みことばの花 201020「ポツンと一人の時」

みことばの花 201020「ポツンと一人の時」

「弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。」(マルコ 14:50 口語訳)

「避けられる」ということは有難いことではありません。これ以上に「見捨てられる」ことも悲しいことです。
ですが私どもが人生を送る上で、時に「避けられる」ことも「見捨てられる」という事態に置かれることがあるかも知れません。
ポツンと一人になってしまう…こういう経験はしたくありませんが、そういう立場に置かれると感じることがあるかも知れません。
ですがそういう時に、覚えてほしいことがあります。それは、そのようなことはすでに神の御子イエス・キリストが味わっておられたということです。
弟子たちでさえも、キリストを見捨てて逃げ去った。彼は避けられ、見捨てられました。
それゆえに避けられ、見捨てられる人の悲しみ、寂しさをよく知っておられます。
そのような心境に包まれる時、主イエスの胸の中に飛び込んでいって欲しいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 201019「避ける」

みことばの花 201019「避ける」

「…人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」(創世記 3:8 口語訳)

この聖句は、数日前にも「神の顔」という題で紹介しましたが、今日は「神の顔を」に続く「避けて」という言葉に着目しました。
相手を「避ける」という行為は、「避けられる」側としては本当に残念で悲しいことではないかと思います。
讃美歌にも「などて愛の光を避けてさまよう♪」という歌詞があります。
神は愛の深いお方なので、本来は「避ける」必要はないのですが、どこか神様というと煙たくなってしまう心を持つ人が多いと思います。
「触らぬ神に祟りなし」と誰が語ったか分かりませんが、「神を友として」迎えるよりも、「近づき難い存在」として受け止めている人が多い気がします。
ですが「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」(ヤコブ4:8 口語訳)と聖書記者ヤコブは書いています。
心に覚えたいみ言葉です。真の神は、ご自分に近づく者を喜んでくださいます。

磯部豊喜

みことばの花 201018「音楽」

みことばの花 201018「音楽」

「ところが、兄は畑にいたが、帰ってきて家に近づくと、音楽や踊りの音が聞えたので、」(ルカ 15:25 口語訳) 

また「音楽」の巨匠と言われる人がお亡くなりになりました。「筒美京平」さんです。
今年は「エール」というNHK連続ドラマが高視聴率で放送されています。こちらは戦中戦後の作曲家「小関裕而」さんをモデルにしているとのこと。
「筒美京平」さんは、レコード販売日本一だそうです。
「ブルー・ライト・ヨコハマ」とか「サザエさん」とか多くのヒット曲を作られた人で、私の記憶にも多く残っています。
人の歴史には音楽がつきものです。上記は、キリストの語られた「放蕩息子」のたとえ話の一コマですが、ここにも「音楽」が登場します。
音楽は悲しみ、喜びなど人の心に寄り添っています。歴史が次のステップを迎えて、天国がこの世界に入れ替わっても、音楽はそこにあると思われます。
聖書は、「神の僕モーセの歌と小羊の歌とを歌って」(黙示録15:3 口語訳)と書いています。
これはきっとこの地上の音楽とは比にならぬ美しい調べだと私は想像します。
「みことばの花」読者の皆様と共に、この歌を歌えればと夢見ています。
今週も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201017「選びを選ぶ」

みことばの花 201017「選びを選ぶ」

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。…」(ヨハネ15:16 口語訳)

「人間に備わっている宝は、選びの力」だと思います。
朝目覚まし時計が鳴って直ぐに起きることも、目覚ましのスイッチを切ってそのまま眠ることも選ぶことも出来ます。
信仰も同じで、神を信じることも信じないことも選ぶことが出来る。
ところで上記の聖句は、キリストがその弟子たちに語られた御言葉。
「あなたがた」を「弟子たち」と置き、「わたし」を「キリスト」と置いて読むとよく分かります。
キリスト信仰は、キリストの選びから始まります。キリストが私というものを選んでくださっている。この事実に気付くことが信仰の始まり。
信仰とは、結局のところ「キリストに選ばれている」ことに感謝し、キリストの選びに応答しキリストを選ぶこと。
「選びを選ぶ」ことです。
今日は第七日安息日、「創造主の選びを選んで」、創造主を礼拝するのです。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 201015「救い…神の賜物」

みことばの花 201015「救い…神の賜物」

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。」(エペソ 2:8 口語訳)

聖書の教えの神髄は、「キリストが私の救い主」ということです。
ところが多くの思想で教えられる救いは「わたしが自分を救う」と救い主を自分に置いていることです。
「自分が悔い改めて良いことをすれば救われる」「自分が信仰的な生活をすれば救われる」とこれらの思想は語ります。
ですがそのソースをたどると、結局、救い主は自分。「良いこと」を行うことや、「信仰的な生活」をすることは決して悪いことではありません。
ですがこれは聖書が教える救いの条件ではありません。聖書は、徹底的に人の救いは神の賜物(プレゼント)であると教えます。
人は簡単にはキリストを信じません。真の信仰はキリストとの出会いの中で始まります。救いを求める心も、キリストが与えてくださいます。
注がれる神の恵み、与えられる信仰、これは神の賜物です。
今日も主の救いの恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201014「十字架の右と左②」

みことばの花 201014「十字架の右と左②」

「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。」(ルカ 23:33 口語訳) 

昨日の続きです。キリストと共に十字架に架けられた二人の男。
一人は人生の最後の最後まで心を変えられない人。一人は自分の人生をおさらいして、反省した人。
前者についてキリストの態度には、何の変化ももたらすことはありませんでした。この男には何も語ることはできなかった。
ですが後者に対しては、まったく違います。キリストは、彼に向き合い、「あなたは天国に入る」と言われました。
彼も最初はキリストをもう一人と共にのろっていたのです。ですが今はそれを気にされません。
この男がキリストへの解釈を変えたとき、キリストは彼を喜ばれた。これが人生の分かれ目のような気がします。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 2001013「十字架の右と左①」

みことばの花 2001013「十字架の右と左①」

「されこうべと呼ばれている所に着くと、人々はそこでイエスを十字架につけ、犯罪人たちも、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。」(ルカ 23:33 口語訳) 

先日同じ出来事に遭遇しても、異なる解釈をする人があるということを書かせて頂きました。
実はその事例の一つが、キリストと共に十字架に架けられた右と左の人たちです。彼らは「強盗」(マルコ15:27 口語訳)でした。
受刑者である彼らは、通りかかった人々のあざけりの言葉に同調して、はじめは「イエスをののしった」と記されています。
その時彼らの耳に、キリストの口から「父よ、彼らをお許しください」との言葉が聞こえました。
一人の男は、死ぬ間際までキリストを受け止めることなく「ののしり続け」たようです。
ですがもう一人はキリストへの態度を変え、自分の罪を悔い、イエスへの信仰を告白しました。
この二通りの生き方は、どのような結果になったのでしょう。明日に続きます。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201012「富を増す」

みことばの花 201012「富を増す」

「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。」(箴言 11:24 口語訳)

世には不思議な法則があります。自分ファーストで生きる人というのは、計算上は自分の富は増すはずなのですが、
長い目でみますと、貧しくなる人がいます。
一方、他人ファーストで生き、人に施すことを選ぶ人は、どこからかその施しが自分に返ってきて、
かえって豊かになる事実を私はしばしばこの目で見て来ました。
こういうことは理屈ではないのです。理屈を超えた何かが働いている気がします。
この何かを、瞑想するとき、ここにも人知を超えた見えざる神の手が働いているということが出来るのかも知れません。
確かに、上記の御言葉は真実です。愛を与えれば愛が返ってくる。笑顔を注げば笑顔が返ってくる。
挨拶を交わせば挨拶が返ってくる。富を施せば、富が返ってくる。結局、常に私の生き方が問われるのだと思います。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201011「完成を目ざして」

みことばの花 201011「完成を目ざして」

「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。…」(ヘブル 6:1 口語訳)

横浜流星(よこはまりゅうせい)という若いタレントさんがいます。
この人が、映画を鑑賞した大学生29人を相手にリモート形式の特別講師に呼ばれ、
学生から「どうしたら横浜さんのようにカッコよくなれるか」と問われた時、「え~分からないです。
僕はかっこいい人間ではないし、そう思ったことはない。
本当にポンコツですし…」照れつつも、続けて「自分の中で大切にしていることがあって、何か自分がやりたいことという明確な目標を作って、
その目標を諦めずにしっかりと達成できるように。
達成出来なくても続けることが大切だなと思って僕は生きています」。
しっかりとした24歳の若者だなと思いました。上記の聖句にも、「完成を目ざしてすすもう」とあります。
人生に目標を持ち、それを目指すことは大切なことだと思います。
今週も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201010「二人の主人」

みことばの花 201010「二人の主人」

「だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。」(マタイ 6:24 口語訳)

人生は常に選択の連続。また解釈の連続です。良い選択が人の幸福に結びつきますし、良い解釈は人の心を平和に導きます。
上記に「ふたりの主人」という言葉があります。
これも選択の岐路に立つときに、あなたはどちらを選びますかとの問いを語るキリストの言葉です。
「二者択一」を迫る言葉です。これには次のような言葉が続きます。
「一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」
自分が幸せであるためにはどちらを選ぶのが本当に幸せなのかをよく考えたい。
また同じことに遭遇しても、解釈の選択は大切。例えば新型コロナをどう解釈するか。
単に「嫌なやつ」と解釈するか「私の自分の人生を見直す何かを教えている」と解釈するか。
10日は「コロナからの手紙」というメッセージを用意しました。
SDA千葉教会ホームページを開いて覗いて頂ければ幸いです。
ホームページアドレスは http://sda-chiba.org/

磯部豊喜