みことばの花 201030「耐え忍ぶ心」

みことばの花 201030「耐え忍ぶ心」

「事の終りはその初めよりも良い。耐え忍ぶ心は、おごり高ぶる心にまさる。」(伝道 7:8 口語訳)

昔、中国では生まれた乳をあげる前に行ったとされる「五香の儀式」というものを知りました。
それはまず「酢をなめさせる」、次に「塩をなめさせ」「にがい薬をなめさせ」「とげのある、かぎかずらをなめさせる」。
最後に「砂糖をなめさせる」ことを順番に行ったそうです。
これは人生においてすっぱく、からく、にがく、そして痛い目にあって、ようやく甘いものにありつけることを体験させる意味があったとのこと。
確かに、人の幸福感や達成感は、おそらく叱られ、悩み、壁にぶちあたり、多くの苦難を乗り越えて、初めて味わえるもの。
真の喜びは、これを経て深まることを教えてくれます。こういう体験もなく、人生の荒波に飛び込むとどうなるでしょう。
いきなり甘い汁を味わうのは、とても危険な気がします。
聖書の人物や物語を調べる時、確かに人生の苦難を経、「耐え忍ぶ心」が鍛えられ、その向こうに輝く人生があるように思います。

磯部豊喜
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10/31(土)ライブ配信 URL を送ります。

安息日学校(聖書の学び) URL 10月31日(土)10:00 2020年第Ⅳ期 5課「偉大な教師としてのイエス」 磯部豊喜
https://youtu.be/vJ6pSq0Hlds

礼拝説教 URL 10月31(土)11:00 説教題「人生珠玉の叫び」磯部豊喜(子供の話:井本良治)
https://youtu.be/iJ_qhWlGuog

みことばの花 201029「満足」

みことばの花 201029「満足」

「金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。」(伝道 5:10 口語訳)

人生を送る上で、私は何をもって満足するのだろうか、と自問することがあります。
先日「幸福度」(みことばの花201023)とかいう一文を書かせて頂きましたが、そこでは「受けるよりも与えるほうが幸いである」とのみ言葉に触れました。
結局「幸福度」というのは「本当に満足できているか、否か」で測られることだと思います。
上記の聖句には金銭、富…という言葉が出ていますが、これらはそれなりの満足を与えるかも知れませんが、人の心に本当の満足を与えないというのが著者の結論です。
これを書いた人はソロモン王。彼は知識も財宝も権力も手にした。ですが彼は真の満足に至らなかった。
真の満足は、そのようなものでは測れない。誰かのために命をかけられる人こそ、本当の満足を堪能できると思います。
人は誰かを生かして、生きがいを持つ。そのように造られているのだと思います。

磯部豊喜

みことばの花 201028「境遇に処する秘訣②」

みことばの花 201028「境遇に処する秘訣②」

「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、
ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。」(ピリピ 4:12 口語訳)

今日は、カーネギーの人生(経済)哲学を紹介したい。
彼は常に財産の運用において、どうしたら財産の信託主である社会の利益になるかを考えていました。そこで次のようなことを展開。
①助けるべき相手は、自助努力している人を基本とする。=はじめから働く意志のない者を助けることはしない。
②富をもって死ぬのは不名誉なことである。=得た富は貧しい人々のために役立つ有益な事業に使用する。
彼自身の生活はつつましかった。彼は富に生きず(支配されず)、富を生かす(支配する)者として歩んだのです。
こういう生き方は素敵だと思います。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201027「境遇に処する秘訣①」

みことばの花 201027「境遇に処する秘訣①」

「わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、
ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。」(ピリピ 4:12 口語訳)

この聖句に触れ、わたしは鉄鋼王と呼ばれたアンドリュー・カーネギー(1835-1916年)という人を思います。
彼はスコットランドから米国へ渡った貧しい移民者の子。学校教育は10歳までしか受けていない。彼は極貧の中で「いつか貧困を追い出してやる」と決意した。
12歳になって初めて紡績工場に就職し、1ドル20セントの週給を得た時、決して高くはないが、とても感謝したという。
カーネギーは18歳になるまで4度転職したが、その間、勉強だけは欠かせなかった。
4度目の就職先は、ペンシルヴァニア鉄道。月給は35ドルで人並み以上の収入。その後、寝台車会社への投資が成功し、それをもとに起業家となった。
ですが彼は「自分のために地上に宝を積む」(マタイ6:19 口語訳)富豪ではなかったのです。

磯部豊喜

みことばの花 201026「エール」

「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」(ローマ 5:5 口語訳) 

「神の存在を問う若者のように、なぜ、どうしてと自分の身を振り返ってとるうちは希望は持てません。
どん底まで落ちて大地を踏みしめ、共に頑張れる仲間がいてはじめて真の希望が生まれるのです。
この希望こそ、この国の未来を作ると私は信じています」「僕もその若者のように自分のことになっていました」「あなたは戦争中人々を応援しとった。戦争が終わった今、あなたに出来ることは何ですか」「変わりません、応援する歌を作り続けます」「希望をもって頑張る人にエールを送ってくれますか」「はい」…作曲家小山祐一(モデルは小関祐而)と長崎の原爆後、自身被爆者ながら任務を果たした医者(モデルは永井隆)との会話です。
軍歌を作り、戦後苦しんでいた小山さんが立ち直るきっかけとなったとされる、朝のテレビドラマ「エール」の中の名シーンです。
ここで私は「希望は失望に終わることはない」という上句の御言葉を思いました。

磯部豊喜

みことばの花 201025「鐘」

みことばの花 201025「鐘」

「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。」(Ⅰコリント 13:1 口語訳)

「長崎の鐘」のことを知りました。
1945年8月9日11時2分、長崎「浦上天主堂」の上空500メートルで、原子爆弾が爆発、天主堂は破壊し多くの犠牲者が出たという。
この時の鐘が地下に埋もれ、奇跡的に掘り出され、再びその鐘が鳴らされた。これは被爆後の人々への希望の鐘の音だったという。
ところで「鐘」を聖書で探すと、上記の一句がありました。ここでは鐘は「愛がなければ」の文脈の中で否定的に描写されています。
ですが「長崎の鐘」は希望と愛の鐘の音であったに違いない。
この希望と愛の鐘は、私の心の中でも鳴らすことが出来るのです。主イエスを見上げるならば…。
主の恵みが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201024「正直であること」

みことばの花 201024「正直であること」

「彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。」(黙示録 14:5 口語訳)

今朝この聖句は、私の心を深く突き刺します。
「彼らの口には偽りがなく」、このような生き方を求めているつもりが、実は私の口を映す録画ビデオを巻き戻して振り返ってみると、不合格とされるのが明らかだと自認するからです。
私は「正直」という言葉が好きです。ですが「正直」を貫くことの難しさは、66歳になった今でも感じることがあります。
時に適当に言い逃れをして、その場を切り抜けようと咄嗟に判断する器用さが自分にはあるからです。
もちろん「馬鹿正直」というのは、愚かなこと。何でもさらけ出す必要はありません。
ですが正直でなくてはならない時に、適当に誤魔化す心が問題です。
堂々と生きる生き方を、この聖句を見つめて日々仕切り直したいと願うのです。
今日は安息日、「傷のあるまま」の自分をさらけ出し、すべてをご存じの上、こんな者でも受け止めてくださる十字架の主を信じ拝顔したいと思う。
ハッピーサバス!

磯部豊喜

みことばの花 201023「幸福度」

みことばの花 201023「幸福度」

「わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教え示したのである」。」(使徒 20:35 口語訳)

「あなたは幸福ですか?」と聞かれたら何と答えるでしょう。
昨日、この質問を介護施設でお働きになっている方々の朝礼で投げかけてみました。
「はい」という人、「まあまあ」という方もあれば、沈黙された方もおられました。
次は米国のシカゴ大学での実験。96名の被験者の学生たちに5日間にわたり1日5ドルを支給し、このお金を自分のために使うグループと、自分以外の誰かのために使うグループに分け、両者の幸福度を報告してもらったそうです。
時間の経過に伴い、前者は幸福度が低下し、後者は幸福度が上昇する傾向が明らかになったという。
与えることは、自分の持ち物ものを減らすことですが、幸福度は増加するようです。
与える生き方を選びたいものです。

磯部豊喜
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10/24(土)ライブ配信 URL です。
安息日学校 URL 10月24日(土)10:00  2020年第4期SS聖書の学び 4課「主の目―聖書の世界観」 小林勝牧師
https://youtu.be/21lUd1j-JCI
礼拝説教 URL 10月24(土)11:00 説教題「見える信仰」 小林勝牧師(教団信徒伝道部長)
https://youtu.be/bAkfWFTP67U

みことばの花 201022「怒りの子

みことばの花 201022「怒りの子」

「また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。」(エペソ 2:3 口語訳)

「生まれながらの怒りの子であった」。ここに書かれているように現在形でなく過去形で記されることは素晴らしいことだと思います。
今、教会で祈祷週という共に祈る会を毎日持っています。
祈祷週読み物というのがあって、それを読むたびに、自分のキリスト者生活の至らなさを心に実感し、それを互いに見つめあっています。
「怒りの子」とは無縁とも思えるような人であっても、「まだ自分の心にはそのようなものが残っている」と告白したりもします。
「怒りの心」が頭にもたげるとき、どうすればようのでしょう。
「怒りがこみ上げて、抑えられなくなったとき」、十数えるという方法もありますが、一番良いのは「祈る」ことだと思います。
「神様、穏やかな心にしてください」と。この祈りは聞かれます。
今日も穏やかな一日でありますように。

磯部豊喜

みことばの花 201021「生きることに疲れたら」

みことばの花 201021「生きることに疲れたら」

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ 11:28 口語訳)

上記はきわめて有名なイエス・キリストのみ言葉です。ここには「元気な者は」とか、「充実している者は」とか語られてはいません。
「重荷を負うて苦労している者は」と語られています。
ある日、次のような讃美歌の歌詞に触れました。「生きることに疲れたら、イエスの胸に中にゆだねてごらん♪」。
昨今、新型コロナのために仕事を失った人が6万人もいると新聞に書かれていました。
またシングルマザーで赤ん坊を抱えて、食べ物もないという人もいると…。まともな食事を摂れていない子供が多くいるという報告も。
社会保障制度のあるこの国で、「重荷を負うて苦労している者」が多くいるという。その一方で、仕事があり家族もあり、家土地も財産もある。
ですが心が渇いている人がいます。
この人生砂漠がこの国にあるとしたら、この主のみ言葉を、もっと伝えなくてはならないと思うのです。

磯部豊喜