い出来事がやってきました。
ノアの洪水です。ノアの洪水の意味は、義の宣教者ノアたち八人を保護するためのものだったようです。
そして聖書は、今度は水ではなく火で世界の終りが来ると予告しています(Ⅱペテロ3章 口語訳)。
これを考えると怖いことなのですが、キリストを信じる人にとってこれは脅威ではありません。主は再臨されて、彼らを天国へ招いてくださるからです。
キリストの再臨は、その日の到来を待ち望む人を保護するためのものとも言えます。
キリストの再臨を心に受け止め、共にその時の準備をしませんか。
今週も主の愛と恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201114「見よ、彼は…」 

みことばの花 201114「見よ、彼は…」 

「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。」(黙示録 1:7 口語訳)

聖書に記された多くの預言(聖書では、神様の言葉を預かるという意味があり「預言」と書く)は、条件付き預言を除いて100%成就してきました。
条件付き預言とは、神の預言を聞いた人類の応答次第で歴史が変わることです。
ですが人類の応答にかかわらず行く末が確定している預言に関してはすべてその通りになっています。
キリストの再臨の預言には、確定された部分と条件的な部分が重なっているようです。確定されている部分は、「キリストの再臨は必ずある」ということ。
条件的な部分というのは「全世界に福音が宣べ伝えられて」後にそれがあるということです(マタイ24:14 口語訳)。
ですからその日、その時はわからないのです。
「神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです」(Ⅱペトロ3:12 口語訳)は心に覚えたい聖句。
上記の聖句と共に心に刻みたいのです。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 201113「120年の説教」 

みことばの花 201113「120年の説教」 

「そこで主は言われた、『わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう』。」(創世記 6: 口語訳)

ノアの時代まで、人々の生涯は約10世紀近くの長命でした。
ところが今の人間の寿命は120年が限界です。そこで上記の聖句を読む人は、人間の寿命を予告していると解釈したりします。
ですがここはそうではありません。「彼の年は百二十年」と語られたにも関わらず、ノアから十代経っても人間の寿命は200年を下ってはいないからです。
となるとこの「彼の年は百二十年」とは何を指しているのか。これはノアに神が宣言された時より数えて洪水まで120年あるとの予告を言います。
ということは、ノアは120年もの間、「必ず洪水は来ます。ですから一緒に箱舟を造りましょう!これに乗りましょう!」と語り続けたことになります。
来る日も来る日も、耳にタコができるほどの同じ説教。ですがノアの箱舟に入ったのはわずか8人。この事実にノアは深く悲しんだのでないかと私は想像します。今の時代も同じような気がします。キリストの再臨が本当に近づいているのに、耳を傾け応答する人が実に少ないからです。

磯部豊喜
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11/14(土)ライブ配信 URLです。どうぞご視聴ください。
安息日学校 URL 11月14日(土)10:00 聖書の学び「教育」、第7課「教育における礼拝」磯部豊喜
https://youtu.be/fB4ecNPBlN0
礼拝説教 URL 11月14(土)11:00 説教題「義とされる祝福」磯部豊喜
https://youtu.be/kPFlvuHqSDg

みことばの花 201112「燃える」

みことばの花 201112「燃える」

「熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。」(ローマ 12:11,12 口語訳)

ここに「熱心」とか「霊に燃え」という言葉があります。次のような一文に触れました。
「事業経営は、マッチと同じである。自分が燃えないで、どうして相手を燃やすことができようか。」(臼井皎二/実業家)
熱心とか「燃える」という言葉は、実に魅力的な言葉です。
上記の聖句はパウロの言葉ですが、パウロはキリスト教を熱い心をもって世界に伝えた第一人者とも言えます。
その情熱はこの一文をみても明らかです。私も牧師の端くれとして「情熱」という言葉が好きですし、これを若い頃より目標にしています。
ですがこの熱心さに、陰りが生じているように思える時があります。
それだけに、実に小さなことではありますが、せめて今書かせて頂いている「みことばの花」だけは、認知症とか病気とによって体調が変わらない限り続けたいと考えています。
それにしても今日は11月11日。
いい、いい・・・一日を過ごせますように。

磯部豊喜
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※千葉教会では、毎週水曜日8:30~9:30に祈りの会を行っています。電話で参加(聞くだけでも)することが出来ます。
下記のような手順で…。①03-4578-0172、②コードナンバーをのコールがあります。③818-273-1108♯。…で入ることが出来ます。ご都合がよければどうぞ。

みことばの花 201111「真の祝福人生」

みことばの花 201111「真の祝福人生」

「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。」(ピリピ 3:7 口語訳)

無名兵士の詩の後半。「…人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるように命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが、願はすべて聞き届けられた。神の意に添わぬものであるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。」人生には求める通りにならないことがあります。
自分には益になると思っていたことが、人生という蜘蛛の巣に引っ掛かり阻まれることがある。
ですが結果としてそれが最善である場合もあります。上記の無名兵士もそうだったのでしょう。
求めた通りにはならない、ですが人生の祝福をいう視点から眺めると、病気、貧しさ…等々、それが自分のためにベストだったという。
これに併せ、わたしは上記のパウロが書き残した言葉も覚えたいと思いました。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201110「弱い者となる」

みことばの花 201110「弱い者となる」

「弱い者と、みなしごとを公平に扱い、苦しむ者と乏しい者の権利を擁護せよ。」(詩篇 82:3 口語訳)

強い者よりは弱い者が良い…との教えを聖書の随所から学びます。
上記の聖句もそうで、主は弱い者のそばに立ってくださるという。リンカーン時代の南部連合の無名兵士の詩もそうです。
詩の題は「苦しみを超えて」。
「大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、謙遜を学ぶように弱い者とされた。より偉大なことができるように健康を求めたのに、よりよいことができるようにと病気をいただいた。幸せになろうとして富を求めたのに、賢明であるようにと貧しさを授かった。世の人々の称賛を得ようと成功を求めたのに、神を求め続けるようにと弱さを授かった。…」この続きは明日紹介します。
鼻っ柱が強すぎて、なかなか弱い者になれない者ですが、真に弱い者になれたらと願うのです。
神を求め続けるために。

磯部豊喜