みことばの花 190422「自分を知る」

みことばの花190422「自分を知る」

「わたしは自分のしていることが、わからない。
なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。」(ローマ 7:15)

上記のみ言葉を書かれたパウロのように言える人は良い。
まだ自覚があるからです。
ところが「自分がしていることが、わからない」とも言わず、本当に自分のことを知らないとなるとどうでしょう。
私は時々、自分のしていることを知らせてくれるセンサーが欲しいと思うことがあります。
果たして私はどんな毒素を周りに撒いているのか…考えるとそら怖いものです。
神のみ言葉、聖書は自分を知る一つの心の鏡。
この鏡の前に立ってみると、自分の汚さがよく見えてきます。
今日も主の光を見つめて行きたい。

磯部豊喜

みことばの花 190421「福音に預かってほしい」

みことばの花190421「福音に預かってほしい」

「福音のために、わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである。」(Ⅰコリント 9:23) 

宣伝で「埼玉県民には草でも食わせておけ」とひどい言葉が語られる映画「跳んで埼玉」が大ヒット。
埼玉県観光課では、「逆説的だが、埼玉への関心を高めてくれる大チャンス」と好意的。
ところでこのような「自虐広告」の草分けは島根県。
「日本で47番目に有名な県」とうたいました。
茨城県では「のびしろ日本一」。
魅力度ランキングで全国最下位が続いたのを逆手にとった広告です。
三重県志摩(しま)市のテーマパーク「志摩スペイン村」が今年、「並ばないから乗り放題」などと来場者の少なさを自虐広告。
すると3月には学生の来場者が前年の倍になったという。
さて、この自虐広告を教会に当てはめ、「疲れを癒す(=安眠?)牧師の話」などはいかがか。
何であれ一人でも教会に来て、福音に預かって欲しいと私は願うのです。

磯部豊喜

みことばの花 190420「神殿燃ゆ」

みことばの花190420「神殿燃ゆ」

「イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。
そこでイエスは彼らにむかって言われた、『あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。
よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう』。」(マタイ 24:1,2)

ノートルダムの大聖堂の尖塔(せんとう)が燃え崩れました(4/15~16)。
この大聖堂はフランスのパリの象徴でありユネスコ(国連教育科学文化機関)世界文化遺産でもある建造物ですので驚きと共に痛みを覚えました。
火事の映像を見て、私は聖書の中にある上記のみ言葉を思いました。
こちらはユダヤの大神殿が崩落するというキリストの預言です。
この預言がなされて約40年を経、キリストの予告通りになりました。
現在、その神殿の一部が「嘆きの壁」として残っており、参拝者たちが涙を流して祈る光景を見ます。
私たちは神殿に心を奪われてしまいますが、実は神殿よりも大いなるお方がおられることを覚えたい。
それは神様です。神殿は燃え崩れても神ご自身は決して破壊されることはない。
今日は第七日安息日、大いなるお方、主を礼拝しませんか。

磯部豊喜

みことばの花 190419「つもり」

みことばの花190419「つもり」

「そこで、バルナバはマルコというヨハネも一緒に連れて行くつもりでいた。」(使徒 15:37)

上記の聖句には、バルナバという人が若者マルコを宣教に連れて行く心つもりを持っていることを示した言葉です。
人はしばしばこのように「つもり」(心に意とするところ)を抱くことがあります。
ところでこの「つもり」はあっても、現実は違う場合もあるそうな。
「つもり違いの十ケ条」という言葉を知りました。

①高いつもりで低いのは教養、
②低いつもりで高いのは気位、
③深いつもりで浅いのは知識、
④浅いつもりで深いのは欲、
⑤厚いつもりで薄いのは人情、
⑥薄いつもりで厚いのは面の皮、
⑦強いつもりで弱いのは根性、
⑧弱いつもりで強いのは我(が)、
⑨多いつもりで少ないのは分別、
⑩少ないつもりで多いのは無駄。

このように現実は、「つもり」とはかけ離れいている場合もあるようです。
現実とつもりが一つになれば良いのですが…。

磯部豊喜

みことばの花 190418「開けよ」

みことばの花190418「開けよ」

「天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。」(マルコ 7:34)

一昨日の夜、耳垢掃除をしたのですが、なぜか片耳の垢を取り損ねてしまい却って聞こえなくなりました。
片耳が耳栓をしたような状態になってしまい焦りました。
そして昨日の朝、はじめて耳鼻科のお医者さまのお世話になりました。
とても痛かったのですが、間もなく音が甦りました。
自分の力では限界でしたが、お医者さまは見事です。
私はこの治療を受けて、かつてキリストが耳垢除去ではなく、そのみ言葉で聴覚障がい者の耳を癒されたことを思い出ました。
そして音を聞ける喜びと共に、もっと良い声を聴く心の耳を養わなければと教えられたのです。

磯部豊喜

みことばの花 190417「穏やかに信頼する」

みことばの花190417「穏やかに信頼する」

「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、
「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。
しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。」(イザヤ 30:15)

「自暴自棄の歩みに気をつけよ。明日を待ちさえすれば、最悪の日は過ぎ去るのだ」という言葉があります。
「キリストはあなたの誘惑の力と、これに抵抗するあなたの力をご存知です。
キリストの御手は、悩める一人一人のために、やさしい哀れみの中に、いつも差し出されています。」
(以上、「青年への使命」p90からの引用)。
神の哀れみの御手は決して疲れないので、「穏やかに信頼しているならば力を得る」と、
主は私どもの心に語り掛けてくださっています。
主を信頼することを好まない生き方は避けなくては…と教えられます。

磯部豊喜

みことばの花 190416「試練という役割」

みことばの花190416「試練という役割」

「わたしの兄弟たちよ。
あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」(ヤコブ 1:2) 

このような素敵な言葉に出会いました。「試練にあうこともあるでしょう。
しかし神は、その試練を通して、あなたの品性の粗野なところをみがいてくださるのです。
ぐちを言ってはなりません。ぐちは試練をいっそう苦しいものにします。…重荷に辛抱強く耐えなさい。
人から悪いことをされても、心の中に神の愛を持ち続けなさい」(青年への使命p89)。
ここに人生の試練を豊かに乗り越える秘訣が書かれているような気がしました。
試練に対して、「あ~いやだ!」と言ってその渦中に自己を埋没させるのではなく、
試練をわたしの成長を助けてくれる人生の教科書だと受け止めてみる。
この学科は、おそらく何物にも替え難きものになるに違いないのです。
主の守りが今日もありますように。

磯部豊喜

みことばの花 190415「自己否定(じこひてい)」

みことばの花190415「自己否定(じこひてい)」

「人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。
主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、
へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」(ミカ 6:8)

昨日の「自己肯定」とは真逆表現ですが、「自己否定」ということも瞑想したい。
自分の存在は肯定(こうてい)し、わがままな自分は放置しない。
これを「自己否定」だと私は理解しています。
みことばはこれを「へりくだり」と語ります。
へりくだって、今日も主と共に歩みたいものです。

磯部豊喜