みことばの花 191223「なにゆえに」

みことばの花 191223「なにゆえに」

「なにゆえにわたしは胎内を出てきて、悩みと悲しみに会い、恥を受けて一生を過ごすのか。」(エレミヤ 20:18 口語訳)

この世の生活は決して順風満帆ではありません。
自分でこうしたい、ああしたいと思っていても思うように事が運ぶとは限りません。
悩みが尽きないのが、私どもの人生かも知れません。
上記の言葉を書いたエレミヤは、自分が直面する過酷な人生に向かって叫んでいます。
こういう時、神を呪いたくなる心境になるときがあります。
ですが、そのような時に、次のキリストのみ言葉は、私たちの心を落ち着かせてくれます。
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33 口語訳)
悩みのない人生はない。
私は常に神を信じる(信頼する)人になりたいと思う。
今日も主の恵みがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 191222「突然」

みことばの花 191222「突然」

「…しかし時と災難はすべての人に臨む。人はその時を知らない。魚がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、
人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時、それにかかるのである。」(伝道 9:11~12 口語訳) 

涙声で「今、母が亡くなりました…」、
続いて「(交通事故に遭いICUで治療を受けている)父が高次脳機能障害と診断されました…」という報せ。
厳しい報告が、立て続けに牧師である私の耳に届いてきます。
「災難」は「突然」にやってくることを肌身に感じます。
今何を果たすべきか。悲しいかな我が身は一つ。クリスマス時期でもあり、すべきことが多く頭をよぎる。
こういう時、心を落ち着かせてまず「祈り」をもってスタート。
得た結論、慌てずに祈りつつ一つ一つを丁寧に向き合うこと。
「大丈夫、頑張れ!」と我が身を励ますこと。
主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 191221「低く」

みことばの花 191221「低く」

「人はかがめられ、人々は低くせられ、高ぶる者の目は低くされる。」(イザヤ 5:15 口語訳)

人は高ぶる人よりも、なぜか自らを低くする人に魅力を感じる。
しかし自分はというと低くなることよりも高くなることを求める。
自分はこんなものじゃない、もっと評価されてしかるべきだ…と思ったりはしないだろうか。
今年もクリスマスの季節がやって来ました。
クリスマスとは何か。それは高いところの神が何と低い位置に立たれた出来事なのです。
神が人になった、このあり得ない出来事がクリスマス。
この神の心を、私の心に刻みたいものです。
今日は第七日安息日、千葉教会ではクリスマス音楽礼拝(11:00)、午後はファミリークリスマス(13:30)、
そして明日はクリスマスコンサート(14:00)と続く。
神が人となられたクリスマスの意義を瞑想する時を共に過ごしたいと思います。

磯部豊喜

みことばの花 191220「治癒」

みことばの花 191220「治癒」

「その時モーセは主に呼ばわって言った、『ああ、神よ、どうぞ彼女をいやしてください』。」(民数記 12:13 口語訳)

今年2月、白血病告白と共に「私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、
自分に乗り越えられない壁はないと思っています」と語り、
闘病生活に入られた日本水泳界の星、池江璃花子選手が退院されたとの嬉しい報告を聞きました。
10か月前、池江選手のことを聞き、私は上記の聖句のような祈りを捧げました。
主は多くの方々の祈りや池江選手自身の信仰告白も受け止めてくださったに違いない。
主の御心がそこにあれば事はなる。今日も主の恵みがありますように。

みことばの花 191219「すべての人の息は」

みことばの花 191219「すべての人の息は」

「すべての生き物の命、/およびすべての人の息は彼の手のうちにある。」(ヨブ 12:10 口語訳)

今日を数にいれ今年もあとわずか13日。
今年も多くの日々が過ぎ去っていきました。
教会ではこの時期、クリスマス(キリストの誕生)を意識し、クリスマスに関わる集会が続きます。
ところで2019年が始まる時、そのキャンバスは白紙。
いろいろな出会いがあり、別れがあるとは想像も出来ませんでした。
年が明けて12日目に私の母が「しばらくの眠り」につきました。
また多くの大切な方々を亡くしました。
人生初のライブをしたり、強い台風の直撃を受けたり…予期せぬことがいっぱいありました。
これらを考えると「すべての人の息は彼の手のうちにある」とあるみ言葉が身に染みます。
自分で生きているのではない、ということを幾度も見つめさせられます。
今日も主の守りがありますように。

磯部豊喜

みことばの花 191218「臨終の前に」

みことばの花 191218「臨終の前に」

「信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。」
(ヘブル11:21 口語訳)

最近、わたしが関わりを持っている人の中に「人生の最期の日」を意識して、病床生活を送っている方がいます。
この方が「自分の人生の最期にあたって出来ることは何か?」と質問されます。
「一緒に考えましょう!」と答えることしか出来ません。
というのは私にはそのような切羽詰まりがないからです(本当は、人はだれも明日のことは誇れないのですが…)。
さて、上記はそのように問われる人に対する聖書のヒントの一つかも知れません。
「ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し…」
「ヨセフの子ら」とはヤコブにとって孫たちのことですが、これから人生を送る若者たち、これからの人生を送る者たちを祝福した、
そういう選択も、良き終活(人生の終わりのための活動)かと思います。

磯部豊喜

みことばの花 191217「祝福②」 

みことばの花 191217「祝福②」  *は筆者の補足。

「悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。
あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。(Ⅰペテロ 3:9 口語訳)

上記は「祝福」という言葉が聖書に登場する最後の箇所です。
「祝福」とは①前途の幸福を祈り、いわうこと、②キリスト教で、神から賜る幸福、と岩波国語辞典にあります。
悪には悪をもって、悪口には悪口でお返ししたくなる…これが生来の人の思いなのかも知れません。
ですが聖書は違います。「かえって、祝福をもって報いなさい」と教える。
自分を不幸に陥れる者をさえ、その相手の幸福を願うのだと教える。
これは感情的に生きる人にはできない芸当でしょう。
ここに必要なのは意志だと思います。
そういう生き方をすることに決めたという強い決心がなくては難しい。
意志は選択の力。
この意志を貫く時、「(*神からの)祝福を受け継ぐ」という約束があることを覚えていたいものです。

磯部豊喜

みことばの花 191216「祝福①」

みことばの花 191216「祝福①」

「神はこれらを祝福して言われた、『生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ』。」(創世記 1:22 口語訳)

昨日「口を閉ざす」ことについて触れましたが、口がついている限り、語ることが人には許されています。
問題は「何を語るか」でしょう。
「人を呪う言葉」などはもっての他ですが、どんな言葉を発したらよいのか…と瞑想しました。
その時に上記の聖句が頭に浮かびました。
これは「祝福」という単語が最初に聖書に出てくる箇所。「祝福」の言葉は、神様が大好きな言葉に違いない。
人を引き下げたり、人を傷つける言葉がこの唇からもれないようにしたい。
むしろ「祝福を語る」者になりたいものです。
「憎しみのあるところには愛を、非道のあるところにはゆるしを、疑いのあるところには信仰を、暗闇のあるところには光を、悲しみのあるところには喜びを…」はアシジの聖フランシスの言葉。
これに「呪いのあるところには祝福を…」を加えたいと思うのです。

磯部豊喜